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シルクロード――喀什編①

2009-11-27 10:29:08 | シルクロードの旅
漢字で喀什、カタカナでカシュガル

喀什はカーシーと発音する中国語で

カシュガルの前半だけをとった中国式呼称だ

カシュガルはウイグル語で玉の市場などを意味する

古くから東西交流の拠点として栄え

それゆえに主流のウイグル族と漢族のほか

居住している少数民族は15を数える

東と西の社会のせめぎあいの中で生きてきた町だ


参考:中国観光専門サイト―西部旅情クラブ

シルクロード――庫車編③

2009-11-23 09:31:34 | シルクロードの旅
砂漠に点在する仏教遺跡の数々

郊外に目を転じてみると、数々の遺跡が点在する。いずれも砂漠の中に立つものだけれど、この地域の長い歴史を体現する史跡として興味深く感じられるはずだ。

まず訪れてみたいのが、キジル千仏洞だ。クチャからは西北に約70kmほど行った拜城県にある石窟。ムザルト河北岸の断崖にあり、その長さは延々2kmにもおよぶ。新疆でも最大規模の石窟とされる大きさだ。

現在230余りの石窟が確認されていて、仏殿と僧坊で構成される。この中で最大の見どころとなるのは第38窟で、一般には楽舞洞の名で知られている。入口の壁の上には弥勒菩薩が描かれ、天宮伎楽図(4世紀頃の作)がある。伎楽天の持っている楽器は、弓型ハープ・五弦琵琶・横笛・ひちりき・阮咸などで、日本の雅楽のルーツともいわれている。

特に興味深く感じられるのは琵琶で、琵琶の起原はペルシア・アラビアとされ、やがてインド・西域・中国を経て、奈良時代に日本に伝来した。シルクロードを伝わってきた楽器を始めとして、さまざまな文化の源流をさかのぼることができるものとして注目されている。

そもそも亀茲国が名高い理由の一つに、亀茲音楽がある。この亀茲音楽は現在もウイグルに引き継がれて今日までのこっているが、クチャに残る遺跡の数々は、当時の繁栄を偲ばせてくれるもの。

この他、仏教経典に関わる故事や人物・山水・動物など、さまざまな種類の壁画が精巧に描かれている。このため多くの調査団が現地でさまざまな発掘調査を行うなど、キジル千仏洞の石窟は専門家から注目されているほど。

クチャの西南、約30kmのところにあるのは、クムトラ千仏洞だ。その昔、玄奘が立ち寄り講演を行ったという場もあるクムトラ千仏洞は、ムザト川の渓谷の東側に位置する。これまでの発掘により、全部で112の石窟が明らかになっているが、石窟には月神、風神などが描かれていて興味深い。また珍しい亀茲文字も見ることができる。

クチャの北方にあるのは、クズルガハ烽火台。砂漠の中の小高い丘の上に立つ土の塔で、漢の時代に造られた狼煙台だ。高さ16mで、上には望楼がある。その昔、約15kmおきに狼煙台が造られ、急を告げる場合にはここから狼煙台が上げられたという。

クズルガハ烽火台の近くには、クズルガハ千仏洞がある。唐の時代に造られたもので、仏殿と僧坊の石窟が確認されているが、なかでも僧坊が多いのがこの石窟の大きな特徴だ。

クチャからほぼ北に車で40分ほど行ったところにあるのは、スバシ故城だ。クチャ川の東西両岸にまたがって造られたもので、新疆最大規模の寺院遺跡として注目を集めている。

創建されたのは3世紀頃とされ、玄奘が各地の仏教の状況のほか文化・風俗などを書き記したインド・中央アジア旅行見聞録の『大唐西域記』には、「川の東、西には二つ伽藍あり昭怙厘と称す。東昭怙厘仏堂中には玉石あり、黄白帯びた海蛤である。また仏の足跡もあり、長さ八寸、広さ六寸・・・・・・」と記載されているが、この記述がスバシ故城ではないかと言われている。

ここからは貨幣や壁画・仏像・銅・鉄・陶器・木器なども出土し、仏塔や千仏洞の跡や壁画なども残り、当時の繁栄ぶりと仏教の広がりを物語っている。

このほかに、クルクダグ山の麓に、センムイム石窟がある。谷川に沿って彫られた石窟で、周囲には寺院や建物跡も残されている。

参考:中国旅行専門サイト―西部旅情クラブ

シルクロード――庫車編②

2009-11-16 12:39:18 | シルクロードの旅
モスクやバザールでイスラム文化に触れる

クチャ市内での主な見どころとなるものに、クチャ大寺がある。この寺は、明代末期から清代初めにかけて創建されたイスラム教寺院で、この地域で最大規模となる。

もしクチャ滞在中に曜日がうまく合うのであれば、金曜日にここを訪れてみたい。金曜日はイスラム教徒にとっては集団礼拝を行う特別の日とされ、イスラム教を国教とする国ではいわば日曜日のように職場が休みとなる国もあるほど。

イスラム教徒にとって、金曜日は重要な日であるから、残念ながらこの日だけはクチャ大寺にイスラム教徒以外が入ることは許されない。しかし寺院内で一心不乱に神に祈るイスラム教徒の熱心さと熱気を、この寺の周囲で直ちに感じられるはずだ。金曜日以外の曜日であれば、寺院内を見学できる。

なお、モスクを象徴するクチャ大寺のミナレットの高さは20mもある。ミナレットとは、モスクの外郭に設けられた細長い尖塔で、ここからイスラム教徒に祈りの時を告げるアザーンが毎日唱えられる。

クチャ大寺は15~16世紀頃、カシュガルから来たイスラム伝道師が活躍した時代に土造の寺院が建設された。やがて木造となったものの焼失し、現在の建物は1929年に再建されたと伝えられる。

ウイグルスタイルと中国スタイルがミックスされたいかにもこの地にふさわしいモスクだが、アザーンを耳にすればアラブ世界にいるような雰囲気につつまれる。この寺は小高い丘の上にあり、市街地を望むこともできる。

また、クチャにイスラム教を布教したエシディンが葬られるモナエシディン・マザールもある。現在の墓は19世紀後半に修復されたものといわれ、大門・庭院・礼拝堂・墓室などがある。

クチャ大寺の近くには、クチャ博物館もある。一般には、文物保護管理所の名称で呼ばれるこの博物館では、民族衣裳館・亀茲壁画館などがあり、興味深い展示物を見学することができる。

ショッピングを兼ねて、クチャの人々の生活習慣などを知るためにもぜひ寄ってみたいのはバザールだ。バザールとはペルシャ語で、インド・中央アジア・中東諸国などでの市場を意味する。

クチャで最大のバザールが開かれるのは団結新橋の両側で、金曜日に開催されるもの。この地の文化を知るうえでも役立つ布地屋を始めとして、さまざまな日々の生活用品が売られる。またシルクロードを実感できる羊などの家畜の市もたつ。

バザールとはいえ、かなり原始的な雰囲気で、かえってこの地の人々の生活スタイルがかいま見られるはず。お祭りのようなにぎやかさだ。


参考:中国旅行専門サイト―西部旅情クラブ

シルクロード――庫車編①

2009-11-10 10:48:12 | シルクロードの旅
天山山脈南麓の都市としてコルラとアクスのほぼ中間に位置する。ウルムチから約630km、バスで20時間弱かかるオアシス都市で、亀茲国と言われた時代には、西域北道の中心都市の役割を果たしていた。

天山南路の中継地点となるクチャ。付近には遺跡が多い。しかもそれらの遺跡は、現在かなりの影響力を持っているイスラム教関連のものではなく、仏教遺跡が中心となる。遺跡は、かつてのクチャの繁栄ぶりとその文化を無言のうちに伝える貴重なものばかりだ。

そもそもクチャは、その昔、亀茲国として栄えた。前漢時代(紀元前206~後8年)には、クチャ付近の鳥塁城に西域都護が置かれるなど、西域の要衝であった。ちなみに、亀茲国とは中国の史書に記された西域諸国の一つ。2世紀以後、亀茲国は、焉耆(カラシャール)・疏勒(カシュガル)・于闐(ホータン)・鄯善(ローラン)とならぶ西域の五大国として周囲に知られていた。やがて時代は後漢の時代に移り、班超が西域都護としてこの地に駐在した。班超とは後漢の将軍で、西域都護とは西域経営の長官を意味する。

亀茲国時代は現在のイスラム教とは異なり、仏教文化が非常に栄えていた。630年頃に亀茲国を訪れた人物の記述が残っている。

訪れたのは、長安を出発し天山南路からインドに入った三蔵法師の名で知られる玄奘だ。その時の模様を玄奘は、伽藍が100ヵ所余り、僧侶が5000人もいる上座部仏教の地、と記している。上座部仏教とは正式には南方上座部仏教と呼ばれ、現在は、スリランカ・タイ・ビルマ・ラオスなどで信奉される戒律を尊ぶ仏教だ。

7世紀に入ると、亀茲国は唐と戦ったものの敗れ、ついに滅亡する。その結果、唐は西州の安西都護府をこの地に移し西域経営の重要拠点とした。亀茲故城がその所在地だったと言われている。

そして9世紀半ばになると、この地に一大変革の兆しがあらわれた。その中心が、現在この地で多数派をしめるウイグル人だった。ウイグル人の勢力が増し始め、彼らは亀茲ウイグルと呼ばれるようになり、いつしかこの地ではイスラム教が仏教を押しのけて中心となり始めた。

その後、遼・モンゴルなどの支配下に置かれた。1758年になりと清は遠征を行い、その時に、現在の地名となる庫車に改めたという。

参考:中国観光専門サイト―西部旅情クラブ

シルクロード――庫爾勒編②

2009-11-02 10:20:06 | シルクロードの旅
見所は鉄門関やボステン湖など

しかし変わらないものもある。コルラの名所旧跡だ。市内から北へ10kmほど、孔雀河をさかのぼった渓谷には鉄門関がある。

  この付近その昔、タリム盆地へ入る重要な通路として関所が設けられた。建設は3世紀頃とされ、その関所は見るからに堅固なところから鉄門関と呼ばれるようになったといわれている。

  盛唐の詩人で岑嘉州とも呼ばれる岑参は、すぐれた辺塞詩を残したことで知られている。その岑参は、8世紀の半ばにこの鉄門関を通り、3作の詩を残している。詩の題材になり得るほど鉄門関は強い印象を与えると同時に、ここからさらに異郷の印象が鮮明にされたのであろう。ちなみに、辺塞詩とは、中国の西・北方の国境地帯での戦争を主題とする漢詩の意味。

  さらに、コルラには東北部に1つ、南部に2つ、計3つの城が築かれていた。これらを総称してコルラ故城という。

  市街地からもっとも近いのは、南へ1.5kmほど行ったところにある玉子干旧城。ただし、ここは今では畑となってしまい城は残ってはいない。ここからさらに南にあるのが、狭爾乱旦旧城。城の周囲は1kmほどで、土の小山となっている。町の東北に位置するのが、羊達克沁旧城。

  どの城も現在では崩れさり、往事を偲ぶことはできないが、遺跡からは貴重な発掘が行われたという。

  このコルラ周辺から発掘された貴重な品品を見学するには、市の中心部にあるコルラ博物館を訪れてみるとよい。

  ここには、楼蘭遺跡から出土した貴重なミイラが展示されている。楼蘭は、漢・魏代の西域諸国の一つで、新疆ウイグル自治区ロプノールの北西にあったオアシス都市。ガンダーラ文化の影響を示す遺品・漢式鏡・漆器などが発掘されたことで世界的に有名だ。だが、現在、楼蘭へ行くには許可証が必要とされるものの、一般の旅行者には許可がおりない。それだけに、楼蘭への思いをはせることができる博物館として、ぜひ訪れてみたい。

  このほか、内陸部では最大の淡水湖とされるボステン湖が、コルラから30kmほどのところにある。湖の周囲は約950kmといわれ、琵琶湖の1.5倍の大きさだ。コルラからはタクシーで30分ほどかかる。

参考:中国旅行専門サイト-西部旅情クラブ