大学三回生の冬、町内でご不幸があった。
当時は、町内の集会所で葬式をするのが常だった。葬式全体をまとめるのは町役員、実際に行動するのは隣組と近辺から集合をかけられた「手伝い(てったい)」と呼ぶ人たちだった。そして、手伝いの中から数人が「帳場(ちょうば=会計)」に選ばれた。
その時、我が家は帳場にあたった。集会所の近くの家の一室を借りて、賄(まかない)や香典の会計をする。字を書いたり、計算をしたりせねばならないので、体調のすぎれなかった親父に「おまえ行ってこい」と頼まれた。
お通夜の日の昼すぎから帳場の仕事が始まる。雪が降りそうな寒い日だったが、帳場の部屋に入ると、石油ストーブががんがんにたかれていて暑いほどだった。外で手伝いをせずにすんだので、不謹慎だがよかったと思った。それと、春やんも帳場にあたっていて、話し相手がいたのもよかった。
「なんや、今日はおまえが来たんかいな」
「何もわからんので、たのみます」
「帳場みたいなもん、ぼーとしてたらええねん」
ぼーとしていてよいのは、長老格の春やんだけだった。香典の計算以外にも、「しきび板〈かつては本物の樒(しきみ)の木を供えていたのだが、環境保護で廃止になり、お供えした人の名前を板に貼っていた〉」の名前書きがあって、けっこう忙しかった。
夕食は「巻きずし」というのがきまりになっていた。集会所の二階で手伝いの人たちと食べた。お通夜が終わり、その日の会計を精算して、ようやく家に帰った。
次の日は朝の十時から帳場の仕事が始まる。朝のうちは賄い(飲食など)の集計がほとんどだった。昼前になると昼食だ。「かやくご飯(具はほとんど野菜)」に「冷ややっこ(木綿豆腐)」と「こうこ(たくあん)」がきまりだった。そのあとは一時からの葬式への弔問客が増えるので、またあわただしくなった。一段落ついたのは、葬式が終わり、全ての精算が終わってからだった。
「ごくろはんでした」と隣組のオバチャンがお茶とお菓子を持ってくる。
「ねえさん、化粧をすると、いっそうかわいいなあ」
春やんのおだてにオバチャンが、「あほ言いないな」とはにかんで出て行き、しばらくして、
「春やんは、こつちの方がよろしいやろ」と、一升瓶を持ってやってきた。
「べっぴんな上に、よう気のつくねえさんや。おおきに、おおきに」
春やんの言葉に、ネエサンが、春やんに湯呑を渡して酒をつぎ、赤い顔をしてひっこんでいった。
「亡くなったお妙さんは九十(歳)や。まあ言うたらメデタゴト(祝い事)みたいなものや、よかったら、皆もよばれよ」
その言葉に、おっちゃんたちも湯呑に酒をついだ。それを見ながら、春やんが話し出した。
――お妙さんというのは、そら、べっぴんな人あった。戦争前に、河南町の河内村、広川から嫁に来たんやが、嫁に来るまでは「河内小町」と呼ばれるほどかわいかったそうや。こら、お妙さんが自分で言うてたのやから、ほんまのことや。村の若い者から、しょっちゅうちょっかいかけられたそうや。
そんなある日のことや。両親と兄さんがお伊勢参りに行って、一人で留守番をしていた。日の暮れ時に戸締りをしようと表(玄関先)へ出てみると俄雨か降っている。ふと横を見ると、軒先に学生服姿の一人の青年が雨宿りをしている。大川橋蔵か市川雷蔵のようにすらりとした顔立ち。手拭いで顔をふきながら、
「広川寺にお参りをし、山を下りようとすると、この俄雨に・・・」と言いかけて、前を見ると、河内小町といわれたほどのかわいい娘さんが立っていたので、もじもじし出した。
「それはそれは、おかわいそうに・・・」
西国巡礼のように、本来ならば家の中に招き入れ、お茶の一つも出す「お接待」をしなければならないのやが、お伊勢参りで家族はいない。娘一人の家に、若い男を引き込むわけにはいかない。お妙さんも、もじもじとしていると、お妙さんともっと話がしたかったんやろうなあ、学生が思い切ったように口をきった。
「お大師様を信心し、本来ならば出家をして広川寺で修行をしたかったのですが、この戦時下。一週間後はには戦地へゆかなければなりません。せめてお参りだけでもと来たのですが、日も暮れ、バスもなく、おまけにこの雨。納屋でもけっこうですから、一夜の宿をお借りできないでしょうか?」
そうはいかないお妙さん、
「本来ならばお泊めしなければならないのですが、今日だけは、そうはまいりません」
娘一人の留守番の身というのを知らない学生が、
「戦地へいくことをいといはしませんが、出家の夢を果たせなかったことは、はかなく思っています。そんな私に、かりそめの宿を貸すのを惜しまれるのですか?」
お妙さんもつらかったのやろう。目に涙をためて、
「お国のために戦地へおもむく立派な覚悟がおありなら、こんな私のことなどお忘れください」
きっぱりと断られたので、少しは納得したのか、学生が「せめて手紙だけでも出してよろしいでしょうか?」と言う。
お妙さんもまんざらでもなかったんやろうなあ。それに、どうせ調べればわかることやと住所を教えた。
五日ほど後に、学生からの手紙が届いた。歌が一首書かれている。
かりそめの世には思ひを残すなと聞きし言の葉忘られもせず
(忘れてくださいと言った言葉が忘れられません)
と書いてあった。それを読んだお妙さんが返事を送った。
忘れずとまず聞くからに袖ぬれて我身はいとふ夢の世の中
(忘れられないと聞いて泣けてきますが、もはや夢の世のことです)
と、やんわりと断ったのやが、今度は、戦地から手紙がきたので、お妙さんが、
髪おろし衣の色はそめぬるになほつれなきは心なりけり
(剃髪して尼となってもなお、つれなくせざるを得ない私です)
と、広川寺のお守りを添えた手紙を送った。その後、学生からの手紙はこなくなったということや。
尼さんになったというのは、嘘やろうけど、忘れざるを得ない恋あったんやろうなあ。ナマンダブ、ナマンダブ――。
いつもなら、「涙の操」の一節でも歌うのだが、さすがにこの日はそうはいかず、話し終えた春やんは、ちびりちびりと湯呑の酒を飲んだ。
【補筆】
後でわかったのですが、前半は『新古今和歌集』の中にある「江口の遊女」という西行法師と遊女の和歌です。
天王寺に詣ではべりけるに、俄に雨のふりければ、江口に宿を借りけるに、貸しはべらざりければ、よみはべりける。
世の中をいとふまでこそかたからめかりの宿りをおしむ君かな (西行法師)
返し
世をいとふ人としきけばかりの宿に心とむなと思ふばかりぞ (遊女妙)
「江口」は淀川下流の宿場(東淀川区江口)で、平安時代からの遊里です。「遊女」は「あそびめ」と読みます。いかがわしい遊びをするようになったのは江戸時代になってからで、それまでは本来の「遊び(歌舞音曲)」が中心でした。個人営業の家もあったといいます。
「出家の身なのに、雨宿りとはいえ、こんな所へやってきてよいのですか」と遊女が西行をバサリとやっつける話です。
後半の和歌は『撰集抄』という説話の中にある作り話です。二つの話をくっけて、春やんは戦時下の悲恋物語にしてしまいました。話の中の人名は仮名です。新古今和歌集に「遊女妙」とあるので「お妙さん」にしました。
※ちなみに、殿様キングス「涙の操」の歌詞です。お妙さんは、こんな気持ちだったのだと思います。
あなたのために 守り通した女の操
今さら他人(ひと)に 捧げられないわ
あなたの決して お邪魔はしないから
おそばに置いて ほしいのよ
お別れするより 死にたいわ 女だから (作詞 千家和也)
※図は『摂津名所図会』(大坂市立図書館デジタルアーカイブ)