東京オリンピックが開催された年(昭和38年)の夏休みだった。小学校三年生の私は、石川でさんざん鮎を追いかけて走り回り、あかね色の夕日を見ながら家(うち)に帰って来た。すると、オカンが、
「ええ時分に帰ってきたがな、タンサン(重曹)を買(こ)うてきてんか」
すでに夕方の七時近かった。普段ならしぶるところだが、オカンの手には十円玉が二枚……、タンサンは十五円……、ということは、おつりの五円は駄賃……と皮算用して……、
「しょあないな、行ってくるわ」
十円玉を二枚もらい、歩いて数分のタバコ屋(日用品・駄菓子なども売っていた)へ遣いに出た。
夏の夕べのタバコ屋の店先には、夕涼みに、町内のオッサンが何人も集まって来るので、なんだかんだとからかわれるのが常だった。とわいえ、目の前には駄賃の五円玉がちらついている。
走って店先に来ると、まだうっすらと明るかったためか、店先の縁台には誰も座っていなかった。ほっとして店に入り、オバチャンにタンサンを出してもらって、十五円を払い、おつりの五円玉を握りしめて店を出た。その時だった。
「おう、お遣いか? えらいなあ」
六十歳の半ばだったろうか、上半身ははだかで、白のサルマタ(トランクス)一つの春やんが、ふらりふらりと近寄って来た。私はどきりとして、あわてて走り去ろうとした。そのとき、
「ほれ、これやるわ!」
しまったと思ったが、春やんなら……という安堵感があったのだろう。立ち止まって春やんが差し出した手の中を見た。ごつごつと骨ばった手の上に土の塊のようなものがのっていた。
「今日、井戸をさらえていたらなあ、井戸の底にこんなんがようさんあったんや」
お盆前は、ご先祖を気持ちよく迎えるために、一年間使った井戸を掃除する「井戸さらえ」というのが当時の川面の慣習だった。
どうしようかととまどっている私に、春やんは、そらもっていけというふうに、手を二、三度上下に動かし、目をしくしくさせてて近寄って来た。
「さーて、知っとるか? これはなあジョウモンシキのドキや」
そりゃなんのこっちゃねんと思いながらも、まあくれるもんならもろとこ……。河内の人間のいやらしさ。春やんが差し出した手のひらにのっていた、変哲もない土の塊をもらってしまったのが運のつきだった。春やんのいつもの講釈が始まった。
――この川面の土地を掘ってみい。こんなんようさん出てくるぞ。これは今から四千年、いや、五千年前の中期(縄文時代)やなあ……。藤井寺に国府というところがあるねんけど、そこで発見されたのとのと同じやっちゃ。
昔、この石川の下流にある国府(藤井寺)に縄文時代の人間が住んどった。そいつらが石川を上って来ょったんや。最初は古市(羽曳野)の城山あたりにたどり着いた。それから次はこの川面や。それから錦郡(富田林)に行きよったんや。どこも、石川の水が削った〈浸食した〉土地(河岸段丘)の低い所(低位段丘)と中ぐらいの所(中位段丘)があって、同じ条件がそろた所を上って行きよったんや。まあ、金にはならんけど、お守りくらいにはなるやろ、持って行け――
そう言われて、もらった土の塊をしげしげと眺めてみたが、どう見ても、茶褐色の薄いレンガの欠片(かけら)にしか見えなかった。早く帰らなければオカンに叱られると思い、私は「おおきに」と言って、あわててその場を走り去った。
駆け出しぎわに、ちらりと春やんの方を振り返った。茶褐色に染まる西空を背にして、春やんは、さっき差し出した手で股間を掻きながら立っていた。それが骸骨のように見えて、私はどきりとした。
家に帰り、母にタンサンを渡し、おつりの五円は皮算用通りに駄賃にもらい、部屋に入って、灯の下で、5センチほどのレンガの欠片を眺めてみた。爪で押さえつけたような模様がいくつもあるだけで、なんの変哲もない壺の破片にすぎなかった。ポンセンが五枚買える五円玉の方が光り輝いていた。
それから数年間、その土の欠片は私の勉強机の引き出しの隅にねむっていた。
しかし、高校になって日本史の教師に見せると、「もろうてかまへんか?」と言って持っていってしまった。それっきりどうなったのかわからない。
今考えると、あの暗茶褐色の土の欠片にあった爪で押さえたような模様は、縄文時代中期の土器に特有の「爪形文」という模様だったのではなかったかと思えてならない。
その後、川面の古老から聞いた話だが、春やんは、いくつもの土器の欠片をボンドで引っ付け、隙間を粘土で埋め、内側をセメントで補強した壷にして、盆栽を植えていたという。
粋な人だった。