廓内:
鉄漿溝(おはぐろどぶ)と五丁目;
廓といえば吉原をさすが、新吉原(浅草に移ったあとの吉原)は、江戸の北方にあったことから北州、北里とも呼ばれた。俗に鉄漿溝と呼ばれる二間(古くは五間)巾の塀で囲まれた方形の土地で、縦が京間百三十五間、横が京間百八十間、総坪数が二万七百六十坪あった。
鉄漿溝は遊女の逃亡を防ぐための設けられた溝で、廓の遊女達が歯を染めた鉄漿(かね)の残りを捨てたため、水が鉄漿色になったというところから名づけられた。
溝には橋が九ヵ所設けられていたが、普通時はあげられていたので大門(おおもん)が唯一の出入口だった。大門から水戸尻(すいどうじり)までの一直線の通りが仲の町の通りです。両側には引手茶屋が軒を連ねていた。
仲の町の右側には江戸町一丁目、揚屋町、京町一丁目が、左側には伏見町、江戸町二丁目、角(すみ)町、京町二丁目が並んでおり、それぞれ紅殻(べにがら)格子の大見世、中見世、小見世の妓楼が軒を連ねていた。江戸町一・二丁目、京町一・二丁目、角町を五丁町と呼んでいる。
仲の町沿い;
江戸町一丁目と二丁目の角を待合(まちあい)の辻(つじ)と呼ぶ。揚屋のあった宝暦(1751~64)頃まで、遊女達が大門口からこの辺りにかけて毛氈(もうせん)を敷いた床机を並べて客を待ち、出会えば連れ立ったのでこの名がついたという。
江戸町二丁目の角を青物市場、角町の角を肴市場といい、ともに昼のうちに市がたった。
河岸見世;
江戸町一丁目の西側の通りは、西河岸あるいは浄念河岸と呼ばれていた。江戸町二丁目の東側にも東河岸、別名羅生門河岸があった。河岸見世は鉄砲見世とも呼ばれた。昼四百文、夜六百文だったところから銭見世とも、格子先から女郎を見立てたので小格子とも呼ばれた。
西河岸には八軒長屋と呼ばれた河岸見世があったが、羅生門河岸ほどひどくはなかった。
切見世の口舌手拭い肩をかへ
稲荷社;
廓の四隅にはそれぞれ稲荷神社が祭ってあった。西河岸側に榎本稲荷社、開運稲荷社、羅生門河岸側に明石稲荷社、九郎助稲荷社があった。九郎助稲荷社はこの廓の鎮守神と崇められ、元吉原から遷されたものである。
きのじや;
喜の字屋というのは台の物屋の総称で、喜右衛門という人が、台の物屋を思いついて評判になり、料理は喜の字屋から取るべしと繁昌したためこの名がつけられた。
竹村伊勢;
竹村は菓子屋。
♪♪米汁呑忘憂♪♪
鉄漿溝(おはぐろどぶ)と五丁目;
廓といえば吉原をさすが、新吉原(浅草に移ったあとの吉原)は、江戸の北方にあったことから北州、北里とも呼ばれた。俗に鉄漿溝と呼ばれる二間(古くは五間)巾の塀で囲まれた方形の土地で、縦が京間百三十五間、横が京間百八十間、総坪数が二万七百六十坪あった。
鉄漿溝は遊女の逃亡を防ぐための設けられた溝で、廓の遊女達が歯を染めた鉄漿(かね)の残りを捨てたため、水が鉄漿色になったというところから名づけられた。
溝には橋が九ヵ所設けられていたが、普通時はあげられていたので大門(おおもん)が唯一の出入口だった。大門から水戸尻(すいどうじり)までの一直線の通りが仲の町の通りです。両側には引手茶屋が軒を連ねていた。
仲の町の右側には江戸町一丁目、揚屋町、京町一丁目が、左側には伏見町、江戸町二丁目、角(すみ)町、京町二丁目が並んでおり、それぞれ紅殻(べにがら)格子の大見世、中見世、小見世の妓楼が軒を連ねていた。江戸町一・二丁目、京町一・二丁目、角町を五丁町と呼んでいる。
仲の町沿い;
江戸町一丁目と二丁目の角を待合(まちあい)の辻(つじ)と呼ぶ。揚屋のあった宝暦(1751~64)頃まで、遊女達が大門口からこの辺りにかけて毛氈(もうせん)を敷いた床机を並べて客を待ち、出会えば連れ立ったのでこの名がついたという。
江戸町二丁目の角を青物市場、角町の角を肴市場といい、ともに昼のうちに市がたった。
河岸見世;
江戸町一丁目の西側の通りは、西河岸あるいは浄念河岸と呼ばれていた。江戸町二丁目の東側にも東河岸、別名羅生門河岸があった。河岸見世は鉄砲見世とも呼ばれた。昼四百文、夜六百文だったところから銭見世とも、格子先から女郎を見立てたので小格子とも呼ばれた。
西河岸には八軒長屋と呼ばれた河岸見世があったが、羅生門河岸ほどひどくはなかった。
切見世の口舌手拭い肩をかへ
稲荷社;
廓の四隅にはそれぞれ稲荷神社が祭ってあった。西河岸側に榎本稲荷社、開運稲荷社、羅生門河岸側に明石稲荷社、九郎助稲荷社があった。九郎助稲荷社はこの廓の鎮守神と崇められ、元吉原から遷されたものである。
きのじや;
喜の字屋というのは台の物屋の総称で、喜右衛門という人が、台の物屋を思いついて評判になり、料理は喜の字屋から取るべしと繁昌したためこの名がつけられた。
竹村伊勢;
竹村は菓子屋。
♪♪米汁呑忘憂♪♪