酒と音楽とPC

血は酒で出来ている(某声優談)。他の趣味はPC組み立てるのと音楽聴くのしかない。

Itzhak Perlman The Complete Warner Recordins 1972-1980他

2018-06-20 13:53:43 | 音楽

今回手に入れたものは

・Itzhak Perlman The Complete Warnaer Recordings 1972 - 1980 B-C

・R. Strauss 英雄の生涯、町人貴族組曲 ラトル / ベルリン・フィル A

・R. Strauss 薔薇の騎士 カラヤン / フィルハーモニア管 A

いつものように録音評をS-Cでつけてある。パールマンは決して悪い録音ではないが、アナログ全盛期の録音としては高く評価はできない。リマスター次第でもっと良くすることは可能なはずだ。本来EMIのデジタル初期よりはマシな録音のはず。ヴァイオリンだけ聴いているとフェラスの古い録音と大差なく感じる。もちろん、オーケストラ部分はフェラスだと混濁するのに混濁しないという違いはあるが、カプソンやテツラフと比べると不満だらけのレベルである。CD音源との比較になるが、チョン・キョンファのデッカ・デジタル初期録音より悪いといいったところか。ラトルはまあ、ワーナーのハイレゾとして標準的なレベル。意外にも良かったのはカラヤンの古い薔薇の騎士。お値段も安いとあっていい買い物だろう。初期ステレオと思えば上出来なレベル。

さて、内容に触れると、ラトルの英雄の生涯はラトルのベルリン時代としてももう古い録音と言って良い。この頃がラトルの一番さえなかった時代ではないだろうか。ベルリン・フィルはこの曲に向いたオーケストラだと思うが、パッとしない。R. シュトラウスの管弦楽曲の多くはよく言われるように飲み屋でオヤジのホラ混じりの自慢話を拝聴するようなものなので大げさであればあるほどいい。こんな曲を真面目にやられても白けてしまう。真面目にやればやるほど派手になってしまうショルティのような特別な人はともかく、ドホナーニやセル、ブロムシュテットの演奏はクソ真面目すぎる。アシュケナージはスケールが小さいとか、大方の演奏が不満だらけになってしまう。予想通りラトルもクソ真面目派に属する。こんな曲の細部を掘り下げたって何も出てこない。マゼールのようにホラ混じりの大芝居(バイエルン放送響)、譜面遵守派でも、「すべて書いてあるとおりにやった。この曲に下手な抑制など必要ない。」という感じの剛直なライナーが素晴らしい。マゼールのクリーヴランド盤もこの系譜だろう。ベームもR. シュトラウスでは私が大嫌いなコチコチに固くて重厚な音を生かしていい演奏になっている。ただ、録音が古いのでベーム盤の固い音を聴くのは余計につらい。英雄の生涯だけは比較的新しいウィーン・フィルとのものであるが、やはりベルリン・フィルとの録音ほどではないが、固いという印象を受ける。カラヤンの「金ピカ」もこの曲に合っているのだから良いではないか。評価の高いケンペやプレヴィンは地味すぎる。これらの演奏はC. クラウス、E. クライバーから継承されてきたウィーン世紀末の退廃の香りを残した洒落た演奏、なのかもしれないが、ウィーン世紀末を意識できる聴き手が現在どれぐらいいるのだろうか。「ソ連の演奏」が次第に忘れられていきつつあるように「ウィーン世紀末」もその時代を生きた人々の死と共に消え失せてしまうものなのではないか。そういえば、「ソ連の演奏」と切っても切れない関係にあるロジェストヴェンスキーがなくなったのだという。合掌。ロジェストヴェンスキーとコンドラシンのショスタコーヴィチ交響曲全集はソ連の演奏の金字塔である。ロジェストヴェンスキーにはショスタコーヴィチのバレエ音楽と劇付随音楽をもっと録音してもらいたかった。

パールマンの録音は26時間分に達する。それで8000円程度なのだからコスパ的に文句ない。ただし、例によってこれは「全集」とは程遠い。パールマンは当時のアメリカで最高クラスの人気者だっただけにセミ・クラシック、ジャズ、民謡の編曲の類を大量に録音しており、それがほとんど欠落している。80年まで、との注釈があるが、それでも全然足りていない。コンプリートを目指すのであればCDの全集(77枚)の再発を待つしかない。81年以降のデジタル時代の録音もそのうちハイレゾのボックスセットで出てくるのであろうか?

まあ、それを除いても凄まじい数の録音である。これが僅か10年足らずで録音されている。他に並行してRCA、グラモフォンとの仕事もあったはずだから録音だけでもいかに多忙だったことだろう。当時はまさにスタジオ録音の時代であり、パールマンの時代だったのだ。少年時代にエド・サリヴァン・ショーで人気を博したのが象徴的なように肉体的ハンディを背負っていながら明朗、闊達、楽天的でどこまでも明るい音楽。ただ、そう書くと褒めているように聞こえるが、日本語には「おめでたい」という揶揄を込めたあまりにもパールマンの音楽に適切な言葉がある。一方、ドアーズのモリソンはサリヴァン・ショーで反社会的歌詞をそのまま歌ったことを咎められ、「サリヴァン・ショーは卒業した」と捨て台詞を残して二度と出演することはなかった。同時代の人気者でもパールマンとモリソンはネガとポジのような関係だ。ドアーズのライヴ録音が最近日の目を見ているが、スタジオ録音と歌詞が全く違うのだという。もちろん、スタジオでは婉曲に表現した部分が直接的でエグい歌詞に変わっているのだそうだ。

さて、パールマンに話を戻すと、どれを聴いても大抵はいつものパールマンである。その変わらなさぶりにある意味安心してしまう。カラヤンやビートルズのように自分の中にあまりにも当たり前に存在しているこれらの演奏にはなかなか手が出なかった。自分の中に所与のポジションを既に得ているものをあえて買うのには勇気がいる。ただ、ヴァイオリン曲のスタンダードとして大きなボックスを持っておくべきだと思ったし、その役割にふさわしいのはパールマンだという気がして買うことを決断した。独自の世界を持つハイフェッツはその役割に似つかわしくない。ミルシテインやシェリング、オイストラフならいいのかもしれないが、古すぎるし、彼らには大きなボックスセットがあっただろうか?

しかし、演奏家に向いてない曲までやらせるというのはどうなのであろう。退廃、苦悩、憂鬱と言った要素はパールマンや同輩のズカーマンの資質にはあまりないのである。向き、不向きにかかわらずパールマンはヴァイオリンの人気曲をほとんどを録音させられているのだ。ハイフェッツの全集に現在ではあまり演奏されなくなった曲が大量にはいっているのは予想できるが、パールマンのボックスもそうだとは予想していなかった。特に編曲モノは忘れられかけていてタグ打ちが結構たいへんだった。クラシックに流行り廃りはないという人がいるが、明らかに間違いである。びっくりしたのはヴァイオリン二重奏曲の多さ。ヴァイオリニストのファンなら演奏会でお馴染みの曲が大半なのかも知れないが、録音されるのは稀のはずだ。作曲者もバルトーク、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、ブリテンといった大家も多く、堪能させてもらった。同じような録音をカプソンやテツラフがやってくれないだろうか。F. P. ツィマーマンやレーピンでも良い。あまり売れないだろうから人気者のパールマン(とズカーマン)だからできた、という事も言えるのだろうが。所謂名曲に結構欠落があるが、その多くは80年以降に満を持して録音されている。なのでベートーヴェン、サン=サーンスの3番、プロコフィエフ、ストラヴィンスキー、ショスタコーヴィチの協奏曲あたりが聴きたければ80年代のボックスセットが出るのを待つしかない。

これだけ沢山のタグを打つとついでに昔書いたタグが検索されて曲を思い出すという効果がある。Roonなんかを導入している人にはお馴染みであろうが、ついでに引っかかる検索で忘れていた録音を思い出すのだ。これはCDであれば絶対にあり得ないことであり、ネットワークやPCオーディオの醍醐味の一つではないだろうか。

このボックスセットでは聴いた範囲ではショーソンのポエムが素敵だった。珍しい組み合わせでもあるマルティノンのサポートが良いせいもあるのだろう。この演奏はいつもの楽天性一点張りではなく、詩情にあふれている。もちろん、パガニーニのカプリース、ヴィエニャフスキの協奏曲における技巧も見事。ブルッフの2番(素晴らしい美音!)、スコットランド幻想曲、ツィゴイネルワイゼン、ツィガーヌ、カルメン幻想曲のような曲はパールマン向き。ただ、パールマンの演奏はどれを聴いてもやはりほとんど変わらないのだ。チャイコフスキーもバルトークも同じように聴こえてしまう。技巧的には文句ないし、完成度も高いよく出来た録音、なのだろうが、この次に何があるといったワクワク感はほとんどない。テツラフやハイフェッツ、チョン・キョンファ、クレーメルとの決定的な違いはそこにあるのだろう。テツラフやクレーメルの再録音はどこがどう変わっているか、期待して聴くことになる。しかし、パールマンやズカーマン、ヨーヨー・マ、エマニュエル・アックスの再録音になにか変わるような要素があるだろうか?これらの人たちはとても上手いのに録音が売れなくなっていったのは再録音をしても「どうせ何も変わらないだろう」という予想がついてしまうからではないだろうか。

*書いた後に気がついたことであるが、パールマンの人気の凋落は非常に急速に起こったことのようだ。1990年代の書籍を見ても既にパールマンについて書いている人が稀になっているのだ。辛うじて見つけたのは渡辺和彦氏の書籍ぐらいだろうか。音友の名盤選などにもほとんど入っていない。肉体的ハンディと持病を持つ人なので体調の悪化もあって実演、録音の機会も減っていたというのもあるのであろうが、それにしても早い。この時点でもより古い世代であるハイフェッツ、オイストラフ、フランチェスカッティ、シェリング、ミルステインの評価はそれほど下がっていないのだ。名盤選に入りやすい所謂名曲にあまり向いていない演奏家だったとも言えるのだが、あまり精神性とか哲学だとかそういったものが問われないエンターティメント作品や技巧を優先した曲ですらパールマンが全く評価されないのには違和感を覚える。同門で似たような音楽性を持つズカーマンも以前ほど顧みられなくなっているが、彼は1990年代以降もベートーヴェンのソナタ、バルトーク、ベルクの協奏曲等の一般的に精神性を問われる、とされる作品で逆説的に持ち味の音色の明るさや楽天性を高く評価されている。パールマンは実は不遇なのかも知れない。そういえば、国籍、音楽性、容姿等、共通点が多いと感じるジェイムズ・レヴァインが最近怪しくなってきている。デュトワ同様、妙な問題を起こしてしまったこともあるとはいえ、その変わらなさから人気が落ちてきているのは同じ傾向ではないだろうか。

さて、最後に薔薇の騎士について。これも私にとってはもう古い録音で今更買う必要はない、というジャンルに分類されていた。カラヤンも薔薇の騎士もそれほど興味があるわけでもなく、ただ、安いということでR.シュトラウスのオペラを久しぶりに楽しむか、という感じだった。

ところがどっこい、全盛期カラヤンの魅力は半端ではなかった。フィルハーモニア管がウィーン・フィルのように鳴っているのである。最初はフィルハーモニアであることを忘れていてオケをウィーン・フィルと思い込んだほどだ(カラヤン新盤と混同したのであろう)。フィルハーモニア管という持ち味が全く異なるオーケストラからウィーンの音色を引き出した若き日のカラヤンの才能には脱帽するしかない。そういえば、フルトヴェングラーも近い時期にこのオーケストラを使ってトリスタンを録音しているのであって、新旧二人の偉大な指揮者のライバル意識とそれを利用して二人を上手く操るレッグの姿が思い浮かぶ。結局レッグは権謀術数にも長けていたカラヤンに寝首をかかれるのであるが・・・。E. クライバー晩年のデッカ録音も残っていて、そちらは本物のウィーン・フィルであり、より正統な演奏なのだろうが、この録音を確実に凌駕していると言えるかどうか。そしてカラヤン新盤はウィーン・フィルを得るも若き日の覇気は失われていたように思う。オーケストラも豊穣の音色を失いつつある時期であった(82年)。

本来、シュトラウスの音楽は上手すぎる上に芯が醒めていて音楽なんてこんなものよと言われている気分になる。プロコフィエフ、ブリテンと共通する匂いである。この嫌味さが最も出ているのがプロコフィエフのキージェ中尉であって、私はこの曲が嫌いで仕方がない。それでもプロコフィエフにはヴァイオリン協奏曲、ロメオとジュリエット、スキタイ組曲というかけがえのない音楽がある。ブリテンにはピーター・グライムズと戦争レクイエムがある。そうした嫌味さを払拭する傑作である。R. シュトラウスには何があるだろうか。やはりオペラということになるのだろうが、サロメは露骨なウケ狙いが鼻につき、エレクトラは真摯な音楽ではあっても原典のギリシア悲劇が暗すぎて常用する気になれない。やはり肩の力が抜けた薔薇の騎士とアリアドネなのだろうが、こうなるとまた前述の嫌味さが鼻についてくるのである。そんな嫌味さをカラヤンが醸し出す豊穣の音色が中和してくれる。それが永遠の名盤である所以なのだろう。

晩年のメタモルフォーゼンや4つの最後の歌は第二次世界大戦の敗北で失われるであろうドイツ伝統文化への挽歌であって素晴らしい。だが、シュトラウスはドイツ文化の終焉は悼んだが、ナチスの罪や犠牲者については全く無頓着であったらしい。そう考えるとこの人は最後まで変わらなかった人なのかも知れない。

 

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