アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第15章 心と意識 ⑩運命

2011-12-09 06:22:14 | 第15章 心と意識
「運命は性格の中にある」と言う有名な言葉を残したのは芥川龍之介である。非常に深い意味を持つ言葉であり、筆者も以前本ブログで引用した記憶があるが、当時は自分の性格を変えれば運命を変えることが出来るのだろうと思っていた。ところが、ラマナ・マハルシ師(以下、同師)は、運命は生まれた時、或いはそれ以前から既に決まっているのだという(本章⑨ラマナ・マハルシとカルマ・ヨーガの後段参照)。そうだとすると、我々がこの人生において努力する意味は全く無いということにならないのだろうか? そして同時に、努力を放棄するような教えを一般の人々に広めても良いのだろうかという疑問まで湧いてくる。そこで、同師の説くところの真意を詳細に吟味して行きたい。

先ずこの運命ということを理解する為に、カルマ(業或いは業遺存)という概念、そしてそのカルマには三種類のものがあるということを把握しておきたい(カルマに就いては本章④心の構造の中でも、サンスカーラの構成要素として概略を説明済み)。

以下、同師の『あるがままに』(以下、同書)第21章から関連する箇所を引用していく。

「カルマは多くの東洋の宗教にとって共通の理論である。その最も一般的なものには、宇宙的な審判(決算)のシステムがあり、各個人には彼の為した全ての行為(カルマ)の結果を体験しなければならないというものである。良い行為は良い結果を生み、悪い行為は、それを為した人に避けることのできない苦しみをもたらす。その理論では、行為の結果(これもカルマと呼ばれる)は必ずしも現在の人生に受ける必要はなく、未来の生にわたって体験されるとも言われている。このため、いくつかのカルマの再分割が仮定されている。シュリー・ラマナによって用いられた分類は多くのヒンズー教の学派に共通したものである。

1.サンチタ・カルマ  :前世から積まれてきたカルマの蓄え
2.プラーラブタ・カルマ:サンチタ・カルマの一部で、現世で清算されなければならない
もの。カルマの法則は人間の活動における決定論を意味するため、プラーラブタは
  しばしば運命と訳されている。
3.アーガーミ・カルマ :現世で積まれた新しいカルマ。この一部が来世に持ち込まれる。

シュリー・ラマナはカルマの法則の正統性を受け入れたが、それは、自分が真我から分離した存在だと想像している間だけ適応すると説いた。アジニャーニ(未だ悟りを開いていない人)のレベルでは、個人は前世からの行為や想念の結果として運命付けられた、一連の活動や体験を通り抜けるだろう、と彼は言っている。ときおり彼は、人生における全ての行為や体験は誕生の時点で既に決定されており、唯一自由なのは、そこには行為する人も体験する人も存在しないということを悟るだけだ、とさえ言った。・・・シュリー・ラマナはカルマの法則を神の意思の現れと見なした。真我を実現するまでは、人格神イシュワラ(筆者註:自在神とも云う)が各個人の運命を支配していると彼は言った。誰もが自分の行為を経験しなければならず、夫々の人生で各個人が通らなければならない活動の結果を選択し、運命付けるのはイシュワラ神なのである。人がいまだ身体の活動と同一化しているかぎりは、イシュワラ神の支配権を逃れることはできない。彼の権威から自由になる唯一の道は、真我を実現することによってカルマを完全に超越することである。」

ということで、冒頭結論めいた部分から始まってしまったが、以下、質問者と同師の問答の形で、同書からの引用を続けて行く。

質問者  この身体が終わるまで続くと言われているプラーラブタ・カルマを、身体が存在する間に克服することができるでしょうか?

マハルシ 出来る。カルマは、身体と真我の間に生じた自我と呼ばれる行為者に依存している。自我がその源(筆者註:真我のこと)のなかに溶けて姿を消してしまえば、それに依存しているカルマも生き残ることはできない。それゆえ「私」がないところにはカルマもない。

質問者  プラーラブタ・カルマは前世から積まれたカルマの小さなひとかけらにすぎないと言われています。これは本当なのでしょうか?

マハルシ 人は前世で多くのカルマを積んできたかもしれない。そのなかのわずかなものだけがこの生のために選ばれ、人はその結実を現世で味わうことになる。それはちょうどスライドの展示会で、投影する人がショーに出すスライドだけを選びとり、残りのスライドは次のショーの為にとっておくようなものである。これらのカルマはすべて、真我の知識を得ることによって破壊される。過去の体験の結果であるカルマがスライドであり、心が投影機である。その投影機が破壊されなければならない。そうすればこれ以上の投影はなく、これ以上の誕生も死もないだろう。

質問者  誰が投影するのですか? サンチタ・カルマのなかからわずかな部分を選び取り、それをプラーラブタ・カルマとして体験させることを決定するその構造は、どういう仕組みになっているのでしょうか?

マハルシ 個人はそれらのカルマに耐えなければならない。だが、イシュワラ神は彼の目的にしたがってそれらのカルマを最適な状態に管理している。カルマの報いを操っているのは神だが、彼はそれに付け加えたり取り去ったりしているのではない。人間の無意識層は善業と悪業の倉庫である。イシュワラはこの倉庫から、それが喜ばしいものであれ、苦しみに満ちたものであれ、それぞれの人にとって、その時どきの霊的進化の為に最もふさわしいものを選択するのである。それゆえ、何ひとつ任意のものはない。

質問者  『ウパデーシャ・サーラム』の中で、あなたは「カルマは神(カルタ)の定めによって結果を生じる」と述べられています。つまり私たちは、すべて神の意思によってカルマの報いを受けるという意味なのでしょうか?

マハルシ この節のなかの「カルタ」とはイシュワラ神を意味している。カルマに従って各人は行為の報いをイシュワラ神から割り当てられる。それはつまり、イシュワラとはブラフマンが人格神として姿を現したものだということだ。真のブラフマンは非顕現であり、不動である。現れとしてのブラフマンがイシュワラ神と名付けられただけである。彼がカルマにしたがって各人に行為の報いを与える。つまり彼はただの周旋人でしかなく、為された仕事に応じた賃金を支払っているだけである。ただそれだけのことだ。このイシュワラ神のシャクティ(力)なしではカルマも起こり得ない。それゆえ、それ自体ではカルマは作用しないと言われるのである。

質問者  現在私達が体験していることは、過去のカルマの結果です。もし私たちが以前に犯した過ちを知れば、それを正すことができるはずです。

マハルシ たとえひとつの過ちが修正されたとしても、あなたに数限りない誕生を与えるサンチタ・カルマ全体が残っている。それゆえ、それは正しい方法ではない。草木は剪定するほど、より力強く生い茂る。あなたがカルマを修正すればするほど、それは蓄積していく。それゆえ、カルマの根元を見出し、それを断ち切りなさい。

更に同師は、善業等によって悪業を消し去ることは出来ないということを言っている。

質問者  マントラ(本ブログ第13章⑪参照)やジャパ(マントラや神の御名を唱える行)を修練することによって、悪業の報いをぬぐい去ることが出来るのでしょうか?

マハルシ もし「私がジャパをしている」という感覚がなければ、犯した罪も彼から離れていくだろう。もし「私がジャパをしている」という感覚がそこにあれば、悪業の報いは彼につきまとうだろう。

質問者  プンニャ(徳行の報い)はパーパ(罪業の報い)を消し去るのではないでしょうか?

マハルシ 「私がこれをしている」という感覚があるかぎり、人は良いものでも悪いものでも行為の結果を経験しなければならない。どうして一つの行為で別の行為をぬぐい去ることが可能だろうか。「私がこれをしている」という感覚がなくなったとき、何もその人に影響を与えるものはない。真我が実現されないかぎり、「私がこれをしている」という感覚が消え去ることはないだろう。真我を実現した人にとって、ジャパをする必要はあるだろうか。タパス(苦行)の必要がどこにあるだろうか? プラーラブタの力によって、人生は続いて行く。だが、真我を実現した人にとって望むものは何ひとつないのである。・・・人生で体験されることが、プラーラブタによって既に決定されていることを知っている人は、何を体験しようと決してとまどわない。全ての体験は、それを望もうと望むまいと避けることのできないものだと知りなさい。」

それでは、人は自分に起こって来る予期せぬ運命にどう対処すべきなのであろうか?

質問者  もし予期もせず、努力もせずに自分のものにやってきた物事を楽しんだ場合、それによって何か悪い結果が訪れることはあるのでしょうか?

マハルシ 全ての行為にはその結果が伴う。プラーラブタが原因であなたのもとに何かが来たとすれば、それは避けられない。もしあなたがやってきたものを受け入れ、それ以上を望まず、再び起こることを求めなければ、それ以上の誕生をもたらすような害をあなたに与えることはないだろう。その反対に、もしあなたがそれに執着し、より多くを求めるなら、より多くの誕生をもたらすことは免れない。

そして同師は「自由意思」に関連し、次のように結論付けている。

質問者  自由意思というものは存在するのでしょうか?

マハルシ 誰の意思だろうか? 行為者であるという感覚があるかぎり、それを楽しむ感覚と自由意思の感覚は存在するだろう。だが、もしこの感覚がヴィチャーラ(真我探求)の修練によって失われたなら、聖なる神の意思が働いて、出来ごとの流れを導いてくれるだろう。ジニャーナ(筆者註:真理の知識)によって運命は克服される。真我の知識は自由意志も運命も超えているからである。

質問者  人の人生において、彼の国、国民、家族、仕事、職業、結婚、死などにおける顕著な出来事が、彼のカルマによって全て宿命づけられていることは理解できますが、しかし彼の人生の詳細すべてに至るまで、取るに足らないことまで、既に決定されているのでしょうか? 例えば、今私は手のなかの扇を床の上に置きました。それはこの日、個の時間に、私がこのように扇を動かし、このようにここに置くということまで、既に決定されているということなのでしょうか?

マハルシ もちろんだ。何であれこの身体がすること、そして何であれそれが通り抜ける体験は、その身体が存在を現したときすでに決定されているのである。

質問者  それでは、人の自由や彼の行為に対する責任はどうなるのでしょうか?

マハルシ 人が手にできる唯一の自由とは、努力をしてジニャーナを得ることである。それが彼と身体との同一化を断ち切る。身体はプラーラブタによって宿命づけられた、避けることのできない行為と通り抜けていくだろう。人は身体と彼自身を同一視し、その身体の行為の報いに執着するか、あるいはそれから離れ、身体の活動の単なる目撃者となるか、という選択の自由だけをもっているのである。

質問者  もし、起こる運命にあることは起こるというなら、祈りや努力が何の役に立つというのでしょう、或いは私達はただ怠惰に、無為のままでいるべきなのでしょうか?

マハルシ 運命を克服する、或いは運命に依存しない方法が二つだけある。ひとつはこの運命が誰にとってのものなのかを探求し、そして運命に束縛されているのは、真我ではなく自我だけであって、自我は存在しないということを発見する方法。もう一つの方法は、いかに自分が無力であるかを悟り、「神様、私は存在しません。ただあなただけです」ということで神に完全に明け渡し、「私」と「私のもの」という感覚を放棄して(筆者註:本章②自我(エゴ)を参照)、神の意のままにあなたを委ねることである。帰依者が神からあれやこれを望んでいるかぎり、明け渡しは決して完全なものになりえない。真実の明け渡しとは、愛ゆえに神に捧げる愛であり。ただそれだけのためにある。解脱のためでさえない。言葉を換えれば、真我探求の道であれ、バクティ・マールガ(明け渡しの道)であれ、運命を克服するには自我を完全に消し去ることが必要なのである。」

以上が同師の運命に対する解説である。それでは、本稿の最初に戻り、芥川龍之介の、「運命は性格の中にある」という言葉は、正しいと言えるのであろうか。筆者はこう考える。即ち、同師の説くところは人の運命は現世で果たすべきカルマに因って決定付けられているということであるが、ここで再度サンスカーラ(行)という概念を想い起こして頂きたい(本章④心の構造参照)。このサンスカーラと一緒に我々は輪廻転生を繰り返して来ているのであるが、サンスカーラを構成する三つの要素は、業(カルマ)と煩悩と薫習(もってうまれた性質)であり、このうち煩悩と薫習は生まれついての性格のようなものである。従って厳密に言えばカルマと性格は、同じサンスカーラの要素であり、相互に関連しているとはいえ、異なるものであるから、同師の説と芥川龍之介の言葉は全く同じだとは言い切れない。しかし、筆者には、カルマと性格(両方合わせてサンスカーラと言っても良いかもしれない)が合い俟って、その人の運命を決定付けているように思える。

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