アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第15章 心と意識 ⑫心の本性

2011-12-23 05:53:48 | 第15章 心と意識
先週末家族と「チャップリンの独裁者」のDVDを見て楽しんでいたところ、チャップリンが扮する主役(独裁者に迫害されるユダヤ人の床屋)が、「心とは何か・・・永遠の謎である」とつぶやいていた。恐らくそれは監督であるチャップリン自身の疑問でもあったのだろう。筆者が最も尊敬する映画監督の一人でもあるチャップリンをしてそのように言わしめるほど、心の謎は深い。

本章では、これまで主として『あるがままに』(以下、同書)を引用しながら心と意識に就いて様々な側面から論じて来たが、そもそも心とは何か、そしてそれはどのように作られるのかという疑問に対しては何ら答えていないと思う。それに対する明確な回答と言えるかどうか正直なところ筆者も自信が無いが、この問題に限りなく肉薄していると思われる部分を同書から引用して行きたい。

先ず、心は脳から生じるという一般常識をラマナ・マハルシ(以下、同師)は一刀両断にする(P226)。

質問者  心は脳から生じると言われます。
マハルシ 脳はどこにあるのだろう? 身体のなかである。私は身体そのものが心による投影だと言う。あなたが脳に就いて語るとき、あなたは身体のことを考えている。身体をつくり出し、脳がその中にあり、その脳が身体の活動の中枢だと決めつけるのは心である。

これまでもたびたび本章①心と世界や、第6章④投影された世界においても説明してきた通り、この現象世界は真我の光が心を通して投影されたものであるから、我々の身体とてその一部であり、心によって投影されたものであることに変わりはない。同師はそのことを言ったのである。

又、心を真我との関係において次のように説明している(P92)。

質問者  真我は心を超越し、しかもその実現は心によって為されると言われています。「心がそれを思うことは出来ない。心によってそれを考えることは出来ない。心だけがそれを実現できる」と。どうすればこの矛盾を解くことができるのでしょうか?

マハルシ アートマンはムールタ・マナス(死んだ心)、つまり想念のない、内側に向かった心によって実現される。そのとき、心はそれ自身の源を見て真我となるのである。それは主体が客体を近くするような状態ではない。部屋の中が暗いときは、照明と対象物を認識する目が必要となる。だが太陽を見るのにランプは必要ない。ただ振り向いて、自ら輝く太陽に目を向けるだけでいい。それは心にとっても同じことだ。対象物を見るときは、心から反映された光が必要となる。ハート(筆者註:真我のこと)を見るには、心をそれに向けるだけで十分なのだ。そうすれば心は消え失せ、ハートが輝きだすだろう。心の本質は覚醒あるいは意識である。しかしながら、自我が心を支配するとき、それは理性、思考或いは感覚機能として働く。自我によって限定されない普遍的心は、それ自体から分離していない。それゆえ、それはただ気付いている。これこそ聖書が、「私は私であるものである」(I AM THAT I AM)という言葉で云お見する所のものである。心が真我である至高の意識のなかに消え去るとき、好む力、行う力、知る力といったさまざまな力も自意識の中に現れた想像の産物として見られ、完全に消え去る。考えることや忘れることとして機能する不純な心こそが生と死の輪廻、サンサーラであり、考えることや忘れることといった活動が消滅した真実の「私」だけが純粋な解脱である。そこに誕生と死の原因であるプラマーダ(真我の忘却)はない。

次に同師は、心(或いは自我)とは真我から発せられる閃光である(P93)、或いは真我から投影されたものであると言う(P121)。

質問者  どうすれば真我を実現することができるのでしょうか?
マハルシ 絶対的な真我が存在する。そして炎から火花が飛び散るように、真我から閃光が発せられる。この閃光が自我と呼ばれるものである。無知な人の場合、自我は立ち現れると同時に、それ自体を一つの対象物と同一化する。それは対象物とのかかわりに依存せずには存続することが出来ない。この関わり合いこそがアジニャーナ或いは無知であり、その破壊こそが我々の努力目標である。もし対象物との同一化の傾向がなくなれば、自我は純粋なままとどまり、源へ溶け去るだろう。身体との誤った同一化がデハートマ・ブッディ(私は体だという観念)である。良い結果が現れる前に、まずこの観念が去らなければならない。

「(ヴィチャーラ、即ち内面の探求において)心をつかみ、それを調べていくようにと初心者は教えられる。しかし、結局心とは何だろうか? それは真我の投影である。それがどこから現れ、誰にとって現れるのかを見出しなさい。すると‘私’という想念(筆者註:自我のこと、本章②を参照)がその根本原因であることが知られるだろう。さらに深く見極めなさい。すると、‘私’という想念は消え、そこには‘私’という意識の無限の広がりがあるだろう。」

又同師は、「心の破壊」が重要であるが、それは、本来心は存在しないということを認識することだと説く(P276)。それは、本ブログでこれまでたびたび触れて来た、唯一の実在はプルシャ(ブラフマン或いは真我)であり、それ以外は実在ではないとの考え方とも一致している(第13章⑫プルシャとプラクリティ参照)。

質問者  深い眠りとラヤ(心が一時的に停止した超越状態)とサマーディの違いは何でしょうか?
マハルシ 深い眠りのなかでは、心は没入しているが破壊されてはいない。ひとたび没入したものは再び現れてくる。それは瞑想のなかでも起こり得る。だが、破壊された心が再び現れることはない。ヨギの目的はラヤのなかに沈み込むことではなく、心を破壊することである。瞑想の平和のなかでラヤはしばしば起こる。だが、それでは十分ではない。心を破壊するために、それは他の修練で補われなければならない。ある人たちは取るに足らない想念とともにヨーガのサマーディのなかに没入し、長い時が流れたあとで同じ想念とともに目覚めている。その間、世界では何世代もが過ぎていったのである。そのようなヨギの心は破壊されていない。本当の心の破壊とは、真我を離れて心は存在しないと認識することである。今でさえ心は存在していない。それを認識しなさい。自動的にすべてが起こっていく日常の活動のなかにこそ、その真実を認識しなければならないのである。日常の活動を促している心とは実在のものではなく、真我から生じる幻影のようなものにすぎない。これが心を破壊する方法である。

最後に、「心の本性」について、同師はこう語っている(P395)。

「心」と呼ばれているものは、真我に内在する驚くべき力である。心は全ての想念を起こさせる源である。想念を離れて心のようなものは存在しない。それゆえ、想念が心の本性である。想念を離れて、世界という独立した実体があるわけではない。深い眠りの中に想念はなく、世界もない。クモが自分自身から糸を出し、それをまた自分のなかに引き入れると同じように、心はそれ自身から世界を投影し(筆者註:本章①心と世界を参照)、再びそれ自身のなかへ還元させる。真我の中から心が外に出るとき、世界が現れる。それゆえ、世界が(実在として)現れているとき、真我は現れない。真我が輝いて現れるとき、世界は現れない。人が絶え間なく心の本性を探求しつづけるならば、心は真我をあとに残して死滅するだろう。「真我」と呼ばれているものは、アートマンである(筆者註:本章②参照)。心はつねに何か粗大なものに依存することによってのみ存在する。それはひとりであることができない。微細身或いは個我(ジーヴァ)と呼ばれるのは心である。

同書からの引用は以上であるが、「心の本性」とは何なのか、或いは心はどのように作られるのか、正直なところ筆者も未だに得心が行かない。恐らくはこの問いへの解も所謂「不立文字」であり、文章で表現することは出来ない上、そもそも真我実現までは判らないのかも知れない。心を探求して行くと真我が判るのか、それとも真我を探求して行くと心が判るのか、取敢えず次回は同師の提唱している「真我探求」の技法の解説を試みたい。

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