アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第17章 ヨーガ・スートラ ②ヨーガとサーンキャ哲学

2012-04-27 06:50:28 | 第17章 ヨーガ・スートラ
以前本ブログ(第13章③インド哲学の中のヨーガ学派)でも説明した通り、ヨーガはサーンキャ哲学と密接な関係を持っている。この点に関する佐保田鶴治先生(以下著者)の説明を、引き続き『解説 ヨーガ・スートラ』(以下、同書)P23から引用して行く。

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・・・ヨーガに関する文献の古いものの中に、サーンキャ・ヨーガという複合詞が多く見られ・・・この複合詞についていろいろな解釈があるが、・・・結論だけをいうと、この複合詞は、ヨーガを主詞とし、サーンキャをその限定詞としている。サーンキャと何らかの関係を持ったヨーガということである。ところで、サーンキャは一つの哲学体系であるし、ヨーガは行法を主とする体系である。両者が結び付くとすれば、サーンキャは理論面を受け持ち、ヨーガは実際面を受け持つことになろう。だから、サーンキャ・ヨーガという言葉は「サーンキャ哲学を理論根拠とするヨーガ行法」という意味をもつであろうと推測される。

では何故に、ヨーガは一番さきにサーンキャ哲学と結び付いたのであろうか? それは、サーンキャ哲学なるものは元来ヨーガから生まれたものであるからである。・・・既に述べたように、ヨーガの母胎となったものは、仏教やジャイナ教を生み出したのと同じ思想圏であった。この思想圏の特色は、原始仏教についてもいえるように、著しく心理学的である、という点にある。この思想圏の行法が禅定すなわち瞑想、静思という心理的操作を中心とする以上、そこに心理学的な考察が発達するのは当然である。・・・ヨーガもまた同じ流れに属する以上、当然心理学的考察を伴っていた。ところが、心理学的考察からはやがて哲学思想、形而上学的思想が生まれる。仏教さえも、ブッダの死後まもなく形而上学をもつようになる。ヨーガの場合は、この形而上学的体系はサーンキャ哲学として、ヨーガ心理学から独立した流派を形成する。しかし、もともと、サーンキャ形而上学はヨーガ心理学を母胎として生まれたものであるから、両者の間には合致する点が多い。


ということで、ヨーガとサーンキャ哲学の結び付きを説明した後、サーンキャ哲学の概略を著者は以下のように説明する(P25~)。

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サーンキャ哲学の根本特色は二つの言葉で言いあらわすことができる。それは、実在論と多元的二元論という二つの言葉である。
サーンキャ哲学の実在論は、因中有果論という渾名によってまことに適切に標示されている。因中有果論というのは、結果は原因のうちに既に実在している、という主張のことである。この場合の因というのは、質料因と形相因とを兼ねたような意味合いを持っている。サーンキャ哲学者のよく使う喩えを借りるならば、陶工が一定量の陶土を使って、一つの瓶を作るという場合、因中有果論の立場では、結果である瓶は既に、最初に陶工が取り上げた一定量の陶土のなかに実在していたのだ、と考える。いかなる場合でも、それまでなかったものが新たに生ずるという考え方を許さないのである。
かように徹底した実在論であるから、この哲学は単に観念的な存在というものを、一切認めず、我々にとっては観念的と思われるものをも、実在論的な立場から説明しようとする。それでは、世界の究極的実在は何かといえば、この哲学では唯一の自性(プラクリティ)と多数の真我(プルシャ)とを立てる。多元的二元論というのはこのことである。客観世界の唯一の原因は自性であって、全ての存在はこの唯一の根本的実在から展開したのである。人間の心理的器官も自性の展開の結果である。サーンキャ哲学では、全てのものをつくり出す働きはもっぱら自性の責任に帰せられている。
それでは、真我は何のためにあり、どんな役目をするのか? 真我はいかなる作業もせず、永久不変であるから、心理作用の主体ですらない。真我はただ対象を見るはたらきを持つだけである。いな、見ることは真我の働きというよりも、寧ろ唯真我の在り方に過ぎない。真我は見るという能力だけからなる純粋精神だといってもよい。しかし、真我は自性から世界、万象が展開するのに無関係ではない。自性から世界が展開するには、真我と自性の出会いということが必要であるからである。この出会いにおいて、自性は自分の方から、真我の経験と解脱のために自らを展開するという任務を買って出た形になっている。
このようにして、自性は自分の中から万象を展開するのであるが、この展開のメカニズムは、自性が三つの徳(グナ)からなる合成物であるという点から説明される。三つの徳(グナ)とは、それぞれ違った性格、傾向を持ったエネルギー的な存在である。

(1) 喜徳(サットヴァ)は微細、軽快で、ものを照らし表す傾向をもち、心理的には快の
性格を帯びている。
(2) 憂徳(ラジャス)は活動の傾向を有し、心理的には不安の性格を帯びている。
(3) 闇徳(タマス)は粗荒で、ものをおおいかくす傾向を持ち心理的には鈍重の性格を
帯びている。

これらの傾向、性格の比較によって判るように、三者は互いに相反する関係に立つべきものであるが、しかも背き離れないで、互いに相依り、影響し合って、永遠に結びついてゆく。三つの徳の間のこのダイナミックな結び合いの上に自性は成り立っている。だから、自性には一瞬間も、静止とか不変とかいう状態はない。しかし、この瞬間瞬間の変化が、持続して同じ変化のくりかえしであれば、たとえば、平衡を保って廻っているコマのように、静止、不変の相を呈するであろう。そのように、三つの徳のダイナミックな相互関連が互いに平衡した力で行われていると、自性は静止した観を呈し世界万象の展開は起こらない。この時には自性は未分化の状態にあるから未顕現(アヴィアクタ)と呼ばれる。この未顕現の自性が、真我と出会う時、展開して顕現(ヴィクリティ)となるのは、自性の基礎因子である三徳の相互間における力のバランスが破れるからである。力のバランスが破れた結果、三徳の中のどれかが優勢になって他の徳を制圧する時に、未顕現の状態もまたやぶれる。かくして、世界の開闢がくるのである。世界開闢の初めには喜徳(サットヴァ)がまず優勢を占める。この時自性から展開したのが覚(ブッディ)である。覚は世界原理としては大(マハット)とも呼ばれる。それから憂徳や闇徳が優勢となるにつれて、覚以下の存在が順次に展開する。それらの存在は諦(タットヴァ)と呼ばれる。諦とは形而上学的存在とでもいうべきものである。その展開の順序を図解すると、

 自性→覚(大)→我慢(アハンカーラ)→意(マナス)→十根(インドリヤ)
                   →五唯(タンマートラ)→五大(ブータ)
   (筆者註:同書本分中の図において、我慢は意と五唯に分岐して繋がっている)

これらの各項について詳説する暇はないが、これらの名称を見ると、心理的な原理から五唯(物質元素のもとになる微細元素)、五大(物質元素)などの物質的原理が発生したことになっているのに気付く。このことは、サーンキャ哲学が心理的なものと物質的なものとを二元的に考えていないことを示すと同時に、この哲学の形而上学がもともとヨーガの心理学的から出ていることを物語っている。但し、心理的な原理から物質的な原理が顕現したと説いても、サーンキャ哲学は決して観念論ではない。心理的なものも物質的なものも、一様に実在的なものとして考えるのがサーンキャ哲学の立場なのである。
これらの諸存在はもともと真我のために展開したのであるから、五大以外は無始の過去から、個々の真我と結びついて離れないのである。これらが、その関係する真我と離れ去るのは、解脱の時以外にはない。世界の劫滅(世界も永い時間をかけて生滅輪廻する。その一度だけ生滅する時間を一劫といい、世界が未顕現状態にある間を劫滅という)の時でも、真我と他の原理とに結び付きは離れない。
我々が心理と呼ぶ現象は、真我と覚以下の真理器官との合作である。自性は元来無意識のものであるから、それから展開した諸器官だけでは心理現象は起こらない。意識性が生まれる原因は真我にあるといっても、真我が心理作用を為すのではない。我々が心理現象と呼ぶところのものは、覚以外のものの作業によって覚の上に創り出された形像に真我の光が落ちることによって、現れるのである。
自性が万物の原因であるといわれるけれども、実は三徳が世界万物の原因なのである。厳密に言えば、常にダイナミックな関係に結ばれているところの三徳が物質精神両面の存在の原因なのである。三徳は真我以外のいかなる自性にも常に必然に相即して存在する原因、即ち内在因である。三徳は世界の根源であるといってもよい。
自性が展開する根本動機は真我の解脱にあるわけだが、どうすれば解脱即ち真我独存は実現するか? 解脱の直接の原因は、真我と自性とが、混同すべからざる二者であることを本当に認識することにある。
ヨーガはその理論面においては、殆どすべてサーンキャ哲学に依っているといえるが、多少違ったところもある。例えば、心(チッタ)という概念は、ヨーガにとっては非常に大切な概念であるが、サーンキャ哲学の体系の中にはない。心(チッタ)はサーンキャ哲学でいう覚から意までを含む広い内包を持っているようである。解脱の因を真我と自性の弁別の智に置く事はサーンキャに似ているが、この真智に達する方法においては違っている。そのほかにも両思想の違った点は幾つかあるが、ここでは省くことにする。


著者の説明は以上であるが、以前紹介した本ブログ第13章③インド哲学の中のヨーガ学派とも読み比べて頂くと更に理解が深まるものと思う。但しこれまでも再三述べてきた通り、筆者は基本的には不二一元論(或いは汎神論と言っても良い)の立場をとるので、上記の説明、特に唯一の自性と複数の真我を立てること、加えて因中有果論や、心(精神)や物質までも「実在」であるとする観方には正直なところかなり抵抗を覚える。更に言えば、前章の主題であったギーターの思想にしても、基本的には汎神論的な立場に立って書かれたものであり、それであるからこそ本ブログにおいてもその多くの章節から引用した。
しかし、サーンキャ哲学の中で心理的なものと物理的なものを一元的に捉える観方や、あらゆるものが三徳から構成されていること、更にプルシャと自性(プラクリティ)を混同してはいけないという考え方(筆者はプルシャを「実在」、プラクリティを「現象」と捉えているが、これは谷口雅春師の名著、『生命の実相』を通じて学んだ考え方である)には共感を覚える。佐保田鶴治先生もそれとなく指摘していることではあるが、或る意味で、この考え方(サーンキャ哲学)は、ヨーガの瞑想を通じて悟りを開く為に考えられた便法と位置付けるべきではないかと筆者も考えている。この二元論と一元論の問題をどのように整理するかに就いては、以前ラーマクリシュナ或いはラマナ・マハルシの言葉を引用して説明した記憶があるが、今後本章ヨーガ・スートラの随所に現れてくるので、都度解説するつもりでいる。

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