本章⑦バクティヨーガでも触れたが、500頁にも及ぶパラマハンサ・ヨガナンダの名著、『あるヨギの自叙伝』に書かれ、筆者の心に深く刻まれた僅か数行の言葉、「たとえ完全な解脱に達しないうちに死を迎えることになっても、クリヤ*を行じたヨギは、過去の努力から得た良いカルマを次の生涯に持ち越して、再び至高の目標に向かって進化の道をたどるよう導かれる」の背景には、明らかにギーターが在る。このことは、本ブログ第15章⑦輪廻転生でも説明したが、念の為再掲する。 (*クリヤ:クリヤ・クンダリニ・ヨーガを指す。第12章⑦参照)
[アルジュナ問う]
「信仰を持っていたが 持続できなかった人 はじめ真我実現の道を進んだが
俗心に負けて ヨーガを完成出来なかった人々は その後いかなる運命を辿るのですか
大力無双のクリシュナよ そのような人は 至上者(ブラフマン)への道を踏み外して
どの世界にも立場がなくなり ちぎれ雲のように消滅するのですか? クリシュナよ
これが私の疑問です ぜひこの不安を取り除いて下さい 私の疑惑を打ち砕く
ことの出来るのは あなたをおいて 他にありません」 (第6章 37-39節)
[至上者(バガヴァーン)こたえる]
「プリターの息子(筆者註:アルジュナのこと)よ 真理を求めて
めでたい行いをした人々は この世でも霊界でも破滅することはない
友よ 善を為した者は決して悪道に堕ちない 挫折したヨギは次生において
純真清浄な者たちの住む星界に往き 長い間そこの生活を楽しんだ後で
地上の徳高き豊かな貴族の家庭に生まれる
または大いなる智識をそなえた ヨギの家庭に生まれてくる
この世において、このような誕生は まことにまことに稀なのである
アルジュナよ そのような家庭に生まれて 彼は前世における神聖な意識を
よみがえらせて その力を一新し 再び最高の目的に向かって努力するのだ
前世で聖なる意識をもっていた徳により 彼は我知らずヨーガの思想に魅かれる
探求心の強い求道者は常に 宗教儀礼を励行する者より勝れている
幾多の誕生をくりかえして修行を重ね 誠実に努力して霊的向上に励み
すべての汚れを洗い清めたヨギは ついに至上の目的地に着くのである
ヨギは苦行者より偉大である ヨギは哲学者より偉大である
ヨギは有益な働き手より偉大である
故にアルジュナよ ぜひヨギになりなさい」 (第6章40-46節)
ということで、ヨーガの修行を開始することによって、仮にその人生で至高の目標即ち解脱に到らなくとも、続く転生に於いて再び解脱への道を効率良く歩むことが出来る、つまり少なくとも永遠に輪廻転生を続ける運命(さだめ)からは解放され得ると解することが出来る。
ところで、ヨーガ関連の本を読んでいると、ジーヴァンムクタ(生前解脱者)という言葉が良く出てくるが、その人はどのような修行を行じ、如何なる特徴を備えているのだろうか。再び『神の詩』から引用するが、次の部分は本章①において一度紹介している部分である。
全智者(かみ)にすべてを一任した人は
既に現世(このよ)において善悪の行為を離れる
故にアルジュナよ ヨーガに励め
これこそ あらゆる仕事の秘訣なのだ (第2章50節)
知性(ブッディ)が真理(かみ)と合一した人は
行為の結果を捨てることによって
生と死の束縛から解放され
無憂の境地に達するのである (第2章51節)
君の心がヴェーダの美辞麗句に
決して惑わされることなく
自己の本性を悟って三昧に入ると
至聖(かみ)の意識に到達するのだ (第2章53節)
ここで、51節の「ヨーガの修行によって知性(ブッディ)が真理(かみ)と合一した人」という部分は、53節の「自己の本性を悟って三昧に入ると 至聖(かみ)の意識に到達する」と同じ意味と解釈することが出来ると思う。即ち、ヨーガの修行を通じて三昧の境地に入り、プラクリティである知性(ブッディ)が真我(プルシャ)と合一することが解脱することにおいて重要なポイントであると解することができるが、これは本ブログにおいて以前触れた記憶がある。
以下も本章①と重複するが、生前解脱者の特徴である。
[アルジュナ問う]
超越者(かみ)に意識を没入した人は
どのような特徴をもっていますか?
また どのような言葉を語り
どのようにして坐し また歩きますか? (第2章54節)
[至上者は語る]
プリターの息子よ さまざまな感覚の
欲望をことごとく捨て去って
自己の本性に満足して泰然たる人を
純粋超越意識の人とよぶ (第2章55節)
三重の逆境に処して心を乱さず
順境にあっても決して心おごらず
執着と怖れと怒りを捨てた人を
不動心の聖者(ムニ)とよぶ (第2章56節)
善を見て愛慕せず
悪を見て嫌悪せず
好悪の感情を超えた人は
完全な智識(プラジュニャー)を得たのである (第2章57節)
肉体の感覚を制御して
意識をわたしに合致させて
しっかりと固定できた人を
不動智を得た聖者とよぶ (第2章61節)
解脱への正規の方法(みち)を修行し
感覚の統御に努力する人は
至上者(かみ)の恩寵(めぐみ)をいただいて
あらゆる愛着と嫌悪から解放される (第2章64節)
至上者(かみ)の恩寵(めぐみ)を得たとき
物質界の三重苦は消滅し
この幸福(さち)ゆたかな境地で
速やかに知性(ブッディ)は安定する (第2章65節)
物欲 肉欲をすべて放棄した人
諸々の欲望から解放された人
偽我なく 所有感をもたぬ人
このような人だけが真の平安を得る (第2章71節)
これが絶対真理(ブラフマン)と合一する道
ここに達すれば一切の迷妄(まよい)は消える
臨終の時においてすらここに至れば
必ずや無限光明の国に帰入する (第2章72節)
これ以外にも、この生前解脱者の境地に触れた個所がいくつかあるので、紹介しておきたい。
真智によって無明の闇を打ち破り
大光明のなかに入ったならば
いままでの疑問は悉く氷解する
真昼の太陽の下で万物が明らかなように (第5章16節)
知性と心をそれ(タット)に固定して不動となり
それを全く信頼し それに全託したとき
人は全き智慧により全ての疑惑を除き
自由(げだつ)への道をまっすぐに進んで行く (第5章17節)
真理を学んだ賢者は
まことに心やさしく謙遜であり
僧侶(バラモン)も牛も象も犬も犬喰らいも
差別せず平等に観ている (第5章18節)
万象を平等に見て常に心平静な人は
すでに生死輪転を克服している
彼らはブラフマンのように円満無欠だ
すでにブラフマンの中に安住しているのだ (第5章19節)
自己の本性を覚った人は
愉快な事物に会っても喜ばず
不愉快な事物に会っても悲しまない
二元相対を超えて遍照光明(ブラフマン)の中に安住している (第5章20節)
解脱した人は感覚の快楽(よろこび)や外物に関心なく
常に内なる真我(アートマン)の楽しみに浸っている
真我実現の人は心を至上者(ブラフマン)に集中して
限りなき幸福を永遠に味わっている (第5章21節)
解脱への道は甚だ困難なように思えるが、解脱しない限り我々は永遠に輪廻を繰り返す。
『解脱に匹敵する智慧はなく、ヨーガに匹敵する霊力もなし』 (マハーバーラタ)
未だヨーガを行じることに戸惑っている方がいたら、至上者(かみ)への高速直行便であるクリヤ・クンダリニ・ヨーガに、是非一歩踏み出して頂きたいものである。
このブログは書き込みが出来ないよう設定してあります。若し質問などがあれば、wyatt999@nifty.comに直接メールしてください。
[アルジュナ問う]
「信仰を持っていたが 持続できなかった人 はじめ真我実現の道を進んだが
俗心に負けて ヨーガを完成出来なかった人々は その後いかなる運命を辿るのですか
大力無双のクリシュナよ そのような人は 至上者(ブラフマン)への道を踏み外して
どの世界にも立場がなくなり ちぎれ雲のように消滅するのですか? クリシュナよ
これが私の疑問です ぜひこの不安を取り除いて下さい 私の疑惑を打ち砕く
ことの出来るのは あなたをおいて 他にありません」 (第6章 37-39節)
[至上者(バガヴァーン)こたえる]
「プリターの息子(筆者註:アルジュナのこと)よ 真理を求めて
めでたい行いをした人々は この世でも霊界でも破滅することはない
友よ 善を為した者は決して悪道に堕ちない 挫折したヨギは次生において
純真清浄な者たちの住む星界に往き 長い間そこの生活を楽しんだ後で
地上の徳高き豊かな貴族の家庭に生まれる
または大いなる智識をそなえた ヨギの家庭に生まれてくる
この世において、このような誕生は まことにまことに稀なのである
アルジュナよ そのような家庭に生まれて 彼は前世における神聖な意識を
よみがえらせて その力を一新し 再び最高の目的に向かって努力するのだ
前世で聖なる意識をもっていた徳により 彼は我知らずヨーガの思想に魅かれる
探求心の強い求道者は常に 宗教儀礼を励行する者より勝れている
幾多の誕生をくりかえして修行を重ね 誠実に努力して霊的向上に励み
すべての汚れを洗い清めたヨギは ついに至上の目的地に着くのである
ヨギは苦行者より偉大である ヨギは哲学者より偉大である
ヨギは有益な働き手より偉大である
故にアルジュナよ ぜひヨギになりなさい」 (第6章40-46節)
ということで、ヨーガの修行を開始することによって、仮にその人生で至高の目標即ち解脱に到らなくとも、続く転生に於いて再び解脱への道を効率良く歩むことが出来る、つまり少なくとも永遠に輪廻転生を続ける運命(さだめ)からは解放され得ると解することが出来る。
ところで、ヨーガ関連の本を読んでいると、ジーヴァンムクタ(生前解脱者)という言葉が良く出てくるが、その人はどのような修行を行じ、如何なる特徴を備えているのだろうか。再び『神の詩』から引用するが、次の部分は本章①において一度紹介している部分である。
全智者(かみ)にすべてを一任した人は
既に現世(このよ)において善悪の行為を離れる
故にアルジュナよ ヨーガに励め
これこそ あらゆる仕事の秘訣なのだ (第2章50節)
知性(ブッディ)が真理(かみ)と合一した人は
行為の結果を捨てることによって
生と死の束縛から解放され
無憂の境地に達するのである (第2章51節)
君の心がヴェーダの美辞麗句に
決して惑わされることなく
自己の本性を悟って三昧に入ると
至聖(かみ)の意識に到達するのだ (第2章53節)
ここで、51節の「ヨーガの修行によって知性(ブッディ)が真理(かみ)と合一した人」という部分は、53節の「自己の本性を悟って三昧に入ると 至聖(かみ)の意識に到達する」と同じ意味と解釈することが出来ると思う。即ち、ヨーガの修行を通じて三昧の境地に入り、プラクリティである知性(ブッディ)が真我(プルシャ)と合一することが解脱することにおいて重要なポイントであると解することができるが、これは本ブログにおいて以前触れた記憶がある。
以下も本章①と重複するが、生前解脱者の特徴である。
[アルジュナ問う]
超越者(かみ)に意識を没入した人は
どのような特徴をもっていますか?
また どのような言葉を語り
どのようにして坐し また歩きますか? (第2章54節)
[至上者は語る]
プリターの息子よ さまざまな感覚の
欲望をことごとく捨て去って
自己の本性に満足して泰然たる人を
純粋超越意識の人とよぶ (第2章55節)
三重の逆境に処して心を乱さず
順境にあっても決して心おごらず
執着と怖れと怒りを捨てた人を
不動心の聖者(ムニ)とよぶ (第2章56節)
善を見て愛慕せず
悪を見て嫌悪せず
好悪の感情を超えた人は
完全な智識(プラジュニャー)を得たのである (第2章57節)
肉体の感覚を制御して
意識をわたしに合致させて
しっかりと固定できた人を
不動智を得た聖者とよぶ (第2章61節)
解脱への正規の方法(みち)を修行し
感覚の統御に努力する人は
至上者(かみ)の恩寵(めぐみ)をいただいて
あらゆる愛着と嫌悪から解放される (第2章64節)
至上者(かみ)の恩寵(めぐみ)を得たとき
物質界の三重苦は消滅し
この幸福(さち)ゆたかな境地で
速やかに知性(ブッディ)は安定する (第2章65節)
物欲 肉欲をすべて放棄した人
諸々の欲望から解放された人
偽我なく 所有感をもたぬ人
このような人だけが真の平安を得る (第2章71節)
これが絶対真理(ブラフマン)と合一する道
ここに達すれば一切の迷妄(まよい)は消える
臨終の時においてすらここに至れば
必ずや無限光明の国に帰入する (第2章72節)
これ以外にも、この生前解脱者の境地に触れた個所がいくつかあるので、紹介しておきたい。
真智によって無明の闇を打ち破り
大光明のなかに入ったならば
いままでの疑問は悉く氷解する
真昼の太陽の下で万物が明らかなように (第5章16節)
知性と心をそれ(タット)に固定して不動となり
それを全く信頼し それに全託したとき
人は全き智慧により全ての疑惑を除き
自由(げだつ)への道をまっすぐに進んで行く (第5章17節)
真理を学んだ賢者は
まことに心やさしく謙遜であり
僧侶(バラモン)も牛も象も犬も犬喰らいも
差別せず平等に観ている (第5章18節)
万象を平等に見て常に心平静な人は
すでに生死輪転を克服している
彼らはブラフマンのように円満無欠だ
すでにブラフマンの中に安住しているのだ (第5章19節)
自己の本性を覚った人は
愉快な事物に会っても喜ばず
不愉快な事物に会っても悲しまない
二元相対を超えて遍照光明(ブラフマン)の中に安住している (第5章20節)
解脱した人は感覚の快楽(よろこび)や外物に関心なく
常に内なる真我(アートマン)の楽しみに浸っている
真我実現の人は心を至上者(ブラフマン)に集中して
限りなき幸福を永遠に味わっている (第5章21節)
解脱への道は甚だ困難なように思えるが、解脱しない限り我々は永遠に輪廻を繰り返す。
『解脱に匹敵する智慧はなく、ヨーガに匹敵する霊力もなし』 (マハーバーラタ)
未だヨーガを行じることに戸惑っている方がいたら、至上者(かみ)への高速直行便であるクリヤ・クンダリニ・ヨーガに、是非一歩踏み出して頂きたいものである。
このブログは書き込みが出来ないよう設定してあります。若し質問などがあれば、wyatt999@nifty.comに直接メールしてください。