ヲノサトル責任編集・渋東ジャーナル 改

音楽家 ヲノサトル のブログ

吹き替えとツッコミメディア

2009年10月31日 | 映画/映像

アリステア・マクリーンで思い出してしまったので、映画の話を続ける。

今、「吹き替え」が好きだ。

昔のTV洋画劇場って、俳優の声は全て「吹き替え」だった。アラン・ドロンを演じる野沢那智。クリント・イーストウッドの山田康雄。ロジャー・ムーアの(そしてMr.BOOの!)広川太一郎… 個人的には、今でも本人よりも吹き替え声の印象の方が強い。完全に「刷り込まれて」しまっているのだ。たとえばかの名作コメディシリーズ『モンティ・パイソン』なども、字幕つきの英語版で観るより当時の日本語吹替版で観る方が、はるかに笑えてしまう。

だいたい「吹き替えの日本語」ってのが、言語学的に非常に興味深い存在だ。

「おお、心の底から愛してるわ、ジャック」とか。
「このくそ野郎、叩きのめしてやるぜ!」とか。
「ゆうべは会えなくてごめんよキャサリン。マサチューセッツにいる叔母のところでディナーをとっていたんだ」とか。

そんな日本語、ねえよ!!!

…いや、もちろん言語学的には日本語なのだが、日本人だったら絶対にしゃべらない(しゃべれない)台詞ではあるまいか。外国と日本の間の真空地帯にポッカリと浮いたような、謎の言葉。面白すぎる。

この辺の機微を上手く突いたのが、数年前に世間を笑かしてくれた『ホットペッパー』のCM。

『宴会芸』篇
『喜んで』篇
『ダイナー』篇
『食べました』篇

ね? 吹き替え。面白いですよね。

+ + +

子どもの頃は、しかし「吹き替え」なんて大嫌いだった。TVの洋画劇場を観ては「吹き替えなんて!」と小馬鹿にしていた。だいたい、CMで途切れ途切れだったり、なぜか不自然にカットされるのも嫌だった。(逆に『ノーカット一挙放映!』なんてのが特別な宣伝文句になる時代だった)それだけに映画館で、吹き替えじゃないアチラの俳優さんのナマ声を聴くと、それだけでウットリと「本物」の世界に浸れたものだ。

小学生時代は映画音楽が大好きだったのだが(それが音楽の道を目指したきっかけだが…その話はまたいつか)「あ、あの映画の曲が入ってる!」と思って買った『愛のスクリーンミュージック大全集』みたいなタイトルのレコードを、聴いてみると「…ん…?なんか雰囲気、違う…」。ライナーをよく見ると、演奏しているのは「レイモン・ルフェーブル楽団」だったり「カラベルときらめくストリングス」だったりして。

レコードにもどうやら「O.S.T.(オリジナルサウンドトラック)」というものがあると気づき、そちらを買ってみると、まさにこれ!これがあの映画で流れていたサウンドそのものだよ!と感動。再演盤とOSTの違いって、俳優さんのナマ声と吹き替え版の違いっていうのと、どこか似ている気がした。「本物」と「偽物」の違い。

「吹き替え」という風習が廃れていったのは、「レンタルビデオ」という業態が生まれて簡単に映画が家庭で観られるようになり、各TV局も洋画のノーカット・オリジナル字幕版上映を始めていった80年代以降の事ではないだろうか。

それはちょうど、「洋酒」に憧れながらトリスや白札といった国産ウィスキーを(水割りで)飲んでいた時代から、平行輸入の酒など量販店で簡単に手に入るようになり、若造でもバーボンだのカクテルだの気楽に飲めるようになった時代への変化と、シンクロしていた気がする。

あるいは海外アーティストの新譜を、国内版が出るまで待ってから買っていた時代から、輸入盤をそのまま買ったりMTVで即座に映像すらチェックできるようになった時代への変化。今や「洋楽」「邦楽」なんて言葉を使う人が、おそらく音楽評論家以外にはいなくなったのも、映画の世界と似ている。国境に関係なく全ては同じレベルで入手できる情報なのだから(たとえばamazonでDVDを発注する分には、洋画だろうと邦画だろうと納期にも値段にも何の差異もない)「洋」も「邦」もないのだ。

と考えると、つまりは情報が即時入手できる時代になったため、「吹き替え」という加工作業の付加価値がなくなった、ということか。「本物」が簡単に手に入るようになったのだ。なぜ「偽物」で我慢しなきゃならない?というわけ。

+ + +

だが、しかし。

その「情報の即時入手」がほぼ極限まで行き着き、世界の裏側の出来事もほぼ時差無しで把握できるところまできた現在。「偽物」感、「加工」感、「付け足し」感に、逆に再び価値が発生してきているとは言えないだろうか。

ぼくが今イメージしているのは、『ニコニコ動画』や『ツィッター』や『セカイカメラ』のことだ。

ご存知の通り『ニコニコ動画』は、YOU TUBE同様のゲリラ的映像送受信が魅力なのだが、それに加えて「リアルタイムなコメント性」が最大の面白さだろう。流れる映像に、一々ツッコミが入る感覚。DVDの副音声に関係者のオーディオ・コメンタリーが入ってたりするのを文字でやっているような。

『ツィッター』は、掲示板的なタイムライン上に個々の「つぶやき」を並べるシステム自体は、たとえばFIRST CLASSのような過渡期のシステムで頻繁に行われていた「公開チャット」に似ているけれども。会話になってなくても良いし、つながっていなくても良いところが、チャットとは違う。むしろ、現在それぞれの目の前にある事象に、それぞれがボソッとツッコミを入れ続けている感覚。そうしたツッコミが延々と集積していく…そんなメディアではないだろうか。

そして『セカイカメラ』。セカイカメラの「エアタグ」が画期的なのは、『マイノリティ・リポート』から『24』まで様々な過去の近未来映画で散々観てきた「リアルな世界にヴァーチャルな情報がレイヤーされる」情報可視化デバイスが、ついに実現したこと。でもそれって言いかえれば、リアルな風景にバーチャルな世界からツッコミが入っているようなものではないか。たとえば、霊媒の人が見ると、現実世界にも過去の霊魂やら残存思念やらが漂ってみえるのかもしれない(ぼくはそういうの信じない…っていうか苦手だけどね)。同じように、過去に入力された「残存ツッコミ」を、現在の世界風景に重ね合わせて観ることができる、それが『セカイカメラ』ではないのか。

このように考えれば、『ニコニコ動画』も『ツィッター』も『セカイカメラ』も、要は情報世界にツッコミを入れるメディアではないかと思うのだ。そして、これらが生まれた背景にあるのは、もはや「ツッコミ」という形でしか加担できないほど、正確かつ即時的に入手できるようになった、あらゆる情報のリアルさ加減。

いま自分が「吹き替え」に奇妙な魅力と愛着を感じるようになったのは、そんな時代の流れと何かシンクロしている気がする。「吹き替え」を、映像に対する「ツッコミ」と読み替えて面白がる…そんな発想。

ま、ぶっちゃけて言えば、まだ字幕が読めない息子に見せるDVDを探す基準が「吹き替えの有無」なので、吹き替えのことを考えたり吹き替えで映画を観る機会がやたら多くなった…ということの反映にすぎないのかもしれないが(笑)

探してみたら、こんなサイトもあったよ。
『吹替の帝王』
(タイトルはもちろん映画『北国の帝王』のパロディですよね)

…うむ!「吹き替え」。本当にキテるかもしれんぞ、今!!!


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