ヲノサトル責任編集・渋東ジャーナル 改

音楽家 ヲノサトル のブログ

クリスチャン・マークレイ作品集

2005年10月08日 | レビュー
刊行されたことをWIRE誌のレビューで知り,わくわくしながらAMAZONで探して注文しておいたクリスチャン・マークレイの作品集が届いた.


マークレイは,ジョン・ゾーンと並ぶ80年代NYフリーミュージックの最重要人物の1人である.複数のターンテーブルとレコードを用いてリアルタイムなサウンド・コラージュを演奏する即興プレイヤーとして,おそらく最も有名な音楽家だろう.

同じターンテーブリズムでも,ヒップホップのミュージシャンはグルーヴィなビートを生み出すための道具や材料として既成のレコードを利用するが,マークレイはそもそも「グルーヴィなビート」のような無意識の共同幻想を破壊するためにこそレコードを利用する.ひらたく言えば,全く脈絡のないサウンド素材を次々に発音し,引っ掻き,擦り,様々な音が同居するカオス状態を出現させるのが彼のスタイルだ.

だが,そもそも僕らをとりかこむ現実の音響世界とはそうしたものではないか,無秩序に音は鳴り,消え,時にはうっすらと関連する音があったり,ハッと驚くほど新鮮な音もあれば,うんざりするほど紋切型の音もごろごろころがっている…それが日常生活の聴覚体験だ.

マークレイのパフォーマンスでは,あらゆる既成の音源が切り刻まれ,異様なハイスピードでリミックスされていくが,それはそのまま,無数のノイズやメディアや既成の音楽に包囲されたこの社会の,音によるカリカチュアのように響く.

僕はかつて細川周平さんの『レコードの美学』という本で彼の存在を知り,興味を持った.

初めてライヴを観たのは,今は無き東京パーン@汐留での「100TURNTABLES」というコンサート.ここでのマークレイは,大友良英さんら共演者と共に,100台のTECHNICS SL-1200を同時演奏するという,記録的なパフォーマンスをやってのけた. 

コンサート終幕,それまで様々なレコードを鳴らしていた100台のターンテーブルが,1個1個電源を落とされ,回転数が次第に落ちて停止していき,沈黙にたどりつくまでの何とも言えず美しい音響は今でも鮮明に憶えている.この世の全ての音が死んでいく日があるとしたら,その時耳にするのはあのようなサウンドかもしれない.

そしてまた,螺旋状に並べられた100台のターンテーブルという絵ヅラも,見事なものだった.まるでインスタレーションのように.いや,それはむしろ当然か.マークレイは美術作家であり,これまで多数のインスタレーションを手がけているのだから.

この本は,ミュージシャンとしてではなく,美術作家として,マークレイがこれまで発表してきた作品を紹介するものだ.ページを繰ると,なにしろその物量に驚かされる.これはほとんど紙上回顧展というべきボリューム.そのほとんどがカラー写真というところも嬉しい.レコード・ジャケットを用いたり,レコード盤そのものを素材とするコラージュ作品は,質感や色などのリアリティそのものが「表現」として重要なのだから.

そう,「ミュージシャンとしてではなく」と言っても,この人の美術作品は何らかの形で音にまつわるものだ.

ただし,いわゆる「サウンドアート」と大きく異なるのは,「音」そのものがテーマというよりも,「音と人の関係」つまり音楽文化そのものがテーマになっている点だ.そしてその手法は,演奏家としての彼がとるスタイルと完全に首尾一貫している.ひとことで言えば「サンプリング」だ.

たとえば先に挙げたようなレコード・ジャケット・コラージュの一つ『Foot Stompin'』は,3枚のジャケットを貼り合わせただけの作品だ.


Christian Marclay, Foot Stompin' 1991

ここでは,マイケル・ジャクソン『スリラー』のあの寝そべった上半身に,シドニー・バーンズ『フット・ストンピン・ミュージック』の股間と,ロキシー・ミュージック『ロキシー・ミュージック』の下半身が「リミックス」されている.ただそれだけ.このベタな芸風はほとんど瞬間芸的な「ネタ」の世界だ.

しかし,量とは質である.このように単純な「貼り合わせて人体つくろう」シリーズ(と勝手に命名)を始め,「貼り合わせて顔つくろう」シリーズや「貼り合わせて超長い(ギターの)ネックつくろう」シリーズや「口もとだけ貼り合わせよう」シリーズや「指揮者の上半身にミニスカートの下半身」シリーズや「ジャケット貼り合わせて立体の人体模型をつくる」シリーズや…これでもかと続くジャケット・アート群の物量に,せせら笑っていた口元は次第にあんぐりと開いていく.

「貼り合わせ」はさらに展開していく.「切り刻んだアナログ盤をもう一度貼り合わせて1枚にする」シリーズ,「アナログ盤を貼り合わせてオブジェつくる」シリーズ,「カセットテープを貼り合わせてフェンスを作る」「カセットテープ(のテープ部分だけ)で編んだ枕」「レコード盤を敷き詰めた床」「CD盤を敷き詰めた床」「様々な映画の中の電話シーンだけが大量に同時上映される映像インスタレーション」……たかが貼り合わせの編集じゃないか,と言うにはあまりにも手間暇かかりそうな膨大な作業を想像するだけで,見ているこちらが疲労してくる.

見ようによってはお笑いネタにも思えるこれら作品群の,しかし根本にあるのは,似通ったものを大量生産・大量消費・大量再生産・大量再消費・大量(以下略)し続ける我々の社会と文化へのクールな観察眼だ.

レコードやCDは音楽の「容器」にすぎない.重要な情報は,容器に収納された「音響」そのものの方だ.……というのが一般常識だろう.

しかし,それではなぜクラシック音楽のレコードと言えば決まって黒い空間を背にタクトを振る指揮者の写真なのか?なぜ何の関係もないレコードであっても似たようなミニスカート女性の下半身がいつも使われるのか?なぜギタリストは誰もがギターのネックを持った手のアップをジャケットに使うのか?なぜジャケ写の「顔」ってのはあれほど似通ってくるのか?

このようにひとたび疑問を持ち始めると「常識」はたちまち揺らぎ始める.我々が購入し,聴いているのは,果たして「音楽」そのものなのか?それともジャケットが示す「このレコードはこのような音楽です」というマニフェストの方なのか?いやそもそも「音楽そのもの」などというものがこれまで存在したためしがあるのか?レコードとは,カセットとは,CDとは,いったい何なのか?

アートの条件の一つは,感覚と感情にショックを与え,それによって人に何ごとかを考えさせることだろう.たとえばかつてのポップアートは,高度資本主義経済の下で「ポップ化」された我々の環境や生活を批評してみせたように.それは「疑問符の力」だと言って良い.

そしてマークレイが我々につきつけるのは,音楽メディアにどっぷり漬かり,疑いも持たずそれを楽しく消費し続ける,我々の音楽生活,音楽文化に対する「疑問符」だ.

誰もがi-podを楽しみながら携帯メールを打ち続ける今どきの電車内風景や,CD店頭の試聴機とヘッドフォンで結ばれた人々が立ち並ぶ光景にふと疑問を感じた経験が一度でもあったなら,この作品集に興奮させられることは確実である.



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