ヲノサトル責任編集・渋東ジャーナル 改

音楽家 ヲノサトル のブログ

[映画]『セッション』というスポ根マンガ

2015年04月21日 | 映画/映像

映画『セッション』を見た。

既にあちこちで評論が飛び交っているので、当方が主張すべき事など何も残っていないが、自分の備忘のためにやっぱり書いておきます。(※ もちろんネタバレ注意)

+ + +

音楽映画でもジャズ映画でもなく、これは「スポ根マンガ」だ。

この映画の登場人物は全員が最初から最後まで、音楽がもたらす感情の深みとか、表現の芸術的な幅といった音楽の「本質」には、まったく関心がない。追求されるのは、速さ、正確さ、パワーといったフィジカルな面だけ。この映画が描く「演奏」とは要するに、音を使った「競技スポーツ」なのだ。

主人公である音大新入生の専門が、トランペットやサックスなどではなく、ドラムというフィジカル要素の大きい楽器なのは、本来は知的で精密なコントロール作業であるはずの「演奏」という行為を、「身体運動」のみに戯画化するための、必然的な選択と思われる。

競技に「勝つ」ためのハードな特訓は、映画技術的にはクローズアップの連続で表現される。


練習のし過ぎで破けた手の表皮!

氷のボウルに浸した手から水中に広がる鮮血!

飛び散る汗で表面が水浸しのシンバル!

永遠に続くダメ出し、とうに真夜中を過ぎた壁時計!


…身体を痛めつけ、長時間続けてこそ「練習」であるぞ! という、このステレオタイプな演出はどうだ。音楽映画と言うより、ここはやはり「スポ根マンガ」と呼ぶべきだろう。

コンサート会場に急いで注意散漫な主人公の車は(観客の誰もが、くるぞ…くるぞ…と予想する通り)激しい交通事故にあって横転。だが重傷をおった主人公は車から這い出し、血みどろのまま会場に走る。これまたマンガならではの、現実離れした体力である。

要するにこの映画は「フットボール部のルーキーvs.鬼コーチ」とか「カンフー入門者vs.鬼師匠」みたいなスポ根ストーリーを、音楽学校という「文化系」の設定で展開しているわけだ。

何しろこの鬼教師の指導といえば、テンポが違うとか音程がズレてるとか、不正確な演奏にダメ出しすることだけ。音楽を思索したり音楽性を深めたりする指導の場面が皆無なことからも、本作が音楽についての映画でないのは明らかだ。

一方、主人公もまた「音楽」ではなく「音楽家になること」だけが目標で、そのために周りが全く見えていない馬鹿として描かれている。自分から勝手に口説いて勝手に振ったくせに勝手によりを戻したくなったりするガールフレンドの存在も、高飛車な発言で周囲を怒らせてしまうパーティの場面も、主人公の馬鹿度を強調するためのエピソードだ。

その自己中っぷり、空気読めないっぷりは、たとえば『ソーシャル・ネットワーク』でのザッカーバーグの描かれ方にも似ている。とはいえあの作品では、大成功をおさめた若き億万長者がラストシーンで見せる孤独な表情に、映画としての味わいがあった。

だが本作の主人公がラストで見せるのは、あいかわらずパワーでごり押しするだけの「スポーツ」だ。タッチダウンを決めようとライバルのタックルを振り切って走り続けるフットボウラーのように、周りなどおかまいなしに身勝手なプレイを止めず、猪突猛進する主人公。

ところが最後の最後、一度は主人公を陥れようとしたライバル = 鬼教師も、主人公を見ているうちに熱くなってノッてくる。このただひたすら力まかせに叩きまくるだけのパワー・ドラミングが、鬼教師はなぜか気に入ったらしい。

思わず「ええーッ!こンな演奏でいいのーッ!?」と叫びたくなる場面だが、全力で戦った後は仲直りするのがスポ根…というよりも少年マンガの王道。予定調和と笑ってはなるまい。

「お前には負けたぜ(ニヤリ)」「お前こそ、よくやったぜ(ニヤリ)」とかなんとかいった吹き出しが、二人の頭上に見えるようではないか。

これがスポ根マンガでなくて何であろう。たいへん楽しめました。



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