ヲノサトル責任編集・渋東ジャーナル 改

音楽家 ヲノサトル のブログ

ICCのエキソニモとメディアアートへの私見

2010年02月15日 | レビュー

初台のICCに来るのはずいぶん久々。ひょっとしたら4年ぶりぐらい。かつては新しい企画展があるたびオープニングパーティにかけつけ、それがすなわち知人友人との交流会になる…という、ほとんどカフェかクラブのようなノリで使わせていただいていた(←ひどい)。息子が生まれてからは夜の外出を控えたこともあり、全く疎遠になってしまっていた。

開かれていた展覧会は「可能世界空間論」というもの。メタヴァース(インターネット内の仮想空間)に代表される、「我々がふだん暮らしたり触ったりして"リアル"だと思っているもの」以外の場所や物体や空間の可能性を探る企画。

…というのは、あくまでもぼくの乱暴でショーカットすぎる要約。実際は、まさに現在進行形で議論中の複雑かつホットな概念なのだろう。今回は建築、都市計画、デザイン、アートといった諸領域から、この問題への刺激的なアプローチが示されている。

先般の「サイバーアーツジャパン アルスエレクトロニカの30年」展にも参加してたエキソニモの作品は、ここでも光っていた。インターネットというメディア自体を批評的に作品化した、例の「ゴット」シリーズも数点展示されていたのだが、圧巻は《↑》というタイトルの新作インスタレーション。



一見デザイナーとかプログラマーといった今どきっぽいクリエイターのオフィス兼用住宅を思わせるオシャレ空間。雑誌のインテリア特集にでも出てきそうな。しかし奇妙なほど入口からデスクまでが遠く、天井が高くて奥行きの強調された歪な空間配置からは、『未来世紀ブラジル』に出てくる独房オフィスのような、何となく不穏な気配が漂ってもいる。

デスク前に座ってみる。目の前のディスプレイには、座っている自分自身を頭上から撮っているリアルタイム映像。マウスに触ってみると「ビッ!」と嫌な音がして、映像は様々な場所のリアルタイム映像に次々切り替わる。

よく見ると映像の中には「↑」というカーソル印が。どうやら、盗撮カメラ映像で観られる事を前提に、実際の風景のあちこちに、この「↑」印があらかじめ仕込まれているらしい。この作品を観た後は「ウォーリーを探せ!」(古いな)みたいに、実生活やまわりの風景の中についつい「↑」を探したくなってしまうな。

なんとなく、昔観たダムタイプの『PLEASURE LIFE』を思い出した。あの作品は、消費社会でテクノロジーに囲まれて暮らす「おいしい生活」(糸井重里による西武の名コピー)をコミカルかつ皮肉たっぷりに描いた、ポップでブラックなパフォーマンスだった。

エキソニモのこの作品も、まさに2010年現在の「おいしい生活」を戯画化したものだ。コンピュータや映像やネットワークにのっぴきならないほど囲いこまれ、「記号」的な世界にどっぷりと浸って、快適さとひきかえにいつの間にかプライバシーまで喜んで差し出してしまっている我々自身こそ、この部屋の「主」にちがいない。


* * *


しかし久々の来訪であらためて感じたのは、このICCの方針の「軸のぶれなさ」だ。「メディア芸術祭」の混雑と喧噪を味わった後で訪れたせいもあるが、見事に対照的な、ハードエッジでクールな展示内容。ちなみに観客は僕を入れて3名ほどであった…

ここのところ「メディアアート」という言葉は、ニューメディアやニューテクノロジー、あるいは映像やコンピュータを駆使した、目新しく面白おかしいカラクリ装置、ゲーム機のように触って遊べるインタラクティヴな作品群と思われているようだ。(メディアアートを『とんちアート』と揶揄する向きさえある・笑)しかしこれは僕の個人的な考えだが、「メディアアート」最大の機能とは「メディア」そのものを外在化し可視化することではないだろうか。

たとえば古典的な絵画では、キャンバスや絵の具というメディアは何かを表現するための「道具」だ。

絵の具で描かれたモナリザは、科学的に見れば単に「絵の具が表面に盛りつけられた画布」にすぎないが、我々は「絵の具」そのものを鑑賞するわけではなく、そこにモナリザという「絵」を見ようとする。それが絵画鑑賞という「お約束」だ。

だがこの「お約束」自体を疑い、絵の具って何?キャンバスって何?そもそもどうして僕たちはそれを「絵」だと思っちゃうわけ?誰がいつからこの「お約束」を始めたの?…と様々な疑問を持ち始めたら、もういけない。「お約束」通りキャンバスに絵を描くよりも、この「お約束」そのものを、どうにかして目に見えるものにできないか?と様々な策略を考えるようになる。

メディアアートの本質は、どんなメディアを使うかよりも、この「メディアって何?」というクエスチョンマークにあるのではないか。もちろん、最新の技術やメディアを使えば観客は「このメディアいったい何?」とメディアそのものを強烈に意識することになるから、メディアアートがニューメディア寄りになるのも当然だとは思うが。作品に使われるメディアそのものは、実はさほど重要ではないという点を強調しておきたい。

その意味ではたとえば、アートでもオリジナルでも何でもない単なる便器を出品して、展覧会という「メディア」そのものを脱臼してみせたマルセル・デュシャンなど、元祖メディアアーティストと呼んで良いだろう。

いや極端に言えば、ダヴィンチにしろピカソにしろ優れたアート作品のほとんどはメディアそのものへの批評性(アートとは何か/メディアとは何か、という問いかけ)を内包しているわけだから、メディアアートという言葉じたい意味がないのかもしれない。エキソニモの千房くんが先般、自作を評して「メディアアートではない。しいて言えばファインアート」と語っていたのも、この文脈で正しい。

え、待てよ? ファインアートもメディアアート? だったら「メディアアート」にしかできないことって何だろう。

たとえば自転車に乗っている時、ハンドルの向きだのペダルの操作だのといった「自転車というメディア」そのものに過剰に注意していたら、すぐに転んでしまう。自転車をメディアとして意識せず、自動的に扱えるようになって初めて、すいすいと走れるようになる。

携帯電話、インターネット、テレビにゲームに3D映像…様々なメディアやツールを日常的に、まるで自転車のように「乗りこなしている」つもりになっているのが我々の生活だとしたら、あえて落とし穴や通行止めを設置し、その「走り」をいったん止めさせて、「ちょっと待ってよ、アナタが乗ってるその"メディア"をもう一度よく見てごらんよ?」と呼びかける、一種のトラップのようなもの。それが「メディアアート」じゃないだろうか。

「メディア芸術祭」のようにポップで派手でとっつきやすい猥雑な「祭」は、このようなメディアアートの存在を一般に広める上で、もちろんとても重要だと思う。

けれども同時に、ぼくたちが自分の「走り」をいったん止めて、もう一度自分と身の周りのメディア(それは"セカイ"そのものでもある)について考えるためには、1個1個の作品が慎重かつ計画的に提示され、ゆっくりその間を歩いて印象を反芻したり考えごとしたりできる静かな空間が保証された「展」という形式も、絶対に必要だ。

それはちょうど、ぼくら一人一人の生活の中にも、楽しくて賑やかにしゃべったり騒いだりする晴れやかな時間と、静かで孤独にものを考える沈黙の時間の、両方が必要なのと似ている。



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2 コメント

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感想 (gkner)
2010-02-19 13:07:18
なんだかとってもすっきりしました。

ほぐしていくとメディアアートもファインアートも
同じようなものですよね。

メディアアートは対象がいわゆるメディアに絞られてる感はありますが、
それって現代がそれであふれてるからであって。

アートは常に媒質を問うものと
改めて認識しました。ありがとうございます。
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コメントありがとうございました (ヲノサトル)
2010-03-02 13:31:42
一般的に言えば、「油画」が油を材料にするアートであるように、「メディア」を材料にするのが「メディアアート」と考えることもできるのでしょうけれど。

その場合「(ニュー)メディア・アート」とか「(デジタル)メディア・アート」とか「(エレクトロニック)メディア・アート」といった形容詞が省かれてると解釈するべきなのでしょうね。

けれども僕はやはり「材料としてのメディア」と同じくらい「(あらゆる)メディアについて考える」ことの方が、刺激的だし現実的でもある気がするのです。今この世界を生き抜くために。
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