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音楽家 ヲノサトル のブログ

森村泰昌と南伸坊の笑う写真

2010年04月20日 | レビュー

「森村泰昌 なにものかへのレクイエム-戦場の頂上の芸術- 」
 (東京都写真美術館 2010年3月11日 - 5月9日)


圧巻でした。アート界の大スターにして、常に賛否両論つきまとう森村作品だけど、内容以前に展示として、これでもか!これでもか!と展開し続ける圧倒的な情報量とパワーは、やはり凄い。

ご存知の通り「なにものかに化けて写真を撮る」というのが森村氏の"芸風"なわけだが、今回は20世紀の歴史的事件に登場した男たちが、その「なにものか」として立ち現われる。

20世紀とは戦争の世紀であり、テロルの世紀、原子力の世紀、ポップの世紀…いくらでも定義はできるが、なかでもそれまでの時代と全く違うのは「マスメディアの世紀」であったということだろう。新聞やテレビ、写真や映像を通して、現実の「事件」それじたいよりも「事件の"イメージ"」の方が鮮烈な記憶として人々に共有されていったのが、この20世紀。

そう考えれば、これまでメディアが作り出すパブリックイメージとしての「西洋美術史」や「女優」を演じ続けてきた森村氏の活動を集約するようなテーマ、それが今回の展示と言って良いのではないか。

森村作品は、たとえばシンディ・シャーマンから澤田知子に至る「変装して撮る"自画撮り系"アート」に位置づけることもできるだろうし、もっと広く「コンストラクテッド・フォト」の典型として写真史におけるポジションで語ることもできるだろう。しかし、そんな堅苦しい論議がヤボに思えるほど、パッと見て面白い。笑える。ツッコミどころ満載なのである。

とはいえ、そんな森村作品とそのモトネタを比較している記事やサイトは案外見当たらないので、試しにここでやってみよう。


『遠い夢/チェ』(2007)


本物のチェ・ゲバラ
わざとツケヒゲとわかるようにしてるな(笑)しかし服の質感とかは異様に似てる。



『想像の劇場/パブロ・ピカソとしての私』(2010)


本物のピカソ
テーブルに置いた「手パン」の、なんかテキトーな爪が笑える。左手前のボトルが花瓶に変えられてるのは、有名な版画『花束を持つ手』のもじりか。他にも随所の小物にピカソへのオマージュが。



『MISHIMA 1970.11.25-2006.4.6』(2006)


本物の三島

カメラアングルが酷似。後ろの横断幕は三島事件の時にはなかったものだが、"芸術による闘争"的なアジテーションが書かれているようだ。

ちなみにこれは写真だけでなく映像作品にもなっていて、「永遠の芸術バンザイ!バンザイ!」とか激昂して叫び続ける三島(森村)の姿は、さらに強いインパクト。そして演説が終わるとカメラが引いていき、そこは公園で、通りすぎるフツーの人々の誰も演説など聞いてない…というエンディングも、ブラックで良かった。



『想像の劇場/イヴ・クラインとしての私』(2010)


本物のイヴ・クライン

現代美術史上たいへんに有名なクラインの空中浮遊パフォーマンス。いやあ画角もポーズも、よくぞここまで似せられたな…と思わせつつ、パーマ屋の看板とか後ろを走る路面電車とか、どうみても日本の昭和レトロ的な背景という「ツッコミ待ち」なところが、愛らしいではないか。

まあ今どき、フォトショップか何かで「アイコラ」みたいにチョチョイと加工すれば、簡単にこんな写真つくれちゃうのかもしれないが。しかし、やはり大判のゼラチンプリントで、しっかりした「写真作品」という体で展示されている、そこが良いのだな。美術館の静謐な暗闇に、照明当てられて鎮座ましましている「印象」も含めて。

そういった「アナログ写真のオーラ」「美術館のオーラ」的なものこそが、このほとんど宴会芸のような世界を「アート」として担保しているという意味では、デュシャン以降のいわゆる現代アートの「アートという"制度"そのものへの問いかけを作品化する」という伝統を、実に行儀良く守っているアーティストではないかと、個人的には思うのだ。



展覧会を見終えて思い出した、一冊の本がある。

南 伸坊『笑う写真』
(1989 マザーブレーン, 1993 ちくま文庫)


これはアートではなく単に「面白い」という視点から、「写真」とは何なのか、我々は「写真」を通して何を視ているのか…という事を考察する、面白おかしいようで実はかなり深い本なのだが。なんと最終章では著者自らがモデルとなり、古今東西の有名人の「似せ顔」を始めてしまうという。


ゴルバチョフ


マドンナ


マイク・タイソン


郷ひろみ


今井美樹

ズサンと言えばズサン、テキトーと言えばずいぶんテキトーだけど(たぶん衣装や小道具はたまたま家にあった物と思われる)じゃあ似てないか?と言われれば似てなくもないような。いやむしろ誇張しすぎて似てないような。

というか、その「似てなさ」がむしろ「顔マネ」を面白くしている。だってそうでしょう、完璧に同じだったら「似てる」じゃなくて「本物」になっちゃうわけだから。写真は事物の表層を写しとることしかできないメディアであり、「完璧に似てるもの」と「本物」の区別などできない。…という「写真の真実」をこのズサン写真は、はからずも露呈してくれている。

ふりかえれば、森村作品がツケヒゲの痕跡だのあからさまに日本的な背景だのといった「ツッコミどころ」を随所にわざと入れているのも、単に関西人特有のサービス精神というだけでなく(それも大きいような気はするが)写真というメディアや美術という制度そのものをわかりやすく露呈するための、戦略なのではないか。

南さんはこう書いている。

「写真は真実を移すといわれるがそれはごく限られた約束の上に成り立っているにすぎない。[略] 我々は凍結された時間の中の、光と影の視覚情報から、それらを連想し、共感覚的にそれを感じとるのだった。[略] 似せ顔とはつまり、いわば、この構造を白日のもとに引きずり出す、身もフタもない写真表現といっていえなくもない。」(文庫版 P.296-297)

そう、「身もフタもない」。これこそ森村作品の最大の特徴であり、観客や批評家が「面白い!」と絶賛する側と「あんなのただのモノマネだ!」と罵倒する側に分かれる所以ではないだろうか。(そして僕は単純に『面白い!』と思うだけだ。笑)







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1 コメント

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Unknown (せいな)
2010-05-12 00:43:04
ヲノさんの森村さんの展覧会の記事楽しみにしていたのでとても嬉しいです。
確かに遊び心満載、見所満載の展覧会でした。
もっと人が入っていてもよかったのに。
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