ヲノサトル責任編集・渋東ジャーナル 改

音楽家 ヲノサトル のブログ

レベッカ・ホルンを待ちながら

2009年11月17日 | レビュー

レベッカ・ホルン展

レベッカ・ホルンと言えば、90年代初頭のアート・シーンにどっぷりハマッた人間としては、看過できない存在。未来派、ジャン・ティンゲリー 、サバイバル・リサーチ・ラボラトリー、明和電機…etc. 美術史の折々に登場する「ナンセンス・マシーン」の系譜をワッチし続けている人間としては、たいへん気になる作家なのだ。

当時『BT』誌などでオブジェ作品が紹介されるたびに、実物が動くところを見たいなと思っていたのだが。20年以上たって、こんな個展が開催されるとは望外の喜び。美大教員としては恥ずかしいほど、ここのところ美術館に行ってない僕だが、今回なんとか時間をつくって観てきた。



作品数は思ったより少ない(インスタレーションが11点にペインティング数点、映像作品7点)。 少なく感じたのは、前回この美術館を訪れたのが大竹伸朗『全景』展(2006年)だったから。あちらは展示総数2000点という膨大な展示だった、その印象があまりに強いから、なんだけど。

けれども、その少なさ、ポツンポツンとかなり空間をとって配置されていることが、今回の展示ではむしろ効果的に感じられた。

作品のほとんどは、何らかの動力で動く機械。と言っても「動き」としてはかなり地味だ。数分、時には十数分という間隔をおいて、さして複雑ではなく、どちらかと言えばデリケートな動きを見せる作品が大半。「あれ?これって動いてるのかな?」とか「動いてないけど、ギヤやカムシャフトがついてるからそのうち動くんだろうな…」などと想像しながら、ボーッと作品の前に佇む時間がどうしても必要なのだ。また、そのようにして待つには、空間的にもたっぷりした余白が必要だ。というわけで、この規模が正解なのだろう。

余談だが、雨の平日の午前中という絶好の(コンサートの集客だったら最悪の)タイミングで訪れたおかげで、ほとんど貸し切り状態で観覧できたのも幸いだった。

最も実物を見たかったのは『アナーキーのためのコンサート』(1990)という作品で、逆さまのグランドピアノを天井からぶら下げるというサディスティックなオブジェ。これがどんな音を出すのかどう動くのか、写真だけではどうにもわからなくて、たいへん興味があった。

作品が吊られている下に立って眺めてみるが、何も起こらない。そのまま我慢していると、十数分間たった頃、突然「ガーン!」という大仰な打撃音と共に鍵盤がビヨーンと飛び出す。

「で?」と思って見ているが、あとは別に何も起こらない。そしてまた十数分間たつと、鍵盤が本体にしまい込まれていった。たったこれだけの「瞬間芸」かよ!ティンゲリーの有名な自滅機械『ニューヨーク賛歌』のように、何かもっと複雑で派手な動きや音を勝手に想像していたので、笑ってしまった。

考えてみれば、今の僕たちはメディア・アートだのインタラクティヴ・アートというものに慣れすぎていて、機械仕掛けがあれば何か予想もつかないダイナミックな動きを見せつけてくれるだろうとか、作品の前に立ったりスイッチを押したりすれば、即座に何か反応が返ってくるだろうと思ってしまう。どんどん「待つ」ことに耐えられなくなってしまっている。

それはどこか、音楽をCDやサウンドファイルで聴くようになって以来、再生ボタンを押せば即座に音が始まるのは当然と思うようになってしまったのと似ている。アナログレコードやカセットテープの時代には必ず「針をセットする時間」や「テープを巻き戻す時間」が必要だった。逆に、そういった待ち時間こそが「さあ音楽を聴くぞ」と身構えるための「いちについて、よーい…」という準備の間合いでもあった。

ボタンを押せば音が鳴る。そのイージーさと、1つ1つの音楽作品の「重さ」がどんどん薄っぺらになってきていることは、無縁ではないような気がするのだ。あわててつけ加えると、だからといって再生装置を昔のスペックに戻せば音楽が再び「重い存在」になる、と言っているわけではないのだが。

手持ちぶさたにボーッと待ち続けること。待たされたあげく、待った時間に見合わないほど実にささやかな動きを眺めること。これって逆に、ものすごく濃密で贅沢な体験なのかもしれない。いや「待った時間に見合わない」なんて決めつけている自分、何かにせかされ、急がされている自分に、いつのまになっちゃったんだ僕は? そんなことまで考えさせられた。

ちなみに今回の作品の中で、ちょっと気に入らなかったのは楽譜を吊って動かすオブジェ『浮遊する魂』(1990)。使われている譜面がJ.S.バッハってのは「いかにも」すぎじゃないかな。

逆に気に入ったのは、バスター・キートンをモチーフにしたインスタレーション『過ぎゆくとき』(1990/91)での、床上の靴のはるか上に吊り下げられた放電機。これまたじっと待っていると、時おり青い光がバリバリバリ!と静かに上の方に散っていく様子が、実に美しかった。

また、鏡にはさまれた空間で向き合った銃の間を観客が通らなければならない『相互破壊の場』(1992)、「LOVE」「HATE」と書かれたナイフが機械仕掛けでお互いを攻撃しあう『ジェイムズ・ジョイスのためのヌーグル・ドーム』などには、コミュニケーションと攻撃性をテーマにした中山ダイスケくんの作品を思い出したりもした。

(2010年2月14日まで開催中)

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ついでに(と言っては失礼ですが)同時に展示されていた『ラグジュアリー ファッションの欲望』展ものぞいてみた。これが意外に(と言っては本当に失礼なんですが!)興味深かった。

ファッションにおける贅沢とは何か、というテーマの展示なのだが、自分自身は着飾る欲ってあんまり無いほうだと思うけど、女性の「着飾る欲」を日頃からワッチしている身として(何かとワッチしているのです)なるほどと思わされる内容。

「着飾ることは自分の力を示すこと」「削ぎ落とすことは飾ること」「冒険する精神」「ひとつだけの服」という4つのキーワードで、ロココ時代から2000年代に至るファッションの歴史を大胆に縦断するコンセプトが、たいへんわかりやすい。もちろん、服飾と「ラグジュアリー」の関係を解き明かすにはやや単純すぎる気もしたし、展示されているメゾンにもいささか偏りがあるように感じられたが。まあ色々と大人の事情もあるのだろう。

「着飾ることは自分の力を示すこと」のコーナーでは、バロック期の王侯貴族のドレスを観ることができる。金銀糸や宝石をこれでもかこれでもかと縫い込んだ「どないだ!こんだけゼニ使おてまっせ!」(なぜか関西弁)と威圧するかのようなドレスたちの悪趣味さが相当笑えた。



もっとも、隣で観ていた"おばちゃん"たちは「まぁ!キレイねぇ~」「ホントねぇ~」とため息をついていたから、素直に感嘆する方が、現代においてもフツーの(あるいは女性全般の?)感覚なのかもしれないが…。

しかし、髪型を競い合ってどんどん盛り上げていき(現代の"嬢"系ヘアと全く同じ展開だ)最終的には髪上に盛花とか馬車とか積み上げたヘアスタイルに至っては、やはり爆笑する方が素直ではないだろうか。こんなムチャな髪型して人民の税金で遊び暮らしてたら、そりゃあフランス革命で打倒されても仕方ないよな…と思うのは僕だけか?



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