3/14(金) 14:47
僕は評価作業を進めるべく機材のチェックを行っていた。
突然の大きな揺れ。
建物は今まで聞いたことの無い気味の悪い音を上げ、
壁に沿って降りているシャッターは撓み続けた。
大人二人がかりで動かす大きな筐体はフラフラと彷徨い歩くように
移動していた。
怖い
揺れとは異なる震えが両膝に伝う。
それと同時に
遂に来たのか。
という覚悟を決めるときを感じた。
揺れは確かに強く、そして終わりの無いように長い時間揺れていた。
ただ、床が抜けるとか建物全体にヒビが入るというわけではなく、5分程度か?
ある程度の時間が経ってからほぼほぼ落ち着いてきた。僕はどうにも倒れそうな
筐体を押さえていた。無我夢中だったと今でこそ思う。
周りを見渡すと作業をしていた部屋には僕一人になっていてみんな逃げ出していた。
ゆれが落ち着いてきてから地震時に流れていた放送を聴くことが出来た。
どうやらグラウンドに避難しろとのことらしい。
みんなで外に出ることに。僕は上着をつかんで外に出た。
工場の建屋1000人以上いるのではないだろうか?
外にぞろぞろと出てきた。そして放送は工場内と小田原の市内放送が入り混じりながら
聞こえてくる。両者とも混乱しているようだった。
大きな余震がたびたび起こる。そのたびに大きな声がそこかしこで起き、しゃがみこむ人も居た。
僕の携帯電話は使用不可だった。スマートフォンでつながる人が居た。
震源地は東北地方太平洋側沖。前々日の比較的大きな地震は前震だったのかもしれない。
そうなると津波が心配だ。
避難場所のグラウンドと相模湾とは目と鼻の先だった。
小田原の市内放送では大津波警報が出ているとアナウンスが流れていた。
しかし僕らは工場内の点検作業で45分ほど放置されていた。
ある程度余震が収まり、工場内の点検も終了したとのことで作業場に戻り、順次、執務室のある建屋に
戻った。歩いて戻ると、執務室の側の建屋の人たちはまだ外で待機していた。
どうも建屋内部の損壊が激しいらしい。
全員はさらに待ち続け、上のフロアから順次撤退することに。
自分たちの番になり、戻ろうとするがえらく込み合っていて、自分のフロアに戻ったのはさらに40分くらい
かかった。
部長が吼えていた。
「ちんたらしてんじゃねー!!! お前らの所為で帰れない人たちが居るんだぞ!メールチェックなんかしてんじゃねーよ!」
ちんたらなんかしていない。訓練どおりやれてない指揮系統を統括していうのは誰なんだ?
寒さ、恐怖、苛立ち、疲労、心の底からこの893似の組長もとい、部長を殴りたくなったが、
みんなイライラしているだろーし、握った拳を開いて閉まっている非常扉を押して外へ出て行った。
寮にもどると、つい最近掃除をした床がこんなになっていた。
奥の方はこんなに。
箱や電話機は分かるが、この床の散らばりは何なんだろう?
あとで納得。カップヌードルのリフィルカップ(陶器)が割れていた。
こんなもので済んだのだから東北の方々と比べたらだいぶ軽い。
これ以上の災厄が起こらないように願うばかりだ。