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ウイング マレーシア・クアラルンプール校

総合学習塾ウイングマレーシア・クアラルンプール校。マレーシア・アジア経済・政治・社会情報など幅広い話題を提供。

公立高校入試制度が変わる。

2009年11月21日 | 教育全般
各都道府県の公立高校入試で行われている学力試験を免除する”推薦入試制度”について、各教育委員会が制度の廃止や要件の緩和などの見直しを行っている。

学力試験を免除して中学校の内申書や面接などで選抜する推薦入試はこれまで大阪府を除く46都道府県が導入している。

しかし、各都道府県で選抜方式を学力試験重視に移行する動きが広がっており、2007年に和歌山県、2008年の静岡県が廃止を決め、2010年からは埼玉県、青森県、高知県も廃止、さらに2011年徳島県、千葉県、そして2013年に宮城県が廃止する予定である。

推薦入試を廃止する高知県教育委員会は、公立高校の募集定員の半数が推薦入試となっていることから、中学生の学習意欲が低下したと判断し、また全国学力テストで中学3年生の全教科平均が3年連続で46位に低迷したため見直しを決定したとされている。

中学校からの推薦がなくても受験生が自由に志願できる自己推薦に移行を予定しているのは、神奈川県、秋田県、福島県、群馬県、山梨県、長野県、岐阜県、岡山県、香川県である。

また東京都、栃木県も制度の見直しを検討しており、自治体の半分近くが推薦入試の見直しを検討している。





留学生獲得競争・アジア

2009年10月11日 | 教育全般
タイ政府は、外国人留学生を年間10%増を計画し、現在の3万人から今後5年間で10万人の獲得を目標とした。

授業料や生活費の安さを武器に諸外国からの留学生を高等教育機関やインターナショナルスクールに引き寄せる計画である。

英語での授業を受ける大学生は、70,174人、2007年のそれは60,221人と着実に増加傾向であり、その内留学生も2007年11,021人、2008年16,361人と増加傾向にある。

またインターナショナルスクールでは3万2千人が学んでいるが、日本人・韓国人学校などの母国語で指導するインタナショナルスクールもあり、全てが英語教育を受けているとはいえない。

同様にマレーシアも外国人留学生獲得に力をいれており、イスラム色を武器にアフリカや中東からの留学生も近年増えている。

私立高等教育機関は正にアジア諸国間で生徒の奪い合いの傾向にある。

生活費や授業料の安さを売りにするよりも、高等教育機関の教育の質を争うべきであろう。

アジア圏で乱立する私立高等教育機関の今後は、乱立した日本の大学を連想させる。

アジア在住の日本人によるブログ




そろばん人気復活

2009年09月02日 | 教育全般
日本ではそろばんが再び脚光を浴びている。

算数の成績アップにつながるため指導を取り入れた塾が増えたり、そろばんを学べるゲームソフトDSが4万本以上の売れ行きなどの人気である。

日本珠算連盟と日本商工会議所が実施する珠算能力検定試験の受験者数も近年、増加に転じ20年度は20万人以上が受験、昭和55年度の204万人強をピークに17年には18万人と毎年珠算検定は受験者数が下降していた。

ウイングではそろばんを、基本的な計算能力を高めていくことを最大の目的にしており、低学年でそろばんを学習した生徒は、高学年になる頃にはその計算能力の差が算数に顕著に表れています。またそろばんは特徴的に集中力も身につきます。

ゆとり教育の弊害である子供の基礎的な学力低下を懸念した父兄が、基礎的な計算能力や集中力、持久力が身に付くそろばんの効果を見直しておりそろばん人気が再熱し、ゲームなどでも人気が出ていると考えます。

現在ウイングでは、ほぼ毎日そろばんコースを開講中。
お問い合わせはお気軽に03-7845-5910まで。


インターナショナルスクールが増加・マレーシア

2009年08月24日 | 教育全般
マレーシアでは2006年までは、原則的に外国人のみがインターナショナルスクールに通学できた。また片親がマレーシア人でも配偶者が外国人の場合や3年間以上海外に在住したものしか入学を認めていなかった。

しかし2006年の法改正後はインターナショナルスクールは上限40%までのマレーシア人の入学を認めたため、マレーシア人の中間層以上の多くがインターナショナルスクールを選択することになり、当時の32校から40校に増えている。また更に20校が開校する予定である

現在では生徒数の平均33%がマレーシア人で占められている。

このインターナショナルスクール校の人気はやはりマレーシアの教育改革の逆行などの教育政策についての批判にあるのだろう。

Oレベルの科目数制限や数学・化学などの英語による講義の見直しなど、度重なる無駄な改革に批判が強いことは否定できない。

ルックイースト政策で日本をお手本に成長したマレーシアだが、国家の最重要課題である教育政策が迷走する現状は、まるで日本が悪いお手本のようである。

ちなみにクアラルンプール日本人学校も、インターナショナルスクールであるが日本語教育のためマレーシア人からはその対象にはなっていない。

あくまで英語による教育でそれが英国、米国、オーストラリア、カナダなどの法律でカリキュラムが組まれていることが前提である。

今後乱立による学業レベルの低下が懸念材料である。




オックスフォード大学の首席卒業は3人のシンガポール人

2009年08月16日 | 教育全般
英国のエリート校Oxford Universityでなんと3人のシンガポール人が各専攻で首席卒業となった。その専攻学部は政治経済、物理そして法律。

政治経済の首席卒業はシンガポール建国の父であるLee Kuan Yew元シンガポール首相(写真)の孫にあたる。勿論叔父はLee Hsien Loongシンガポール首相。父はシンガポールFraser and Neave社会長であるLee Hsien Yang氏。
Li Shengwu氏 24歳は、240人が学んだPolitics, philosophy and economics (PPE)コースの首席。さすがの血統である。Oxford大学の30カレッジでも経済学は彼がトップという。同時にHicks and Webb Medley prizeも受賞した。

2006年にインドからシンガポールに移民したShyam Srinivasan氏22歳は、70人が学んだ物理で、Colin Liew氏 23歳は法律でそれぞれトップになった。

今年のOxford大学の卒業生にはシンガポール人が13人、そのうち3人が首席卒業という英国で初めての偉業である。

日本とは違い教育に重点を置くシンガポールの政策がこのような成果をもたらしていることは否定できない。アジア諸国にさえ劣る日本の重要政策の見直される日はいつの日になるのだろうか。

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シンガポールの脅威

所帯年収による成績格差

2009年08月05日 | 教育全般
文部科学省は、2008年度の全国学力テストを受けた公立小学校の6年生について調査結果を報告した。

年収1200万円以上の家庭での国語、算数の正答率が平均より8ポイント以上高いが、逆に200万円未満は平均より10ポイント以上低かった。

この調査報告によると、基礎知識を見る算数Aでは平均正答率が74.8%だったのに対し「200万円未満」は62.9%。「1200万円以上1500万円未満」は82.8%で19.9ポイントの開きが出た。「600万円以上700万円未満」は74.8%で平均と同じだった。

即ち教育への投資ができる家庭環境の子供は、それができない家庭の子供と差がつく。今まで言われてきた東京大学合格者に比較的年収の高い家庭の子供が多いことと同様である。全国学力テストの結果と年収の関係を裏付ける文科省のデータ公表は初めてである。

学力向上への投資は不可欠であるが、それができない家庭への公的な補助が必要かどうかは議論が必要である。貧困による負の連鎖がおきないようにする事も行政の役目である。

中国や韓国の塾などへの教育費の投資が日本と比較して、現在ははるかに多く、両国とも8割近くが塾などに通わせているが、日本では半数に満たない。これらは保護者の意識の違いなのか、現代の社会性の違いなのだろうか。







教育費を考える(3)

2009年04月10日 | 教育全般
首都圏の私立大に昨春入学した自宅外通学の学生への仕送り額(6月の平均)は9万5700円で、昭和61年の調査開始以来、過去最低だったことが6日、東京地区私立大学教職員組合連合の調査で判明した。

仕送り額から家賃を引いた生活費は3万6000円で、平成10年の56%の低水準。一方、奨学金希望者は71%で、初めて7割を超えている。

結果によると、6月の仕送り額は8年連続で減少。家賃は月額6万円前後で推移し、生活費として残る金額は18年から4万円を割り込んでいる。

自宅外通学生の平均税込み世帯年収は915万9000円(前年比45万円減)。受験費用などの初年度にかかる費用は304万6761円で、年収の33・3%に及んだ。また、奨学金希望者は、自宅生を含む全体でも過去最高の64%に達した。

これらからして、国が教育費の見直し・充実を図らなければならないことは明白である。

教育費を考える(2)

2009年04月09日 | 教育全般
昨年10月の日本政策金融公庫の調査教育費負担の実態調査によると、高校・大学時代にかかる教育費は1024万円。しかも帯収入の1/3超が教育費に回っているという結果が。かなり重い親の負担が報告されている。

入学費用に関する費用は、受験費用、学校納付金や入学しなかった学校への納付金であるが、高校489,000円、大学956,000円、高専、専修、各種学校862,000円、短大731,000円。

公私別1人当たりの入学費用でみると、国公立高校357,000円、私立高校524,000円、国公立大学880,000円、私立大学970,000円である。ただし、私大学別に見た場合の差がない理由は、入学しなかった大学への納付金などがあるからだ。

在学費用は、授業料などの学校教育費、塾などの家庭教育費であるが、年間在学費用は、高校920,000円、高専,専修,各種学校1,463,000円、短大1,431,000円、大学 1,504,000円必要になる。

公私立別でみると1年間在学費用は、国公立高校644,000円、私立高校1,017,000円
国公立大学1,049,000円、私立大学1,597,000円になる。

調査は、平成20年2月に「国の教育ローン」を利用した世帯に対するアンケートに回答のあった勤労者世帯2753件を集計したものでありこのローンを借りた人が前提だが傾向は推測理解できる。

入学費用と在学費用から高校入学から大学卒業までの7年間にかかる費用は、平均すると子供1人につき1,023,600円かかることになる。

高校卒業後の進路別に見た場合は、私立大学理系1140.7万円、私立大学文系1003.3万円、国公立大学834.0万円、私立短大705.9万円である。

世帯の年収に対する在学費用の割合は34.1%となり、家計にかなりの負担である。
勿論、低所得者層ほど在学費用の割合が高くなる。特に年収が「200万円以上400万円未満」の世帯では、55.6%にも達しることが判明した。

自宅外通学者については、自宅通学者と違いさらに在学費用以外の年間の仕送り額と、自宅外通学を始めるためのアパートを借りる敷金・礼金、家財道具の購入費などが必要になる。


英語による数学・科学の授業問題再浮上

2009年03月16日 | 教育全般
色々と議論を生む英語による教育制度。

マレーシアでは中学校では継続的に英語による授業をするようであるが、小学校での数学・科学の英語による授業の見直しが再び検討されている。

2003年にMahathir Mohamad元首相によりマレー語による数学・科学の授業を廃止して国際言語である英語による授業に変更された。その当時も民族色の濃い人々から反対されたがそれを元首相の指導力で押し切った経緯がある。

ただ、ここにきて再度この問題が浮上してきているが、いまのところ現政権でははっきりとした政策を示しておらず、また教育省大臣も内閣に任せるとして判断を示していない。

民族色を強めるのか、それとも国際競争力を保てる教育を目指すのか。

マレーシア・タクシー

2008年11月18日 | 教育全般
マレーシアのタクシー車内で、飲み物や携帯電話のプリペイドカードを販売することを認可することを検討している。これは副収入を認めて業界の活性化を図るものである。

また、米国のようにタクシーの屋根に広告塔をつけたり、広告を車体に張ることや車両使用期限を7年から10年に延長することを業界は求めている

2005年以来据え置かれている公共交通の運賃体系を今後毎年見直すことも検討している。

確かにマレーシアのタクシー料金は安いがピーク時や大雨の際は乗車拒否も多く、またメーターで走らない運転手も多い。

サービス向上には運転手の収入増、認可台数やその方式を見直すことが一番である。一部の利権者がタクシー営業認可を独占することなどを今後は見直すべきではないだろうか。

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信長天下統一歴史年表

2008年10月13日 | 教育全般
ここまでの歴史年表(織田信長天下統一のながれ)

1560年 桶狭間の戦い(尾張) ○織田信長(尾張)VS×今川義元(三河・遠江・駿河)
1567年 稲葉山城攻め(美濃) ○織田信長(尾張)VS×斎藤龍興(美濃)
1568年 足利義昭15代室町将軍に(山城)
1569年 織田信長が築いた二条御所に足利義昭が移る(山城)
1570年 姉川の戦い(近江)  ○織田信長(尾張)VS×浅井長政(近江)・朝倉義景(越前)
1572年 三方ヶ原の戦い(遠江)○徳川家康(三河)VS武田信玄(甲斐)
1573年 足利義昭、織田信長に河内国へ追放され室町幕府滅亡(槙島の戦)
1573年 一条谷の戦い(越前) ○織田信長(尾張)VS×朝倉義景(越前)
1573年 小谷城の戦い(近江)○織田信長(尾張)VS×浅井長政(近江)

~袋の小豆~ 浅井長政の最期

2008年10月13日 | 教育全般

信長には朝倉攻撃の大義名分ができた。
しかし、信長と浅井の間にはお市の方を結婚させた時の約束があった。

「越前の朝倉には手を出さない」

そう、この約束が破られる時が来た。

浅井は信長と同盟を結んでいる。しかし、先祖代々結びつきが深い
朝倉氏を見捨てるわけにもいかない…。非常に悩んでいた。

また、お市の方も悩んでいた。自分の兄と夫の直接対決だけは避けたい…。
そんな時お市は兄信長に陣中見舞いを送るのであった。
上下を縄で縛られた袋に小豆を入れたもの

袋を受け取った信長は、瞬時に「袋の中のネズミ」という意味を悟ったのだ。
つまり東からは越前の朝倉、西からは近江の浅井に挟み撃ちにされていることを
お市は信長に伝えたのでした。

つまり浅井は苦渋の選択をし、朝倉に寝返ったのだ。

これにより織田・徳川連合軍と浅井・朝倉同盟軍の戦いが始まる。これが1570年の姉川の戦いである。
この戦いの結果は織田・徳川連合軍の勝利に終わる。しかし、この戦いで浅井・朝倉軍が全滅しわけではなく、
後の1573年朝倉軍は織田軍に一乗谷の合戦でやぶれ、その後同年浅井軍は小谷城で信長がの攻撃に屈し
浅井長政は自害するのであった。享年29歳の若さで…。これにより信長と浅井側連合軍の戦いに幕が下りる
のであった。

さて、浅井長政の妻『お市』はどうなったのであろうか?

長政が自害する前にお市は3人の娘と共に信長の元に返されるのであった。
その後9年間は信長の元で手厚い保護の下暮らすのであった。

さて、信長は天下統一へまた近づいたがまだまだ強敵がいる…。
甲斐の武田である…。しかし、武田信玄はもうこの時…。

つづく

お市の方

2008年10月09日 | 教育全般
1560年桶狭間の戦いの後、美濃の斉藤氏を滅ぼす。その後信長は京都上洛を目指し
浅井長政(小谷城)のいる近江を攻略する。この時のキーパーソンは

「お市の方」である。

信長の妹である。

信長は近江の浅井とお市を結婚させるのである。つまり政略結婚である。
浅井としては当時勢力を増す織田と手を結ぶことは悪い話ではなかった。
しかし、浅井には一つ気がかりなことがあった。

近江浅井と先祖代々繋がりが強い「越前の朝倉義景」である。

浅井は織田に越前の朝倉に手を出さないという条件つきでこの結婚を承諾したのである。

しかし、この約束が後に破られることとなる。

浅井と手を結んだ信長は1568年、京に上って足利義昭を名ばかりの将軍にした。
ここで織田は天下統一の為にある行動に出る。

「俺の味方は誰なのか?俺の敵は誰なのか?」
敵味方を見分けることで、効率的に天下取りを行おうとしたのである。

そのために足利義昭の二条城の落成式典を執り行う。
信長の味方であれば当然落成式典には参加するはず。これにより対抗勢力が
誰であるのかを確認することができた。

ほとんどの武将が参加意思を表明する中、返事すらよこさない無礼者がいた。

それが「越前の朝倉義景」であった。

つづく

徳川家康

2008年10月05日 | 教育全般
徳川家康について少し。

戦乱の世である1542年12月26日、三河岡崎城主松平広忠の長男として家康は誕生した。
当時三河の国は西の織田と東の今川によって分断され、存亡の危機にあった。
その中で、父松平広忠は今川氏と手を結び織田を倒そうとしていた。
そのために家康はわずか6歳で今川の人質として差し出された。この当時は竹千代と呼ばれていた。

桶狭間の戦い(1560年)で今川氏が敗れるまでは数奇な人生を送ることになる。
しかし、この戦いの後、家康は三河に戻り織田と手を結び、天下統一の道を歩むことになる。

家康は織田のようなおぼっちゃまでなく、苦労人なのであった。

桶狭間の戦い後はこの二人の動向から目が離せない…。つづく

織田信長2

2008年10月05日 | 教育全般
織田信長(尾張)VS今川義元(三河・遠江・駿河)

7,8人の家来と共に清洲城を出発した織田。目指すは沓掛城にいる今川義元である。
相手は2万5千人の大軍。どのように織田は今川を負かしたのか?

実は織田は直接沓掛城に行ったのではなかった。
行った先は・・・熱田神宮であった。

なぜ?

織田も馬鹿ではない。7,8人の人数で今川軍を倒せるわけがないことは百も承知である。
勿論戦勝祈願のために参拝したのだが、これは家来にたいする一つの心理作戦だったのだ。
劣勢であるにも関わらず、信長は果敢にも城を出てしまった。家来としては始めは出陣に反対したのだが、
殿を見殺しにするわけにはいかない!とひとりふたりと信長の後を追うようになっていったのだ。

そして、熱田神宮にいたころには何と織田軍は1000人以上になったとのこと。
しかし、相手は2万5千人の大軍!まだまだ劣勢であることには間違いない。

だがだが、ここで織田に見方をしたものがある。

天気だ。

この日はとても暑かったそうだ。
今川は優勢であることで少し油断をしていたのだろう。

とても暑いので、少し涼みたい・・・と家臣に言ったそうだ。
そこで今川軍は涼を求め、窪地になっている『田楽狭間』という地に向かう。
この田楽狭間、これこそが『桶狭間』のことである!

涼を取っている最中、織田軍は清洲城近くに軍旗を掲げていたので、今川軍はまさか進軍してこないだろうと
高をくくっていた。

そこでまた天候が信長の見方をするのである。

それは大雨!

涼を取っていた今川軍は突然の大雨であちこちに散ってしまったのである。
しかも今川軍は桶狭間の底にいる。この時今川軍はたかだか数千人の兵しかいない。

その隙を狙って織田軍は今川軍に対して一気に攻め入ったのであった。
結果織田の家臣が今川の首を取ることになった。

織田が清洲城を出陣してから決着するまでわずか15時間程の出来事であった。

これにより織田が勢力をどんどん増していくのであった。