小生は、自分がどうありたいと願っているか。
当然のことながら公序良俗に違反せず、犯罪に手を染めることなく、云々というのは言うまでもないことです。
ここで、書こうとしていることは、「どのように人生を送っていきたいか」ということです。
極々日常的なところからです。
「華やかな舞台で、他人から賞賛され、いつもたくさんの人に囲まれる生活」
そのような生活には、これっぽっちも興味がありません。
かっこいい車、良質の酒、広い住宅、これらにも興味が湧きません。
理由は簡単です。良いと思わないからです。良いと思わないこと=自分に合わないこと=価値観の違うことを無理に合わせようとしますと、精神的にものすごく疲れます。
これは若い自分から味わってきたことなので、二度とご免蒙りたいわけです。
モノに執着すると、際限なく欲しくなるのが人間の性質です。そして、いつも人と自分を比較しながら生きることになるでしょう。
あの人がいい車を買った、この人が大きな家を建てた、あいつはこれだけ稼いだらしい、誰それがブランドを持っている、、云々、、。
それは結局のところ、他人から見てどうか、他人と比較して自分はどうか、ということを気にして生きていることになります。
それと、物事を決めるときに、ほかの人はどうだろうか?と他人の動きを見て自分の動きを決めることも嫌なのですね。
「みんな」がそうするから、そう言うから、、。
それはある意味、安全策かもしれません。
他律的な生き方は、日本のような「ムラ社会」的なところで生きて死んでいくには良いかもしれません。
「群れる」ことをこのむ人は、往々にして他律的かもしれません。
しかし、自分で考え自分で決めて、自分で責任を持つ、これが基本だと思うのです。
個に立脚して生きる。「一個の他者」であり続けたい。
自律的に生きていきたい、そう願っています。
一匹狼というと聞こえは良いですが、誰にも別に相手にされなくても気にしない、という生き方ですね。
海外に永住権を取って向こうで一生を終えても良い。そう考えたのも、自分で決めていきたい、と願ったからです。
病気がきっかけでした。
人間、最悪でも死ぬだけです。最良でも、遅かれ早かれ死にます。
ならば、自分の思うように生きてみたい。けっしてたいそれたことをするわけでもないです。
どうせなら、温かい国で、多少の財産(雀の涙ほど)だけ持って、向こうで後20年くらい生きていられたら、それでいいじゃないか、という気持ちです。
病院で薬漬けになってでもしぶとく生きていたいなんて、これっぽっちも思わない。
「人は寿命で死ぬそうです」
神の力には逆らえません。運命には逆らえないのです。往生際の悪さは死に損ないの元です。
不思議なことに、温かいところで生活をしますと、体は汗をかいて大変なのですが、結果的には、小生の体調は良いようです。
それとこれも大きな要因ですが、いちいち腹を立てなくなりました。いらいらしなくなった。
そして、フィリピンでは皆さん、のんびりしています。「フィリピンタイム」といいまして時間通りには物事始まりません。
それに慣れてきたのでしょうか。あるとき、いらつく自分がアホに見えたのです。
暖かな(というか暑い)気候と、ストレスが少ない状態であるということが、どれだけ自分の精神に良い影響を与えるか、
自分にとって「転地療養」を実地体験している感じです。
総じて、自分にとって、フィリピンという国が(今のところ)プラスになりそうな気がします。
(人によってはマレーシアであったり、タイであったりするでしょう。)
自由に、人縁や地縁に縛られず、古き因習にとらわれず、比較的自由に生きていられる、それが自分の願う生き方です。
小生には子供が二人いますが、二人にも、自分の思うように生きよと言っています。
岐阜なんてもの(失礼!)にこだわるなと。日本という小さな島にこだわるなと。世界は広いのだと。
小生、こんなふうなので、既存の糸引き納豆のような日本社会にどっぷり浸かってその価値観でしか判断できない人からみると、
ずいぶん嫌な奴に思われているようです。
しかし、「実は自分も海外生活を今考えているんです」とか、「基本的に同じ考えです」などという御仁がいらっしゃれば、これは貴重な
存在ですので、情報交換させていただくという意味で知り合いになりたいですね。
次は「お金」について書きます。
当然のことながら公序良俗に違反せず、犯罪に手を染めることなく、云々というのは言うまでもないことです。
ここで、書こうとしていることは、「どのように人生を送っていきたいか」ということです。
極々日常的なところからです。
「華やかな舞台で、他人から賞賛され、いつもたくさんの人に囲まれる生活」
そのような生活には、これっぽっちも興味がありません。
かっこいい車、良質の酒、広い住宅、これらにも興味が湧きません。
理由は簡単です。良いと思わないからです。良いと思わないこと=自分に合わないこと=価値観の違うことを無理に合わせようとしますと、精神的にものすごく疲れます。
これは若い自分から味わってきたことなので、二度とご免蒙りたいわけです。
モノに執着すると、際限なく欲しくなるのが人間の性質です。そして、いつも人と自分を比較しながら生きることになるでしょう。
あの人がいい車を買った、この人が大きな家を建てた、あいつはこれだけ稼いだらしい、誰それがブランドを持っている、、云々、、。
それは結局のところ、他人から見てどうか、他人と比較して自分はどうか、ということを気にして生きていることになります。
それと、物事を決めるときに、ほかの人はどうだろうか?と他人の動きを見て自分の動きを決めることも嫌なのですね。
「みんな」がそうするから、そう言うから、、。
それはある意味、安全策かもしれません。
他律的な生き方は、日本のような「ムラ社会」的なところで生きて死んでいくには良いかもしれません。
「群れる」ことをこのむ人は、往々にして他律的かもしれません。
しかし、自分で考え自分で決めて、自分で責任を持つ、これが基本だと思うのです。
個に立脚して生きる。「一個の他者」であり続けたい。
自律的に生きていきたい、そう願っています。
一匹狼というと聞こえは良いですが、誰にも別に相手にされなくても気にしない、という生き方ですね。
海外に永住権を取って向こうで一生を終えても良い。そう考えたのも、自分で決めていきたい、と願ったからです。
病気がきっかけでした。
人間、最悪でも死ぬだけです。最良でも、遅かれ早かれ死にます。
ならば、自分の思うように生きてみたい。けっしてたいそれたことをするわけでもないです。
どうせなら、温かい国で、多少の財産(雀の涙ほど)だけ持って、向こうで後20年くらい生きていられたら、それでいいじゃないか、という気持ちです。
病院で薬漬けになってでもしぶとく生きていたいなんて、これっぽっちも思わない。
「人は寿命で死ぬそうです」
神の力には逆らえません。運命には逆らえないのです。往生際の悪さは死に損ないの元です。
不思議なことに、温かいところで生活をしますと、体は汗をかいて大変なのですが、結果的には、小生の体調は良いようです。
それとこれも大きな要因ですが、いちいち腹を立てなくなりました。いらいらしなくなった。
そして、フィリピンでは皆さん、のんびりしています。「フィリピンタイム」といいまして時間通りには物事始まりません。
それに慣れてきたのでしょうか。あるとき、いらつく自分がアホに見えたのです。
暖かな(というか暑い)気候と、ストレスが少ない状態であるということが、どれだけ自分の精神に良い影響を与えるか、
自分にとって「転地療養」を実地体験している感じです。
総じて、自分にとって、フィリピンという国が(今のところ)プラスになりそうな気がします。
(人によってはマレーシアであったり、タイであったりするでしょう。)
自由に、人縁や地縁に縛られず、古き因習にとらわれず、比較的自由に生きていられる、それが自分の願う生き方です。
小生には子供が二人いますが、二人にも、自分の思うように生きよと言っています。
岐阜なんてもの(失礼!)にこだわるなと。日本という小さな島にこだわるなと。世界は広いのだと。
小生、こんなふうなので、既存の糸引き納豆のような日本社会にどっぷり浸かってその価値観でしか判断できない人からみると、
ずいぶん嫌な奴に思われているようです。
しかし、「実は自分も海外生活を今考えているんです」とか、「基本的に同じ考えです」などという御仁がいらっしゃれば、これは貴重な
存在ですので、情報交換させていただくという意味で知り合いになりたいですね。
次は「お金」について書きます。