東京電力福島第一原発事故から5年。テレビ、新聞などで様々な特集が組まれている。
その中で、テレビの2つの番組に胸が掻きむしられるような思いを抱いた。
ひとつは、3月5日放送の【NHKスペシャル】「“原発避難”7日間の記録~福島で何が起きていたのか~」だ。
5年前に起きた福島第一原発事故。周辺市町村への避難指示は3km、10km、20kmと五月雨式に拡大し、どこにどうやって避難するかは各自治体の判断に任された。3つの原子炉がメルトダウンし7日間で14万人が避難した事故。あのとき何が起きていたのか、これまで詳細は知られていなかった。情報も体制も薄弱な中、人々はどのような状況に置かれ、どのような判断や行動を迫られたのかを時系列で明らかにし検証した。
2011年3月11日午後2時46分、東日本大震災が発生。
原発から10kmの浪江町では震度6強の揺れを観測。その後、津波や原発事故に巻き込まれていく。
地震発生直後、津波が襲った浪江町では、1000人以上の安否が分からず必死の捜索。一方で町は直ちに避難所を開設、職員たちは殺到する住民の対応に追われた。津波からどろどろになって逃げた人たちが押し寄せ、市の職員は、その瞬間から「上に聞いて」などと言っていることは許されず、現場での即決の判断が求められた。
お年よりも多く、避難所まで誘導しきれない住民のために神社の柱まで切って蒔きにして火を焚いて暖をとらせた職員。
同じ頃、浪江町の西病院では、津波に巻き込まれ怪我をした人たちが泥だらけで「寒い寒い」と震えながら運び込まれてきた。町で唯一、電気や水が無事だったこの病院は、余震が続き先の見えない中、通常の入院患者も抱えながら津波によるたくさんの怪我人の治療にあたることになった。
3月11日の午後7時、政府は史上初めてとなる原発の緊急事態を発表。
大熊町にある国の施設オフサイトセンターで国と自治体を繋ぐ「現地対策本部」が置かれた。福島第一原発から4.9kmに位置するオフサイトセンターは、住民避難の司令塔とされた。原発に異変が生じた際、ここに国と東京電力、警察、消防、自衛隊、それに県と自治体が集結することになっていた。そして事故の情報を組織の枠を越えてリアルタイムに共有、どこにどう避難すればいいのか協議し、自治体の避難を支援する計画だった。しかし、実際当時来たのは福島県、大熊町、それに警察、双葉警察署だけだった。津波の対応に追われる中、国も自治体も集まっていたのは一部だけだった。原発の危機が浪江町を含む多くの自治体に伝えられることはなかった。
3月12日朝、浪江町の中心部を含む原発から半径10km圏内に避難指示が出された。町はこの情報をテレビを通じて初めて知った。
その当時、避難先として考えられるのは、北に向かう幹線道路は津波で寸断、南には原発、残された選択肢は北西部、原発から20km以上離れた津島地区だけだった。役場の指示により住民は一斉に避難を始めた。しかし津島地区に向かう幹線道路で大渋滞が起こり、通常30分で移動する道のりに4時間以上もかかった。
まさにそのとき福島第一原発1号機が水素爆発を起こし、当時の風の動きと原発から出た放射性物質のデータ、人の動きを重ね合わせると、放射性物質はまさに住民が避難していた津島地区に向かって流れ込んでいた。この事実を知らずに避難したことが、住民を後々まで苦しめることになったのだ。
1500人の集落である津島地区に1万人を超える人が押し寄せた。避難所となった施設は着の身着のまま逃げてきた住民で溢れかえった。避難所では食事や毛布が足りず、横になることすら難しいほど混雑している場所もあった。避難した住民の中には混雑を避け、屋外で過ごす人もいた。
当時小学2年生だった清水郁弥くんもその一人だった。
郁弥くんは、避難所が窮屈だったので外で遊んだ。外は雨も降っていた。
郁弥くんの祖母の根本洋子さんは、このときはテレビで1号機の爆発を知っていたが、それほど警戒心は持たなかったという。なぜなら、大臣がテレビで何回も何回も朝から晩まで「ただちに身体に影響はない」と言っていたからだ。みんなも20km以上離れているから「ここまでは大丈夫だろう」と言っていた。
12日午後6時には、1号機の爆発を受け避難指示が20km圏に拡大した。
国も10km圏内の避難までしか想定していなかったたため、市町村もそれ以上の範囲では避難先や移動手段、避難の対象人数さえ把握できなかった。
さらに放射性物質から住民を守るためのシステムである「SPEEDI」が機能していなかった。本来このデーターをもとに住民が安全に避難できる場所を伝えるはずだったが、原発の全電源が喪失したため詳細な計算ができず、SPEEDIは避難に活用されなかったという。
14日11時、3号機が爆発。浪江町の避難所では緊張感が高まっていた。
当時、町の保健師として住民の対応にあたっていた伏見香代さんは、被ばくの危険性を強く意識した出来事があった。消防団員が持っていた線量計の針が大きく振れるのを見たのだ。
「放射能がゼロではないんだってことが分かって、なんかとても本当にどうしたらいいんだろうって」──このとき伏見さんはヨウ素剤を配るかどうか悩み、葛藤した。甲状腺の被ばくを抑える薬だが、副作用もあるとされている。住民に配るためには国の指示や医師の判断が必要だったが、その確認が取れなかったのだ。
さらに別の問題もあった。手元にあったヨウ素剤は500人分で、目の前には1000人を超える避難者。みな疲労と不安がピークに達していた。
「(ヨウ素剤を)配ったとしても全員に等しく配ることはきっと難しかったと思うし、足りなかったら足りない人がどれだけの不安を持つことか。これだけみんな命の危険を感じてピリピリしている中で、整然とどの人も納得できる形でどうやって配ることができるだろうと、そればかり考えていました」(伏見さん)
結局、津島地区に18あった避難所でヨウ素剤が配られることはなかった。職員たちはどうすればいいのか答えが出せないまま、それぞれが厳しい立場に立たされていたのだ。
14日までの人の動きをみると殆どの人が原発から20kmの外に避難していたが、僅かに20km圏内に留まっている人たちがいた。ここが生死を分けたギリギリの対応が続く現場となっていた。
津波に巻き込まれた人の治療にあたっていた西病院。14日を過ぎても67人の患者が避難できずにいた。最大の問題は搬送手段だった。患者の多くが寝たきりの高齢者であるにもかかわらず、警察からバスでの移動を求められたことが壁となった。自分で座位も保持できない人たちにはバスは難しい。
14日午後4時、自衛隊のヘリがようやく救援に現れた。ところが患者の一部を運んだところで、これ以上搬送できなくなったと告げられたという。(自衛隊は取材に対し、西病院での活動は詳しい記録がないため確認できないと答えている)。
再び救助を待つことになった西病院の患者、このとき駆けつけた警察の担当者がバスで搬送するしかないと強く訴えたという。「原発が爆発したんだ、死ぬんだぞ、死んでもいいんですか」って詰め寄ってきて、胸で突き上げて迫ってきたという。
午後9時、悩みに悩んだ末、残された患者をバスに乗せることを決めた。事態は、一刻も早く「あの病院から外に出す」こと、「それが命を救う」という思いだけだった。
避難を巡る混乱の中、3人が死亡した。病院の調査ではその後も避難による負担から死期を早めたケースがあったという。
15日、度重なる原発の爆発から、津島地区に避難を続けていた浪江町の職員と住民たちはさらに離れた場所に避難することを決定した。しかし、再び、住民が移動していたまさにそのとき、大量の放射性物質が放出され津島地区を通過、降り出した雪とともに地上に降り注いでいた。
情報がない中、結果として放射性物質が流れる方向へと避難してしまった浪江町の馬場町長は、「『住民を守れなかった』という思いが今も消えることはない」と語る。
「知ってれば逃げませんよ。知ってれば別の方向にね避難してますよ。それがまさか放射能のプルーム(雲)が私どもを追いかけてくるような形になったというのは、これはもう後からですよね。やっぱり一言でいうと悔しいですよね」(馬場町長)
同日、2号機から大量の放射性物質が放出し、さらに4号機で水素爆発が起こったため、原発避難は新たな段階に入った。
20km~30kmのエリアが「屋内退避区域」に指定された。すぐに避難は必要ないものの、無用な被ばくを避けるために極力屋内に留まるようにという指示だ。
中でも多くの住民が留まっていたのは南相馬市だった。震災当時の人口は約7万人、この屋内退避の指示以降、市民は思わぬ事態に巻き込まれていった。
16日、南相馬市の中心部にある災害拠点病院。原発近くから避難してきた多くの入院患者で溢れかえっていた。この日開かれた緊急会議、入院患者に危機が迫っていた。
酸素が翌日の夕方ぐらいに枯渇する。タンクローリーと酸素と運転手をとりあえず確保できたが、現地の人は来たいと言っているものの、タンクローリーを持っている本社が「行くな」と言っているため動けないという。
酸素や薬も届かない非常事態、異変はそれだけに留まらなかった。このとき市内のスーパーマーケットは軒並み閉鎖、住民たちは長い列をつくって町に残る僅かな物資を求めていた。
携帯電話やカーナビなどの情報をもとに人の動きを再現した地図によれば、物資を運ぶトラックは原発から遠く離れた場所では活発に移動している。14日の夜までは南相馬市にもトラックの行き来があった。しかし「屋内退避指示」が出された15日以降は、物資が届かなくなった。
実は運送業者の団体には屋内退避区域に入らないよう国土交通省から指示が出されていたのだった。国は、屋内に留まるよう指示する一方、必要な物資の輸送を制限していた。その理由について「放射線量が高く、避難指示の範囲が拡大する可能性もあったため、民間の事業者を向かわせることはできなかった」としている。
南相馬市の桜井市長は報道機関も撤退する中、電話でニュース番組に出演し「ガソリン・生活物資が本当に入ってきません。30km以内に屋内退避の指示が出ても、30kmの外でもう交通規制がかかっている。だからこのままでは殆ど我々物資が尽きます。」と窮状を訴えた。
避難の必要がないという判断がさらに皮肉な事態を引き起こした。ある福祉施設では物資不足に加え、放射性物質が侵入する不安からエアコンの暖房を切ったため、体調を崩して発熱する高齢者が急増。ある施設長は、自衛隊に協力してみらえないかと助けを求めた。しかし、自衛隊からは「ちょっとそれはできません。ここは屋内退避だから、施設の方で判断して」と言われた。屋内退避指示によって困難な状況に陥った人々は、屋内退避を理由に避難さえ出来なくなっていた。
15日以降の人の動きでは、物資不足と放射性物質への不安から自力で避難できる住民たちが次々と出て行く様子が分かる。
17日、屋内退避に限界を感じた南相馬市は独自に市民に呼びかけ、希望者全員をバスなどで避難させることにした。この段階で8割以上の住民が避難、しかしそのことがさらに深刻な事態を招いた。避難することが難しい障害者や高齢者が自宅に取り残されていたのだ。
取り残されていた大和田みゆきさんの2人の娘は軽度の発達障害だった。避難先での見知らぬ人との生活が難しいうえ、彼女も持病を抱え、身動きできずにいた。
「子どもたちは環境がいきなり変わってしまうとパニックを起こしたり、いろんなストレスとかで暴れてしまったり、避難所にもし行ったとしても周りのみなさんにご迷惑をおかけしたり、または自分の症状が今以上にきつくなるんじゃないかと思って」(大和田さん)
助けを求めたくても周りには誰も居なくなっていた。市は地域の区長や民生委員に取り残されていた人への対応を要請したが、実際にはその多くが避難し残っていた人は僅か1割だった。
18日以降、取り残された人の中から衰弱死する人が相次いだ。
ある高齢者が亡くなった経緯を訪問介護に携わっていた女性がこう証言する。
「毎日訪問の方だったんですが(屋内退避で)結局訪問できなくなってしまって、3日間は伺えていなかったと思います。」
屋内退避の指示を受け、会社から自宅待機を言い渡されていたが、利用者が気になり4日ぶりに訪問したときのことだった。利用者は全身が紫色で低体温になっていた。救急隊員が来たが、もう処置が難しいということだった。そして翌日、その高齢者は亡くなった。
訪問介護の女性は涙で声を詰まらせながら語る。
「お一人でいらっしゃる利用者さんは本当の心細かったと思う。やっぱり待っててくださるわけですよね。自分の力が及ばなかったことにすごく後悔しますし、心のどこからにいつも残っているんですね。あのときもっとこうできたんじゃないか、もう少し何かいい方法があったんじゃないかって。」
南相馬市では3月中に取り残された人のうち5人の高齢者が衰弱して亡くなった。国や自治体の対応に翻弄された末の悲劇だった。
「判断としては最善と思ったことも、人によっては逆に厳しい状況に追い込まれたのも事実。自分の悔恨の念というか悔しさもあるし、本当に残念な思いですよね。ああいう亡くなっていってしまったことについては」(桜井市長)
原発事故7日間の記録。巨大津波による津波、目に見えない放射性物質への恐怖、十分な情報も備えもないまま強いられた度重なる避難、人々は突如として重い選択を強いられた。
7日間で避難した人は約14万人、病院や福祉施設からの避難の影響で亡くなった人は少なくとも99人にのぼる。そして今もそれぞれに残る傷だ。
避難所の外で遊んでいた清水郁弥くん。2年前に甲状腺癌の検査を受けた結果、郁弥くんに特に異常はみられなかった。しかし家族は将来を思うと不安が消えることはないという。
「(避難先が)ひどいことになっているというのは分からなかったので、失敗したなって思いました。郁弥には申し訳なかったと思っています。悔しいですね。」(祖母の根本洋子さん)
浪江町の保健師・伏見香代さんは事故後に役場を退職、PTSDと診断された。避難所にいた数日間、どうすればよかったのか、せめてその経験を語ることが今自分に出来ることだという。
「もしかしたらもっとやらなきゃいけないことがあって、でも本当に一人だし弱いし、自分も怖かったし。やっぱり次、同じ思いを一人でもしないようにお伝えしてもらえるんだったら、あの(避難所での)3日間の仕事の続きが今日かな」(伏見さん)
屋内退避区域に取り残された大和田みゆきさん、あのときの経験が心に染み付いて離れないという。
「常に冷蔵庫には1回の買い物ですごい量を買っちゃうんですけど。それはなぜかと言ったら何かあったときに、もう底をつくというのがあの状況が嫌だから。私の中ではまだ震災は終わってないです。5年経った今でも」(大和田さん)
原発事故は人をどこまで追い詰めるのか、明らかになった原発避難7日間の記録が、その現実を私たちに突きつけている。
十分な情報が伝わらない中、住民が放射性物質に晒されていく姿。さらに市町村や病院の職員たちが、住民や患者たちの避難を巡って厳しい判断を迫られた。さらに周りが避難する中で取り残された人たちは、誰にも気づかれないまま食べ物さえ底をつく恐怖にあった。
原発事故とは、どういうものなのか。
胸が痛むのは、住民や患者を、さして子どもたちを守るために一生懸命考え行動してきた人たちが「あの日」の自分の行動を、5年がたった今でも、後悔し続け、自分を責め続けているということである。
机上であれこれ描いて、再稼動することばかり考えている人たちには、わかるまい。それが事故の厳しい現実、住民たちの苦しみと、ギリギリの選択と葛藤がそこにはあるのである。
もうひとつは、3月8日の「NEWS23」の「原発さえなければ、震災5年 続く関連死」と題した特集。福島で専業農家を営む樽川和也さんを取り上げた。
和也さんの父久志さんは、農家の7代目だった。原発事故の時、テレビを見ていてこうつぶやいたという。
「ほら見ろ、俺が言ってたとおりになったべ。福島の百姓はもう終わりだぞ。人が作ったものは必ずぶっ壊れるんだ」と。
原発から65キロ離れている樽川さんの農地にも放射性物質は降っていた。事故の11日後、キャベツの出荷停止を知らせるファックスが届く。
ファックスを見てうなだれた久志さんは、和也さんに「俺はお前のこと、間違った道にすすめた」とつぶやく。
そして、その翌朝、久志さんは自宅の敷地にあるキャベツ畑の近くの木で首を吊って自殺した。64歳だった。
和也さんは裁判に訴えたが、東京電力は原発事故との因果関係を否定。和解が認められたのは2年後のことだった。和也さんは「和解したとはいってもこころは晴れません。(東京電力には)仏壇に線香をあげてもらいたい」と言う。
和也さんはさらに次のように言葉を押し殺すように語る。
「5年目の節目だとか、そういうふうに周りは言ってるけど、うちらからしたら、ただ月日が5年流れただけで、5年経っても、ただ怒りだけです、込み上げるのは」。
さらに再稼働を進める国と電力会社に対しては
「どこがクリーンで安全なエネルギーなんだい。バカじゃねえのか、この国は。情けねえ国だ。この国に生まれたからしょうがねえけど。声をあげる人がいねかったら…、この国は変な方向に進むでしょ、また。親父に与えられた宿題っていうか、宿命なんじゃねえかと思って……」と怒りをかみ殺すようにして訴えた。
特集の後で、膳場キャスターが「再稼働していいのか、改めて問わなければいけないと思いますよね」と語ったが、和也さんの言葉に、あらためて、これだけの大惨事を起こしながら、今や堂々と原発再稼動を推進し、外国までセールスして回っている、この国の政府や財界、電力会社に言いようのない怒りが込み上げてきた。
ここのところ「保育園落ちた 日本死ね」というブログ記事が話題になり、国会で「誰が書いたんだ」「本人出せ」とのヤジが飛ぶと、全国でたくさんの母親たちが「私だ」「私だ」と名乗り、それがさらに広がっている。
そういう点で、「日本死ね」という言葉と「バカじゃねえのかこの国は」という言葉は、国民の税金で給料をもらっているはずの首相や閣僚、官僚たちが、「どっちを向いて政治をしているのか」「本当に困っている国民のために仕事をしていないではないか」という憤りを表す言葉だと思う。
国民の苦難に寄り添い、その解決のために働くことなく、権力の座であぐらをかいてえばっているような議員たちは選挙で落とすしかない。
その中で、テレビの2つの番組に胸が掻きむしられるような思いを抱いた。
ひとつは、3月5日放送の【NHKスペシャル】「“原発避難”7日間の記録~福島で何が起きていたのか~」だ。
5年前に起きた福島第一原発事故。周辺市町村への避難指示は3km、10km、20kmと五月雨式に拡大し、どこにどうやって避難するかは各自治体の判断に任された。3つの原子炉がメルトダウンし7日間で14万人が避難した事故。あのとき何が起きていたのか、これまで詳細は知られていなかった。情報も体制も薄弱な中、人々はどのような状況に置かれ、どのような判断や行動を迫られたのかを時系列で明らかにし検証した。
2011年3月11日午後2時46分、東日本大震災が発生。
原発から10kmの浪江町では震度6強の揺れを観測。その後、津波や原発事故に巻き込まれていく。
地震発生直後、津波が襲った浪江町では、1000人以上の安否が分からず必死の捜索。一方で町は直ちに避難所を開設、職員たちは殺到する住民の対応に追われた。津波からどろどろになって逃げた人たちが押し寄せ、市の職員は、その瞬間から「上に聞いて」などと言っていることは許されず、現場での即決の判断が求められた。
お年よりも多く、避難所まで誘導しきれない住民のために神社の柱まで切って蒔きにして火を焚いて暖をとらせた職員。
同じ頃、浪江町の西病院では、津波に巻き込まれ怪我をした人たちが泥だらけで「寒い寒い」と震えながら運び込まれてきた。町で唯一、電気や水が無事だったこの病院は、余震が続き先の見えない中、通常の入院患者も抱えながら津波によるたくさんの怪我人の治療にあたることになった。
3月11日の午後7時、政府は史上初めてとなる原発の緊急事態を発表。
大熊町にある国の施設オフサイトセンターで国と自治体を繋ぐ「現地対策本部」が置かれた。福島第一原発から4.9kmに位置するオフサイトセンターは、住民避難の司令塔とされた。原発に異変が生じた際、ここに国と東京電力、警察、消防、自衛隊、それに県と自治体が集結することになっていた。そして事故の情報を組織の枠を越えてリアルタイムに共有、どこにどう避難すればいいのか協議し、自治体の避難を支援する計画だった。しかし、実際当時来たのは福島県、大熊町、それに警察、双葉警察署だけだった。津波の対応に追われる中、国も自治体も集まっていたのは一部だけだった。原発の危機が浪江町を含む多くの自治体に伝えられることはなかった。
3月12日朝、浪江町の中心部を含む原発から半径10km圏内に避難指示が出された。町はこの情報をテレビを通じて初めて知った。
その当時、避難先として考えられるのは、北に向かう幹線道路は津波で寸断、南には原発、残された選択肢は北西部、原発から20km以上離れた津島地区だけだった。役場の指示により住民は一斉に避難を始めた。しかし津島地区に向かう幹線道路で大渋滞が起こり、通常30分で移動する道のりに4時間以上もかかった。
まさにそのとき福島第一原発1号機が水素爆発を起こし、当時の風の動きと原発から出た放射性物質のデータ、人の動きを重ね合わせると、放射性物質はまさに住民が避難していた津島地区に向かって流れ込んでいた。この事実を知らずに避難したことが、住民を後々まで苦しめることになったのだ。
1500人の集落である津島地区に1万人を超える人が押し寄せた。避難所となった施設は着の身着のまま逃げてきた住民で溢れかえった。避難所では食事や毛布が足りず、横になることすら難しいほど混雑している場所もあった。避難した住民の中には混雑を避け、屋外で過ごす人もいた。
当時小学2年生だった清水郁弥くんもその一人だった。
郁弥くんは、避難所が窮屈だったので外で遊んだ。外は雨も降っていた。
郁弥くんの祖母の根本洋子さんは、このときはテレビで1号機の爆発を知っていたが、それほど警戒心は持たなかったという。なぜなら、大臣がテレビで何回も何回も朝から晩まで「ただちに身体に影響はない」と言っていたからだ。みんなも20km以上離れているから「ここまでは大丈夫だろう」と言っていた。
12日午後6時には、1号機の爆発を受け避難指示が20km圏に拡大した。
国も10km圏内の避難までしか想定していなかったたため、市町村もそれ以上の範囲では避難先や移動手段、避難の対象人数さえ把握できなかった。
さらに放射性物質から住民を守るためのシステムである「SPEEDI」が機能していなかった。本来このデーターをもとに住民が安全に避難できる場所を伝えるはずだったが、原発の全電源が喪失したため詳細な計算ができず、SPEEDIは避難に活用されなかったという。
14日11時、3号機が爆発。浪江町の避難所では緊張感が高まっていた。
当時、町の保健師として住民の対応にあたっていた伏見香代さんは、被ばくの危険性を強く意識した出来事があった。消防団員が持っていた線量計の針が大きく振れるのを見たのだ。
「放射能がゼロではないんだってことが分かって、なんかとても本当にどうしたらいいんだろうって」──このとき伏見さんはヨウ素剤を配るかどうか悩み、葛藤した。甲状腺の被ばくを抑える薬だが、副作用もあるとされている。住民に配るためには国の指示や医師の判断が必要だったが、その確認が取れなかったのだ。
さらに別の問題もあった。手元にあったヨウ素剤は500人分で、目の前には1000人を超える避難者。みな疲労と不安がピークに達していた。
「(ヨウ素剤を)配ったとしても全員に等しく配ることはきっと難しかったと思うし、足りなかったら足りない人がどれだけの不安を持つことか。これだけみんな命の危険を感じてピリピリしている中で、整然とどの人も納得できる形でどうやって配ることができるだろうと、そればかり考えていました」(伏見さん)
結局、津島地区に18あった避難所でヨウ素剤が配られることはなかった。職員たちはどうすればいいのか答えが出せないまま、それぞれが厳しい立場に立たされていたのだ。
14日までの人の動きをみると殆どの人が原発から20kmの外に避難していたが、僅かに20km圏内に留まっている人たちがいた。ここが生死を分けたギリギリの対応が続く現場となっていた。
津波に巻き込まれた人の治療にあたっていた西病院。14日を過ぎても67人の患者が避難できずにいた。最大の問題は搬送手段だった。患者の多くが寝たきりの高齢者であるにもかかわらず、警察からバスでの移動を求められたことが壁となった。自分で座位も保持できない人たちにはバスは難しい。
14日午後4時、自衛隊のヘリがようやく救援に現れた。ところが患者の一部を運んだところで、これ以上搬送できなくなったと告げられたという。(自衛隊は取材に対し、西病院での活動は詳しい記録がないため確認できないと答えている)。
再び救助を待つことになった西病院の患者、このとき駆けつけた警察の担当者がバスで搬送するしかないと強く訴えたという。「原発が爆発したんだ、死ぬんだぞ、死んでもいいんですか」って詰め寄ってきて、胸で突き上げて迫ってきたという。
午後9時、悩みに悩んだ末、残された患者をバスに乗せることを決めた。事態は、一刻も早く「あの病院から外に出す」こと、「それが命を救う」という思いだけだった。
避難を巡る混乱の中、3人が死亡した。病院の調査ではその後も避難による負担から死期を早めたケースがあったという。
15日、度重なる原発の爆発から、津島地区に避難を続けていた浪江町の職員と住民たちはさらに離れた場所に避難することを決定した。しかし、再び、住民が移動していたまさにそのとき、大量の放射性物質が放出され津島地区を通過、降り出した雪とともに地上に降り注いでいた。
情報がない中、結果として放射性物質が流れる方向へと避難してしまった浪江町の馬場町長は、「『住民を守れなかった』という思いが今も消えることはない」と語る。
「知ってれば逃げませんよ。知ってれば別の方向にね避難してますよ。それがまさか放射能のプルーム(雲)が私どもを追いかけてくるような形になったというのは、これはもう後からですよね。やっぱり一言でいうと悔しいですよね」(馬場町長)
同日、2号機から大量の放射性物質が放出し、さらに4号機で水素爆発が起こったため、原発避難は新たな段階に入った。
20km~30kmのエリアが「屋内退避区域」に指定された。すぐに避難は必要ないものの、無用な被ばくを避けるために極力屋内に留まるようにという指示だ。
中でも多くの住民が留まっていたのは南相馬市だった。震災当時の人口は約7万人、この屋内退避の指示以降、市民は思わぬ事態に巻き込まれていった。
16日、南相馬市の中心部にある災害拠点病院。原発近くから避難してきた多くの入院患者で溢れかえっていた。この日開かれた緊急会議、入院患者に危機が迫っていた。
酸素が翌日の夕方ぐらいに枯渇する。タンクローリーと酸素と運転手をとりあえず確保できたが、現地の人は来たいと言っているものの、タンクローリーを持っている本社が「行くな」と言っているため動けないという。
酸素や薬も届かない非常事態、異変はそれだけに留まらなかった。このとき市内のスーパーマーケットは軒並み閉鎖、住民たちは長い列をつくって町に残る僅かな物資を求めていた。
携帯電話やカーナビなどの情報をもとに人の動きを再現した地図によれば、物資を運ぶトラックは原発から遠く離れた場所では活発に移動している。14日の夜までは南相馬市にもトラックの行き来があった。しかし「屋内退避指示」が出された15日以降は、物資が届かなくなった。
実は運送業者の団体には屋内退避区域に入らないよう国土交通省から指示が出されていたのだった。国は、屋内に留まるよう指示する一方、必要な物資の輸送を制限していた。その理由について「放射線量が高く、避難指示の範囲が拡大する可能性もあったため、民間の事業者を向かわせることはできなかった」としている。
南相馬市の桜井市長は報道機関も撤退する中、電話でニュース番組に出演し「ガソリン・生活物資が本当に入ってきません。30km以内に屋内退避の指示が出ても、30kmの外でもう交通規制がかかっている。だからこのままでは殆ど我々物資が尽きます。」と窮状を訴えた。
避難の必要がないという判断がさらに皮肉な事態を引き起こした。ある福祉施設では物資不足に加え、放射性物質が侵入する不安からエアコンの暖房を切ったため、体調を崩して発熱する高齢者が急増。ある施設長は、自衛隊に協力してみらえないかと助けを求めた。しかし、自衛隊からは「ちょっとそれはできません。ここは屋内退避だから、施設の方で判断して」と言われた。屋内退避指示によって困難な状況に陥った人々は、屋内退避を理由に避難さえ出来なくなっていた。
15日以降の人の動きでは、物資不足と放射性物質への不安から自力で避難できる住民たちが次々と出て行く様子が分かる。
17日、屋内退避に限界を感じた南相馬市は独自に市民に呼びかけ、希望者全員をバスなどで避難させることにした。この段階で8割以上の住民が避難、しかしそのことがさらに深刻な事態を招いた。避難することが難しい障害者や高齢者が自宅に取り残されていたのだ。
取り残されていた大和田みゆきさんの2人の娘は軽度の発達障害だった。避難先での見知らぬ人との生活が難しいうえ、彼女も持病を抱え、身動きできずにいた。
「子どもたちは環境がいきなり変わってしまうとパニックを起こしたり、いろんなストレスとかで暴れてしまったり、避難所にもし行ったとしても周りのみなさんにご迷惑をおかけしたり、または自分の症状が今以上にきつくなるんじゃないかと思って」(大和田さん)
助けを求めたくても周りには誰も居なくなっていた。市は地域の区長や民生委員に取り残されていた人への対応を要請したが、実際にはその多くが避難し残っていた人は僅か1割だった。
18日以降、取り残された人の中から衰弱死する人が相次いだ。
ある高齢者が亡くなった経緯を訪問介護に携わっていた女性がこう証言する。
「毎日訪問の方だったんですが(屋内退避で)結局訪問できなくなってしまって、3日間は伺えていなかったと思います。」
屋内退避の指示を受け、会社から自宅待機を言い渡されていたが、利用者が気になり4日ぶりに訪問したときのことだった。利用者は全身が紫色で低体温になっていた。救急隊員が来たが、もう処置が難しいということだった。そして翌日、その高齢者は亡くなった。
訪問介護の女性は涙で声を詰まらせながら語る。
「お一人でいらっしゃる利用者さんは本当の心細かったと思う。やっぱり待っててくださるわけですよね。自分の力が及ばなかったことにすごく後悔しますし、心のどこからにいつも残っているんですね。あのときもっとこうできたんじゃないか、もう少し何かいい方法があったんじゃないかって。」
南相馬市では3月中に取り残された人のうち5人の高齢者が衰弱して亡くなった。国や自治体の対応に翻弄された末の悲劇だった。
「判断としては最善と思ったことも、人によっては逆に厳しい状況に追い込まれたのも事実。自分の悔恨の念というか悔しさもあるし、本当に残念な思いですよね。ああいう亡くなっていってしまったことについては」(桜井市長)
原発事故7日間の記録。巨大津波による津波、目に見えない放射性物質への恐怖、十分な情報も備えもないまま強いられた度重なる避難、人々は突如として重い選択を強いられた。
7日間で避難した人は約14万人、病院や福祉施設からの避難の影響で亡くなった人は少なくとも99人にのぼる。そして今もそれぞれに残る傷だ。
避難所の外で遊んでいた清水郁弥くん。2年前に甲状腺癌の検査を受けた結果、郁弥くんに特に異常はみられなかった。しかし家族は将来を思うと不安が消えることはないという。
「(避難先が)ひどいことになっているというのは分からなかったので、失敗したなって思いました。郁弥には申し訳なかったと思っています。悔しいですね。」(祖母の根本洋子さん)
浪江町の保健師・伏見香代さんは事故後に役場を退職、PTSDと診断された。避難所にいた数日間、どうすればよかったのか、せめてその経験を語ることが今自分に出来ることだという。
「もしかしたらもっとやらなきゃいけないことがあって、でも本当に一人だし弱いし、自分も怖かったし。やっぱり次、同じ思いを一人でもしないようにお伝えしてもらえるんだったら、あの(避難所での)3日間の仕事の続きが今日かな」(伏見さん)
屋内退避区域に取り残された大和田みゆきさん、あのときの経験が心に染み付いて離れないという。
「常に冷蔵庫には1回の買い物ですごい量を買っちゃうんですけど。それはなぜかと言ったら何かあったときに、もう底をつくというのがあの状況が嫌だから。私の中ではまだ震災は終わってないです。5年経った今でも」(大和田さん)
原発事故は人をどこまで追い詰めるのか、明らかになった原発避難7日間の記録が、その現実を私たちに突きつけている。
十分な情報が伝わらない中、住民が放射性物質に晒されていく姿。さらに市町村や病院の職員たちが、住民や患者たちの避難を巡って厳しい判断を迫られた。さらに周りが避難する中で取り残された人たちは、誰にも気づかれないまま食べ物さえ底をつく恐怖にあった。
原発事故とは、どういうものなのか。
胸が痛むのは、住民や患者を、さして子どもたちを守るために一生懸命考え行動してきた人たちが「あの日」の自分の行動を、5年がたった今でも、後悔し続け、自分を責め続けているということである。
机上であれこれ描いて、再稼動することばかり考えている人たちには、わかるまい。それが事故の厳しい現実、住民たちの苦しみと、ギリギリの選択と葛藤がそこにはあるのである。
もうひとつは、3月8日の「NEWS23」の「原発さえなければ、震災5年 続く関連死」と題した特集。福島で専業農家を営む樽川和也さんを取り上げた。
和也さんの父久志さんは、農家の7代目だった。原発事故の時、テレビを見ていてこうつぶやいたという。
「ほら見ろ、俺が言ってたとおりになったべ。福島の百姓はもう終わりだぞ。人が作ったものは必ずぶっ壊れるんだ」と。
原発から65キロ離れている樽川さんの農地にも放射性物質は降っていた。事故の11日後、キャベツの出荷停止を知らせるファックスが届く。
ファックスを見てうなだれた久志さんは、和也さんに「俺はお前のこと、間違った道にすすめた」とつぶやく。
そして、その翌朝、久志さんは自宅の敷地にあるキャベツ畑の近くの木で首を吊って自殺した。64歳だった。
和也さんは裁判に訴えたが、東京電力は原発事故との因果関係を否定。和解が認められたのは2年後のことだった。和也さんは「和解したとはいってもこころは晴れません。(東京電力には)仏壇に線香をあげてもらいたい」と言う。
和也さんはさらに次のように言葉を押し殺すように語る。
「5年目の節目だとか、そういうふうに周りは言ってるけど、うちらからしたら、ただ月日が5年流れただけで、5年経っても、ただ怒りだけです、込み上げるのは」。
さらに再稼働を進める国と電力会社に対しては
「どこがクリーンで安全なエネルギーなんだい。バカじゃねえのか、この国は。情けねえ国だ。この国に生まれたからしょうがねえけど。声をあげる人がいねかったら…、この国は変な方向に進むでしょ、また。親父に与えられた宿題っていうか、宿命なんじゃねえかと思って……」と怒りをかみ殺すようにして訴えた。
特集の後で、膳場キャスターが「再稼働していいのか、改めて問わなければいけないと思いますよね」と語ったが、和也さんの言葉に、あらためて、これだけの大惨事を起こしながら、今や堂々と原発再稼動を推進し、外国までセールスして回っている、この国の政府や財界、電力会社に言いようのない怒りが込み上げてきた。
ここのところ「保育園落ちた 日本死ね」というブログ記事が話題になり、国会で「誰が書いたんだ」「本人出せ」とのヤジが飛ぶと、全国でたくさんの母親たちが「私だ」「私だ」と名乗り、それがさらに広がっている。
そういう点で、「日本死ね」という言葉と「バカじゃねえのかこの国は」という言葉は、国民の税金で給料をもらっているはずの首相や閣僚、官僚たちが、「どっちを向いて政治をしているのか」「本当に困っている国民のために仕事をしていないではないか」という憤りを表す言葉だと思う。
国民の苦難に寄り添い、その解決のために働くことなく、権力の座であぐらをかいてえばっているような議員たちは選挙で落とすしかない。