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ミケランジェロ

2007-06-23 | 作家の記録

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ミケランジェロ 【わたしの里・作家】1475 ~ 1564 ミケランジェロ イタリアの画家

 

 

 ミケランジェロ・ブオナローティ

(伊: Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni 147536日 - 15642月18日)
イタリア盛期ルネサンス期の彫刻家、画家、建築家、詩人。西洋美術史上のあらゆる分野に、大きな影響を与えた芸術家である[2]。ミケランジェロ自身が本業と考えていた彫刻分野以外の作品は決して多くはないにもかかわらず、様々な分野で優れた芸術作品を残したその多才さから、レオナルド・ダ・ヴィンチ と同じく、ルネサンス(Renaissance)期の典型的な「万能人」と呼ばれることもある。

 

 

 ケランジェロは存命中から非常に優れた芸術家として高い評価を得ており、現在でも西洋美術史上における最高の芸術家の一人と見なされている。ミケランジェロが制作した絵画、彫刻、建築のいずれをとっても、現存するあらゆる芸術家の作品のなかで、もっとも有名なものの一つとなっている。長寿を保ったミケランジェロの創作活動は前述以外の芸術分野にも及ぶ膨大なもので、書簡、スケッチ、回想録なども多く現存している。また、ミケランジェロは16世紀の芸術家のなかで、もっともその記録が詳細に残っている人物でもある。

 

ミケランジェロの彫刻でもっとも有名と思われる 『ピエタ』 (1498年 - 1499年、サン・ピエトロ大聖堂)と 『ダビデ像』 (1504年、アカデミア美術館) は、どちらもミケランジェロが20歳代のときの作品である。また、ミケランジェロ自身は絵画作品を軽視していたが、西洋美術界に非常に大きな影響を与えた2点のフレスコ画、システィーナ礼拝堂の『システィーナ礼拝堂天井画』と祭壇壁画『最後の審判』を描いている。さらに建築家としてもフィレンツェのラウレンツィアーナ図書館 (en:Laurentian Library) で、マニエリスム建築の先駆けといえる様式で設計を行っている。また、74歳のときにアントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョヴァネの死去をうけて、当時改築中だったサン・ピエトロ大聖堂の主任建築家に任命された。このときミケランジェロは従前の設計を変更し、建物西側はミケランジェロの設計どおりに建てられた。ただし、主ドーム部分はミケランジェロの死後になって、別の設計に変更されて完成している。

Briefs of Michelangelo Michelangelo Buonarroti

 

 

ミケランジェロは、存命中にその伝記が出版された初めての西洋美術家であるという点でも、際立った存在といえる[3]。伝記のうちの一つがジョルジョ・ヴァザーリの『画家・彫刻家・建築家列伝』で、ヴァザーリはミケランジェロをルネサンス期の芸術における頂点として絶賛し、その作品は何世紀にもわたって西洋美術界で通用するだろうとしている。ミケランジェロは存命中から「神から愛された男 (Il Divino )」と呼ばれることすらあり[4]、当時の人々からは偉人として畏敬の念を持って見られていた。ミケランジェロの作品に見られる情熱的で独特の作風は後続の芸術家たちの模範となり、盛期ルネサンスの次の西洋芸術運動であるマニエリスムとなって結実していった。

 

ミケランジェロは1475年3月6日[注釈 1]に、現在のトスカーナ州アレッツォ近郊にあたるフィレンツェ共和国のカプレーゼに生まれた[5][6]。ミケランジェロの一族は数世代にわたってフィレンツェで小さな銀行業を営んでいたが、ミケランジェロの父ルドヴィコ・ディ・レオナルド・ディ・ブオナローティ・シモーニは銀行経営に失敗し、共和国政府の臨時職員として生計を立てていた[3]。ミケランジェロ誕生当時のルドヴィコはカプレーゼの小さな町の判事職と、キウージの主席行政官を務めていた。母親の名前はフランチェスカ・ディ・ネリ・デル・ミニアート・シエーナである[7]。ルドヴィコは、自身がトスカーナ女伯マティルデ・ディ・カノッサの末裔だと称しており、ミケランジェロもこれを信じていたが、事実かどうかは今も立証されてはいない[8]。ミケランジェロの誕生後数ヶ月で一家はフィレンツェへと戻り、ミケランジェロは幼少期をフィレンツェで送った。ミケランジェロが6歳の1481年に長い闘病生活の後に母フランチェスカが死去している。当時のミケランジェロの一家は石工の一家と共にセッティニャーノに住んでおり、父ルドヴィコはこの地で大理石採石場と小さな農園を経営していた[7]。ジョルジョ・ヴァザーリは著書でミケランジェロの言葉として「私が幸運だったのは、アレッツォの繊細な環境に生まれたことだ。乳母の乳を飲みながら鑿と金槌の使い方と人物彫刻のコツをつかむことができた」と記載している。

 
『ケンタウロスの戦い』(1492年頃)

 カーサ・ブオナローティ(フィレンツェ)

 父ルドヴィコは、若年のミケランジェロを人文主義者フランチェスコ・ダ・ウルビーノのもとへ送り、学問を学ばせようとした。しかしながらミケランジェロは学問には興味を示さず、教会の装飾絵画の模写や画家たちと交際することを好む少年だった。ミケランジェロが13歳のときに画家  ドメニコ・ギルランダイオ に弟子入りし、わずか14歳で ギルランダイオに一人前の画家と認められたが、これは当時としては極めて異例のことだった。1489年にメディチ家当主でフィレンツェの最大権力者 ロレンツォ・デ・メディチ がギルランダイオに、もっとも優れた弟子を二人自分のところへ寄こすように求め、このときにミケランジェロとフランチェスコ・グラナッチ (en:Francesco Granacci) がロレンツォの元へと派遣されている。1490年から1492年にかけてミケランジェロはメディチ家が創設した人文主義のプラトン・アカデミーへと参加している。当時のミケランジェロはベルトルド・ディ・ジョヴァンニ (en:Bertoldo di Giovanni)のもとで彫刻を学んでおり、さらにミケランジェロの観察眼と芸術観は、アカデミーに集うマルシリオ・フィチーノ、ピコ・デラ・ミランドラ、アンジェロ・ポリツィアーノなど当代一流の哲学者や学者たちとの交流によって磨かれていった[13]。この時期にミケランジェロが制作したレリーフとして『階段の聖母』(en:Madonna of the Steps)(1490年 - 1492年、)、『ケンタウロスの戦い』(1491年 - 1492年、(en:Battle of the Centaurs (Michelangelo)))があげられる。『ケンタウロスの戦い』はポリツィアーノがミケランジェロに語ったギリシア神話のエピソードをもとに制作されたもので、ロレンツォ・デ・メディチがミケランジェロに依頼した作品だった[14]。ベルトルド・ディ・ジョヴァンニのもとで修行していた17歳のミケランジェロは、ロレンツォ・デ・メディチの後援で彫刻を勉強していた3歳年長のピエトロ・トッリジャーノ (en:Pietro Torrigiano) に顔を殴られて鼻骨が曲がってしまっており、現存するミケランジェロの肖像画の多くでこの特徴がはっきりととらえられている。

( wikipedia より抄出 )

 

Study for The Last Judgement【作品】

 

 瀕死の奴隷【私の里・彫像】 ミケランジェロ 彫像の索引】 

 

 

 

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