わたしの里 美術館

とりあえず西洋絵画から始めて、現代日本作家まで

レオナルド・ダ・ヴィンチ

2007-04-10 | 作家の記録

レオナルド・ダ・ヴィンチ【作家の記録】 レオナルド・ダ・ヴィンチ イタリアの画家

 

 レオナルド・ダ・ヴィンチ

 Leonardo da Vinci

 1452415日 - 151952日 ユリウス暦
イタリアの ルネッサンス 期 を代表する芸術家で、
万能人 ( uomo universale, ウォモ・ウニヴェルサーレ )

 

本名は レオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ ( Leonardo di ser Piero da Vinci )。

絵画、彫刻、建築、土木、人体、その他の科学技術に通じ、極めて広い分野に足跡を残している。『最後の晩餐』や『モナ・リザ』などの精巧な絵画は盛期ルネサンスを代表する作品になっている。膨大な手稿を残しており、その中には航空についてのアイデアも含まれていた。

                                           最後の晩餐【作品】

 

レオナルドは1452年4月15日、イタリアのトスカーナにあるヴィンチ村で生まれた。生家は現存する。ヴィンチ家は13世紀より続くヴィンチ村では名の通った血筋で、父セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ (Ser Piero da Vinci) は公証人を務め、家は裕福であった。

母カテリーナ (Caterina) は農民あるいは木こりの娘といわれ、詳細は分かっていないが、ヴィンチ家に頻繁に出入りしていたとされる。父とカテリーナに婚姻関係は無い。しかし、「レオナルド・ダ・ヴィンチ」という名前が与えられたことと、祖父アントーニオの日記に生まれた様子が詳細に記載されていることから、私生児とはいえレオナルドが望まれない子供であった可能性は低い。カテリーナはレオナルド出産の数ヵ月後にアントーニオ・ディ・ピエーロ・デル・ヴァッカ・ダ・ヴィンチに嫁いでいる。父セル・ピエーロも同時期にフィレンツェ出身のアルビエーラと結婚した。

         

幼少期のレオナルドは、原因は不明だが正当な教育を受けず、自然とともに暮らしていた。当時から左手で鏡文字を書いたと言われるが、これは彼が読み書きの教育を受けなかったためともされる。この時期に、自由奔放な性格だったと言われる叔父から影響を受けたと指摘されている。彼の文字の癖は、父の公証人という仕事を継ぐことに大きな障害となった(当時、私生児は公証人になれないという規定があったため父の仕事を継げなかったという説もある)。

                                                     

 確証には欠けるが、レオナルドは14から16歳の間にフィレンツェへ移ったとされる。画家見習いとして アンドレア・デルヴェロッキオ の工房に弟子入りし、ボッテチェリ らと共に学んだ。この工房でヴェロッキオの絵画 『キリストの洗礼』 の一部を描いたが、その出来は師匠ヴェロッキオを驚愕させ、以後ヴェロッキオは一切筆をもたなくなったという逸話がある。レオナルドに嫉妬したという説もあるが、工房の絵画部門は彼に任せて本業である彫刻に専念した、というのが真相らしい。

 1472年にフィレンツェで画家組合 「サン・ルーカ同心会」 に登録されている。

 

 

 
フランソワ1世に抱かれて死ぬレオナルド

1515年に即位したフランス王フランソワ1世は、同年にミラノを占領した。この時、レオナルドはボローニャで行なわれたフランソワ1世とローマ教皇レオ10世の和平交渉の締結役に任命され、(恐らくは、このとき初めて)フランソワ1世に出会った。以後、フランソワ1世の庇護を受け、1516年からは王の居城アンボワーズ城に隣接し、フランソワ1世が幼少期を過ごしたクルーの館 (Clos Lucé) に招かれ、年金を受けて余生を過ごした。

メディチ家

レオナルドは、1519年5月2日にフランスのクルーの館で亡くなった。上の絵画ではフランソワ1世に抱かれて死去するさまが描かれている。実際にはこのような場面はなかったが、王とレオナルドの親交の深さが分かる。

    

レオナルドの遺言状には、彼の葬式に60人の貧乏人に60本の松明を持たせ参列させること。そしてフランチェスコ・ダ・メルツォの裁量にて彼らに参列代として銭を与えること。またさらに、その松明を四つの教会に分けることを希望することなどが遺されていた。アンボワーズにある聖フロランタン教会に埋葬されたが、その後、墓が暴かれてしまい、遺骨の行方は分からない。

レオナルドは若い頃は「この世で最高の美男子」と呼ばれるほどの美貌の持ち主だったらしいが、生涯特定の女性と親しい関係になることはなく、独身だった。

レオナルドには多数の友人がいた。以下はその例である。

ミケランジェロ・ブオナローティ
ファッジョ・カルダーノ - ジェロラモ・カルダーノの父親の数学者、法学者
フランチェスコ・メディチ - 画家で教え子
ジェラルモ・メディチ - ミラノ軍の大佐
ジョバンニ・フランチェスコ・ラスティシ
チェーザレ・ボルジア - 軍人
ニッコロ・マキャヴェッリ - 作家
アンドレア・ダ・フェッラーラ
フランチェスコ・ナーニ
ルカ・パチョーリ - 数学者・複式簿記を著書『スンマ』で紹介した人物

 

 

 

ダ・ヴィンチの作品一覧 モナリザ

 

 イタリアの画家 ルネッサンス
わたしの里 美術館    わが郷 HOME 

 

 

 

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。