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とりあえず西洋絵画から始めて、現代日本作家まで

団 鬼六

2010-04-26 | 日本人作家

 

団 鬼六【日本人作家】1931 ~ 2011  団 鬼六 日本人作家

 

 

団 鬼六 (だん おにろく)

1931416日(戸籍上は91日) - 201156日)
日本の小説家・脚本家・演出家・エッセイスト・
映画プロデューサー・出版人。
(wikipedia)

 

 

 

概要[編集]

SMものなどの官能小説の第一人者として著名である。代表作に『花と蛇』。多くの作品が映画化された。作家活動の他、鬼プロダクションを設立して、ピンク映画やSM雑誌を手掛けた。将棋雑誌の出版も行った。

本名は黒岩幸彦(くろいわ ゆきひこ)。初期のペンネームに花巻京太郎。なお、本人の弁によると筆名の読みは、“おにろく”でも“きろく”でもどちらでも構わないとのこと。

来歴[編集]

学生時代[編集]

滋賀県彦根市に生まれる。彦根生まれだが、1944年に父が大阪の軍需工場に勤め始めたため、中学から大阪育ち[1]。関西学院中学部・関西学院高等部を経て、関西学院大学法学部卒業。高島忠夫、キダ・タロー、藤岡琢也と同期であった。まれに関西大学卒業という紹介が見受けられるが、この二つは全く違う大学であり誤りである。

デビュー後[編集]

バーのマスターや中学校教員など、職を転々とし、1957年、文藝春秋のオール讀物新人杯に「親子丼」で入選し、執筆活動に入る。自身の先物相場や株取引の経験を元に、相場師を主人公とする経済小説・相場小説を執筆し、このうち「大穴」は、1960年に松竹で杉浦直樹主演で映画化されている。しかし、1961年頃に変名で『奇譚クラブ』に投稿した「花と蛇」が評判となり、官能小説の第一人者となる。

ピンク映画の脚本の執筆を依頼されたのをきっかけに自身でプロダクション「鬼プロ」を立ち上げ、ピンク映画を製作するとともに『SMキング』を発行、また篠山紀信と共にSM写真集の出版なども手がけた。

断筆宣言から復活へ[編集]

1989年に断筆宣言をするも、1995年に『真剣師・小池重明』で作家として復活。以後最近までエンターテイメント作品の発表を続けていた。慢性腎不全で闘病中でもあった。

201156日、食道がんのため東京都文京区の病院で死去した。79歳没。戒名は戯生院法幸団徳信士。

 

作風[編集]

執筆するSM小説のイメージから「ハードポルノ作家」と呼ばれることが少なくないが、本人は一貫して「自分はソフトです。ハードじゃない」と主張している。実際、欧米SMやバイオレンスポルノのような肉体的暴力の描写は避ける傾向がある[4]。しかし、そのぶん精神的な責めのねちっこさは比類がなく、ハードという言葉をどのように捉えるかによるともいえる。


人物[編集]

ペンネーム[編集]

初期は黒岩松次郎、花巻京太郎を使い、1963年の『花と蛇』再開時から団鬼六のペンネームを用いる。団鬼六の由来は、大ファンだった女優の団令子の姓の団、エロ小説の鬼という意味の鬼、昭和6年生まれだからという六の組み合わせである[5]。

将棋アマ六段[編集]

将棋はアマ六段の腕前。死後、段位七段に昇段。1989年に日本アマチュア将棋連盟の機関誌『将棋ジャーナル』の発行を引き継ぐものの赤字が止まらず、1994年に同誌が廃刊となる。作家として復活したのは雑誌の発行により抱えた借金を返済することが原因であった。その後は『将棋ジャーナル』に書いていたコラムを『近代将棋』誌に移して執筆を続けた。1997年の『近代将棋』の継続危機にあたっては、ナイタイ・グループの圓山政則をスポンサーとして紹介した。2008年に将棋ペンクラブ大賞「功労賞」受賞。

家族[編集]

ジャズシンガーで女優の黒岩三代子は実妹。母は国木田独歩の長男、国木田虎雄と大正末年に結婚して1927年頃離婚、大阪で直木三十五の弟子となり香取幸枝の芸名で女優として活動後、松竹演芸部にいた団の父と結婚した[6]。

著名人との親交[編集]

とくに映画においては女優の谷ナオミと親交が深く、デビュー前から彼女を見出していた。また、元プロボクサーで芸人のたこ八郎がアシスタントを務めていた時期もあった。官能小説家との親交も深く、同じくSM小説の大家である千草忠夫は『花と蛇』のファンであり、当時住んでいた神奈川県三崎町を訪問している。


 

 

 

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