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朝倉 文夫

2010-07-28 | 日本人作家

 

 

 

 朝倉 文夫  あさくら ふみお

1883年(明治16年)3月1日 - 1964年(昭和39年)4月18日
明治から昭和の彫刻家(彫塑家)である。
号は紅塐(こうそ)と称し、「東洋のロダン」とも称された。
娘は舞台美術家・画家の朝倉摂(摂子)と、彫刻家の朝倉響子。

 


1883年(明治16年)、大分県大野郡上井田村(現豊後大野市)村長であった渡辺要蔵の三男として生まれる。11人兄弟の5番目の子であった文夫は1893年(明治26年)の10歳の時に朝倉種彦(衆議院議員・朝倉親為の弟にあたる)の養子となるが入学した大分尋常中学校竹田分校(在学中に「竹田中学校」に独立。現大分県立竹田高等学校)を3度も落第し、いたたまれなくなった母・キミにより1902年(明治35年)、当時既に東京で新進気鋭の彫刻家として既に活躍していた9歳年上の兄・渡辺長男を頼って上京することになる。初め俳句を志しており正岡子規に師事しようと願っていたが、奇しくも上京した当日の9月20日がまさに子規の通夜であった。
 
結果的に兄のもとで彫塑に魅せられた文夫は必死の受験勉強の末、翌年東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻選科に入学、寸暇を惜しんで彫塑制作に没頭した。モデルを雇う金がないために上野動物園へ通って動物のスケッチをするうち、たまたま教授からの紹介を受けた貿易商の注文で動物の像の制作を始めほぼ一日に一体のペースで卒業までに1200体以上に及んだ。このころ、当時の海軍省が募集していた三海将の銅像に「仁礼景範中将像」で応募し1等を射止め注目されることとなる。

 


 
1907年(明治40年)、卒業制作として 「進化」 を発表し研究科へと進み谷中天王寺町にアトリエ、朝倉塾を作り子弟の養成にあたった。また文部省が美術奨励のために開いていた第2回文展に 『闇』 を出展し、最高賞である 2等となり翌年も 「山から来た男」 で 3等を得るが、欧州留学の夢は破れてしまう (当時、連続で 2等を得ると公費による欧州留学の権利を得ることができた)。
 
    進化 1907

 

 

1910年(明治43年)、最高傑作ともいわれる「墓守」発表後、友人の荻原碌山の死や病にふせった弟の看病などに携わるうち突如南洋のシンガポール、ボルネオの視察へと旅立つ(後に文夫が著書『航南瑣話』(東和出版社、1943年(昭和18年))で語ったところによれば、この旅行は井上馨(当時文夫は井上の肖像を制作していた)の密命による軍事探偵的なものであったという)。この際の経験は、後の文夫に大きな影響を与えたといわれている。帰国後も第8回文展まで連続上位入賞を果たし、第10回文展においては34歳の若さで最年少審査員に抜擢されるほどであった。
 
1921年(大正10年)に東京美術学校の教授に就任、ライバルと称された高村光太郎と並んで日本美術界の重鎮であった。1924年(大正13年)に帝国美術院会員となるが1928年(昭和3年)にこれを辞し、1934年(昭和9年)にアトリエを改築し「朝倉彫塑塾」を作る(後の朝倉彫塑館)。1935年(昭和10年)、再度帝国美術院会員、1937年(昭和12年)、帝国芸術院会員。1944年(昭和19年)東京美術学校教授を辞し帝室技芸員、従三位、勲四等瑞宝章受章。アトリエは戦災をくぐり抜けるが、戦時中の金属供出のために400点余の文夫の作品はほとんど消滅してしまう(原型は300点余が残された)。
 
戦後も精力的に自然主義的写実描写に徹した精緻な表現姿勢を一貫して保ち続け、1948年(昭和23年)には第6回文化勲章を受章。1949年(昭和24年)、日展運営会常務理事。1952年(昭和27年)に文化功労者に、1954年(昭和29年)、日展理事、1956年(昭和31年)から1959年(昭和34年)まで日本芸術院第一部長。1958年(昭和33年)には日展の顧問に就任した。非常に多作であり、全国各地に数多くの像を残した。
 
1964年(昭和39年)4月18日、急性骨髄性白血病にて死去。81歳没。正三位を追贈される。墓所は谷中霊園にある天王寺の飛地にある。

 

 


文夫と猫 
 
文夫は動物、中でも身近に多くいた猫をこよなく愛した。多いときには自宅に15~6匹の猫を飼っていた。身のこなしや飼われながらも野性味を失わない神秘性などに魅力を感じ「吊るされた猫」(1909年(明治42年))、「よく獲たり」(1946年(昭和21年))など自らの作品にも幾度も取り上げた。
 
 『たま』 1930年作)

 

東京オリンピックの開催にあわせて猫に関する作品を100種仕上げて「猫百態展」を開催したいと考えていたが、自身の死によってこの願いは叶わなかった。
 
文夫と園芸 [編集]
 
文夫は東洋ランの栽培や活け花、盆栽などに造詣が深く『東洋蘭の作り方』(三省堂書店 1940年(昭和15年))という著書を残している他、盆栽家・小林憲雄と共に当時趣味の世界でしかなかった盆栽の芸術的価値を見出し現在も開催されている「国風盆栽展」の開催に尽力した。
 
また自身の彫塑塾においても「園芸」が必修科目とされ、今も残る朝倉彫塑館の屋上菜園ではトマトや大根を育てるなど自然との触れ合いを芸術の基本概念と考えており、彫塑作品の野外展示も積極的に行った。

墓守(1910年(明治43年))(朝倉文夫記念館、朝倉彫塑館、東京国立近代美術館等。朝倉彫塑館所蔵の石膏原型は重要文化財に指定されている)
 時の流れ(1917年(大正6年))(朝倉文夫記念館、朝倉彫塑館)
 大隈重信像(1932年(昭和7年))(早稲田大学、朝倉彫塑館。登録有形文化財)
 三相(1950年(昭和25年))(朝倉文夫記念館、朝倉彫塑館)
 太田道灌像(1952年(昭和27年)(東京国際フォーラム内)
 翼の像(1953年(昭和28年))(上野駅グランドコンコース内。上野駅開設70周年、特急はつかり運転開始記念として作られた)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%80%89%E6%96%87%E5%A4%AB

 

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