ワカキコースケのブログ(仮)

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内田吐夢の『大菩薩峠』三部作をやっと見た

2021-12-27 03:15:51 | 日記


今年(2021年)のテーマは、映画でも何でも一から勉強し直し、だった。鳴かず飛ばずがあんまり続くので、かくなるうえは、とふりだしに戻ってみたのだ。
結果、映画については、割とがんばった。

今までは必要なところを図書館で拾い読みしていた岩波書店の『講座 日本映画』を全巻入手したので、『講座 日本映画1 日本映画の誕生』(1985)をアタマからめくり、マキノ省三が映画の仕事を始めたのは、横田商会の下請けがきっかけだったことを確認するのからやり直した。
今年三省堂から出た山根貞男編『日本映画作品大事典』も思い切って買い、丸々半年かけて全ページに目を通した。
なかなかえらいでしょう? 自分では、自分に努力賞のティッシュか鉛筆をあげたいとは思うんだわ。部活でいえば一年生の走り込みや球拾いの日々に戻れる、根性論的な自信はついた。

しかし、あいにく自信になったのはそこだけ。いかに自分が映画をそんなに見ていなくて半可通のままできたか、いやでも思い知らされた。
『日本映画作品大事典』はめくればめくるほど、見たことがない、存在すら知らなかった映画ばかり。『講座 日本映画』も、仕事で読まなきゃいけない本が多かったとはいえ、現在5巻の途中までで、全7巻を読み通せていない。

一方で僕には、映画ばかり見ていると視野が狭くなり、かえって映画がわからなくなるのでは……という強迫観念があり、もっと見たいという気持ちといつも綱引きしている。
シネフィル青年が構成作家業を始めてからさっぱり見なくなり、しばらくして映画の原稿の注文も受けるようになったらまたドシャドシャ見るようになって、再びそれが次第に億劫になり、と数年ごとに自分のなかで潮の流れが変わってきた。
昔(映画ライターになる前)、映画評論家の野村正昭さんに「実作の人が月に10本以上見ているようじゃダメですよ」と言われたのがずっと残っているのだが、確かに月に10本だと、綱引きがちょうどいい均衡状態になり、僕にはちょうどいい目安かもしれない。改めて今、思っているところだ。

さて、ここまではまくら。
フィルムセンターといえば京橋ではなく竹橋の東京国立近代美術館のほうだったシネフィル青年時代、せっかく1992年の内田吐夢監督特集に何度か行ったのに、(これは多分、まだ自分には早い……見てもきっとわからない……)という予感があり、外したものがあった。
それ以来ずっと敬遠してきたのだが、今年は映画を一から勉強し直しなんだからという気持ちが後押しになって、東映チャンネルでの放送をようやく見たのだ。

『大菩薩峠』(1957年 東映)

『大菩薩峠 第二部』(1958年 東映)

『大菩薩峠 完結篇』(1959年 東映)

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すごく面白かったわけではないし、大好きと言えるわけでもない。傑作・名作と賞されるのも少し違う気がする。

なのに何か、とても大きなものに触れた気がした。掴めているのは、シネフィル青年時代は敬遠しておいてよかったなあという実感のみだ。あくまで僕のレベルの場合ではの話だが、映画を知ることが価値の最上位だった時期に見ていたら、かえって冗長なところばかりが気になっていただろう。

内田吐夢の映画は、「シネアスト」「リュミエール」を熱心に読んでいる時にはダサかった。映画を通して思想を語ろうとするタップリしたところが、いかにもキビキビしていない古臭さにつながっていた。
しかし、内田吐夢ほど映画の表現の拡張に意欲的だった監督もそうはいない。

もともとマキノ省三の下で俳優をやり、監督業はサイレント喜劇からスタートして、黎明期のアニメーションにも関わっている。〈傾向映画〉で頭角を現した後は、日活多摩川の文芸リアリズムをねっちりとやり、国全体が軍国主義化した際には、チャンバラ時代劇が時局のもとで順応するために生まれた〈歴史劇〉に入れ込み、果ては満州に渡って甘粕正彦のもとで満映参与となる。
戦後、八路軍統制下での謎の多い生活や闘病を経て、カムバックした後のキャリアはよく知られたところだが、1本の映画の中でカラーから白黒に変える、16ミリで撮影して35ミリにブローアップする、俳優に全身まるごと役を生きる演技を要求しながら盛んにアニメーションとの合成も試みる、クライマックスは舞台の上で演じさせてそれを劇場中継のように撮る……など型破りな演出を次々と行ってきた。
アヴァンギャルド・ムービーの観点から評価されてもゼンゼンおかしくない前衛性が、活動写真の時代からフィルムをいじってきた実地の経験に裏打ちされている。

なのに、内田吐夢の映画は、映画を見る純粋な愉しさ―絵と音の組み立てによるカラクリによって、そこにしかない宇宙が生まれるのに立ち会う喜び―に向かっていかない。
映画を見るよりもっと大事なことがあるのだ、それを学びたまえ、と映画自体が言っている。蓮實重彥がカリスマだった時代に、ピタッとくるはずがない。

映画人としての振幅の大きさもむしろ、全体的な作家像の掴まえにくさにつながっていた。内田吐夢の映画を理解するには、映画ばかり見ていてはダメなのではないか……という僕の、畏怖に近い予感は、やはりある程度当たっていたと思う。

そもそもの原作、中里介山の小説『大菩薩峠』が都新聞(現在の東京新聞)で連載を開始したのは、1913(大正2)年。それから発表媒体を変えながら、なんと1941年まで続いた。
ただ、大長編小説の代名詞のようになっているが、ストーリーの骨子自体はシンプルだ。

机龍之助という、特に理由もなく人を次々と斬り殺し、女をかどわかす悪の化身のような剣士がいて、諸国を放浪している。その机に兄を殺された若者・宇津木兵馬が、仇を討たんと探し求める。
各地で机と兵馬は人に出会う。その人々のサイドストーリーも膨らんで、長大になっていった。
映画のほうは、机VS兵馬にある程度絞られているが、それでも色々なサイドストーリーがある。

小説全体の話は、ここではカンベンしてもらいます。僕は以前に手を付けてみたのだが、序盤で早々にリタイアした。とにかく大菩薩峠の頂上で、机が善良な巡礼の老人をいきなり斬る冒頭がいちばん鮮烈かついちばん有名な場面で、その余波によって引っ張り続けていく話だ。
児童向けに抄訳していないディケンズや三遊亭円朝を読むと、実はこの女性はあの事件以来姿を消していた娘の成長した姿だったとか、縁が生まれて絆が生まれたこの男こそ皮肉にもかつてご先祖を殺めた男の子孫だったとか、因果の巡りが延々続くので、さすがに途中でゲンナリしてくる。あれに近い。

ただこういう、読者が求める限り物語が続いた連載小説や、お客が寄席に来る限り続きが生まれた講談や長講落語などの19世紀型メディア文化は、「ご都合主義」「作品としてバランスが悪い」と断じたらかえって分析しにくくなるのは分かる。現に今の僕らも鳥山明の漫画など、19世紀型の現代版にリアルタイムでよく触れている。

とにかく、それだけヒットした小説なのだ。
中里がこの小説を発想した背景には、数年前の大逆事件の影響があったと指摘されている。
明治後期のインテリ青年が政治弾圧に沈黙せざるを得ないなか、表に出せないアナーキズムへの憧れや厭世観を、幕末の剣士の物語のなかに復活させたという解釈は、確かにうなずける。
同時に、そういう剣豪ジャンルの物語がちょうど大人向けの題材を求めていたニーズと符合した面もあったようだ。講談から続く忠君・仇討物か、猿飛佐助のような荒唐無稽なおはなしのどちらかだった時代に、それまでは完全に悪役の配置だった机のほうを主人公にしてみたら。それは相当に斬新だろう。

映画界でもその影響は大きかった。伊藤大輔や山上伊太郎などが反逆的かつニヒルな時代劇を作り始めたのがいちばんの影響例。中里がなかなか映画化を認めなかったから、かえって机龍之助的なキャラクターが周辺で育ったのだ。丹下左膳、堀田隼人、眠狂四郎はその流れで生まれた。
(また、日本映画最初の大スター・尾上松之助が世を去って阪東妻三郎、大河内伝次郎などが台頭してきたこと、徳川の世を知る客層から代替わりして、時代劇というエンタテインメントに求められるテーマが変わったことなど、もっと幾つもの要素はあったと思う)

このムーブメントを、監督デビューしたばかりの内田吐夢も、新進スターだった片岡千恵蔵も、身近で知っている。
そして戦後、押しも押されぬ大監督と大スターとして、中里の実弟・中里幸作の許可を得て、三年がかりの大型映画化の権利を手にした。
しかしその間には、戦争がある。旧満映の映画人として八路軍に望まれて満州に残るも、国共内戦の影響で鉱山に入って働かなくてはいけなくなった間、内田吐夢は相当にからい経験をしたと伝えられるが、それはあまり詳らかになっていない。

『宮本武蔵』『飢餓海峡』などでコンビを組んだ脚本家・鈴木尚之の、『講座 日本映画4 戦争と日本映画』(1986)収録の座談会のなかでの発言。
「(内田は)ずいぶん幼少時代から、僕には話してくれているわけです。一〇年間僕はずうっと一緒でしたからね。だからいろいろ聞いていますが、満州時代は殆ど口にしなかったんです。(中略)引き揚げまでというのは、ほんとに用心深くだれにもいわなかった」

といって一切を秘しているわけではない。内田の自伝『内田吐夢 映画監督五十年』(1968-1999 日本図書センター)には、満州で改めて芸術とは何かをよく考えたこと、毛沢東の『矛盾論』を熟読したことなどがポツリポツリと書かれている。
……いや、これだけしか書いていなければ、やはりかえって、こわいところがある。その間のミステリーが、『大菩薩峠』三部作にみなぎる幽気とつながっている。

先に発言を拾った鈴木尚之は、書生のような立場から内田との関係が始まり、『大菩薩峠』三部作の時もそばで見ている。鈴木の『私説 内田吐夢伝』(2000 岩波現代文庫)によると、もともとはプロデューサー・マキノ光雄の念願の企画であって、内田吐夢クラスの監督がやってくれるならばというのが中里側の条件。内田は「殺人鬼物語に終わってしまう危惧」を感じて、当初は逡巡していたのだという。
しかし小説を読み込み、中里幸作の話を聞くうち、因果が巡る物語のなかに仏教輪廻の思想があることを掴んだ。
「この世界には、理屈だけでは理解できない人間の深淵がある。
そう思ったとき、吐夢の心に祖先、両親、妻、子、それらとのかかわり、さらにおのれの来し方のすべてを投影した『大菩薩峠』をつくってみようという創作意欲が草焼きの火のようにひろがっていったのである」

『大菩薩峠』三部作の解題は、この一文に尽きるだろう。

三本に共通する冒頭のタイトルバックは、古い寺にあるのを参考にして新たに描かれたという地獄極楽図絵。つまりこの映画で内田は、机龍之助を完全悪のシリアルキラーではなく、虚無の道に堕ちてあえぐ者として描くことをあらかじめ示している。

ここで、最近面白く読んだので紹介したいのが、『現代日本映画論体系2 個人と力の回復』(1970 冬樹社)に収録されている、吉本隆明の当時の評。
『大菩薩峠』三部作をかなり高く評価しながらも、いや、机は精神病理学上の見地から見るのが適切な人物であって、映画もほぼそのつもりで感情欠落した行動を描いている。なのに肝心なところで原作に負けて、斬り捨てた人々の幻影に苛立ち、生き別れた息子を思って狂乱していく。どんな悪人であろうと、罪業意識に見舞われている状態になればそれは善人ではないか―と、机を輪廻思想からはみ出した、これまで日本では存在しなかったキャラクターとして創造しきれなかった点を惜しいと書いている。

映画の弱点を正確に捉えながらも、それを自己顕示のためではなく、物事をより考えるためのヒントの発見として取り上げている。破れ目にこそ豊かなものが潜んでいるのではないか、と提示している大柄の評なので、つくづく感心した。こういうのが雑誌に載っても、「吉本隆明が不満を書いてるから見ない」とか「巨匠の新作にケチをつけてる吉本クソ」とかにならない世の中に、再びなるとよいなあ。

それはともかく、今となっては、映画にシリアルキラーが出てきてもそんなに興趣豊かな発見は続かないとわかってしまっているので。『大菩薩峠』を徹底的に自分に引き寄せたすえ、机を完全な悪人に描き切れないところのほうに、僕はいろいろ感じ入るところがある。

机と妻・お浜の、関係が冷たくなり、狭い部屋で諍い合う時の息苦しさ。そして、周囲の人間に対する冷酷な仕打ち(そうした場面ではどうかすると、黒沢清の映画の唐突な殺人場面よりも怖い)とは矛盾する、息子への執着。このへんは、妻子と別居した内田の現実が素直に出ているものらしい。

三部作を通しての諸国放浪も、続けて冷静に見ていると、実はいきあたりばったりの連続なのだが、なぜか、それが人生、と言わんばかりにサマになっているところがある。内田の自伝も、若い頃から放浪癖があって、急に映画界から離れることがあったり、やはり急に満州に行くことにしたり、の連続だったのを自分でもうまく自己省察できないまま綴っている。
先述の通り、旅先での偶然の出会いや再会が続き、それで筋が成立している、リアリズムの観点からいうと非常に異様な、おかしな映画なのだが、内田のなかでは実感があるのだ。

続けて見ていくと、だんだん、面白いのか面白くないのかさえわからなくなってくる。
亡妻・お浜と瓜二つという縁で机となじんだお豊という女がいて、そのお豊に親切にしたばかりに災難に巻き込まれるお玉という娘がいる。幼馴染の気のいい男・米友がお玉と愛犬のムクを助けて一緒に逃げるのだが、今度はお玉と別れた米友がムクと一緒に知らない土地で苦労することになる。

こういうサイドストーリーもそれぞれ味があるのだが、机とどんどん直接の関係はなくなってくるのだ。なのに、米友もムクも急にバッタリ机と出会うことになったりして、誰もが因果の輪のなかに強引に呑み込まれていく。

こんな具合に、三本も映画は続く。偶然の出会いと再会が呆れてくるほど延々続いても、机と、机を一途に探し求める兵馬だけは、すれ違い続けるからだ。
その兵馬が、『完結篇』も半ばを過ぎた頃、急に心境を変える。

机の息子は、与八という、いささか愚鈍だがとことん心根の優しい男が預かって育てているのだが、その与八―机と対比的に置かれた人物―との再会をきっかけに、机憎しで凝り固まっていた心がほぐれ、仇討ではなく、むしろ慈悲心から机と対峙し直そうと考え直す。
その途端、嵐と大雨が来て、あれよあれよという間に、机が錯乱のなかで川の濁流に飲み込まれていくカタストロフィが到来する。濁流は赤く濁っている。地獄極楽図絵に描かれた血の海のように。

これはどうしたことだろう、と僕は見終わった後、しばらく呆然としたのだが、ジワジワと感嘆の念が起きた。
突き詰めれば内田版の『大菩薩峠』は、殺戮にのみ生の手ごたえを感じる机の妄執と、家の名誉のための仇討にこだわる兵馬の執念が拮抗し、すれ違い続けることで成立している物語だ。
しかし、その一方が執着を解けば(今風にいうと認知を変えれば)、途端に、たちどころにカタがつくのだ。
内田は本当に仏教思想まで自分に引き寄せて、長い時間をかけて、実は非常にシンプルな〈法話〉を描いていた、ということになる。

周りのサイドストーリーのほうは、ほったらかし。机と兵馬、両方を振り回す悪い旗本は報いを受けないし、お玉など周囲の善人達にもハッピーエンドが待っているとまでは描かれていない。そこはもう、それぞれの人生だから、と言わんばかりである。
なので、いわゆる大団円とは違う。兵馬の主観が強い。兵馬の心のありかたが明るくなれば、それこそが因果を離れることになり、自ずと話は終わるという考え方。西洋のドラマツルギーに照らせばエピソード不足という解釈になるのだが、自然と納得はさせられる。それが仏教的・東洋的ということかもしれない。

今日わかった また会う日が
生きがいの 悲しいDestiny
(松任谷由実 「DESTINY」1979)

〈法話〉とは主観によるハッピーエンドである。この曲が長く愛される理由にまで思い至ってしまった。

ユーミンは4分強で悟りに至る道を示す素晴らしい和讃を作りだしたが、ではなぜ内田吐夢は同じテーマを伝えるために計三作、5時間半近い上映時間を必要としたのか。

そこは楽曲と映画の、時間のコントロールの違いなのだろう。
僕はずっと、『大菩薩峠』の映画化作品に接したのは内田版が初めてだと思っていたのだが、『日本映画作品大事典』をめくっているうち、初めての映画化である『大菩薩峠 第一篇 甲源一刀流の巻』(稲垣博・1935)が数年前に上映された時、いそいそ出かけていたことにやっと気付いた。
それぐらい、全くといっていいほどどんな映画だったか、記憶にないのだ。
おそらくフィルムの欠落などもあったうえでの現存版だったのもあり、あらすじを追うので一杯一杯だったのだと思う。そうして(ここまで書いてきた通り)あらすじだけならば、実はそれほど面白い話でもないのだ。

見ているほうも時間がかかり、くたびれてしまうほどになって、ようやくシンプルなテーゼが身に沁みるようになる。その方法論、考え方が今度は三部作どころか、五部作になったのが『宮本武蔵』、ということになる。

長くなったついでに『宮本武蔵』五部作にも少し触れておきたいのだが、その前に、『大菩薩峠』三部作のなかで特に僕が好きなシークエンスのことを。

『完結篇』の冒頭、兵馬は、机を用心棒にしておきたい悪旗本の奸計で牢屋に入れられる。牢内で兵馬はひどく焦るのだが、同獄にいるふたりの勤皇の志士に、そう急くな、たまには我々と話をしようよ、と話しかけられる。
しばらくして獄を破るチャンスが巡り、兵馬はふたりと外に出る。逃げ込んだ先の屋敷は偶然、志士の旧友の家だったのだが、旧友は甲府勤番支配の役職―幕府直轄領の、今でいう知事か―に大出世していた。

逃げたつもりが、幕府側のもっと偉いやつの屋敷に潜り込んでしまった。二人は「やれやれ、ヘマなことをしたなあ」と嘆息しつつも、あっさり脱走をあきらめ、代わりに「この若者(兵馬)だけは、仇討の大望があるので見逃してやってくれ」と頼む。
すると兵馬は困惑し、「いえ、おふたりを置いては心苦しい……」と、一緒に牢に戻ることを望む。

このやりとりは、『大菩薩峠』三部作で唯一といっていいほど明るい、爽やかな印象を残すシークエンスになっている。
ふたりの勤皇の志士の大らかな知性と率直さに、兵馬はいつのまにか親しみを覚えている。そして初めて、そんな彼らを思いやる心が、机を討つ目的を上回っている。これがあるから、後に与八との再会を経て机への復讐心が薄らいでいく、重要な心理的順番になっている。

話し合える者があらわれて、利他的な友情に触れた時に、兵馬は変わる。
これもまた、内田が『大菩薩峠』を自分に引き寄せて咀嚼した成果の一端だろう、と僕は思う。

自伝『内田吐夢 映画監督五十年』は、名作のメイキングとしてはひどく情報量の足りない本だが(自分はどのように演出したかなどといった具体の話に、内田は本当に執心が薄い)、若い頃の仲間との思い出話は、涙が出てくるほど活き活きとしているのだ。
映画界に入ることがまだ身を持ち崩すのと同義に近かった時代に、一緒に貧乏ぐらしをした井上金太郎らに向けられる懐かしさや、日活時代のボス・根岸寛一への、実の兄に寄せるような信頼。内田は明らかに、当時の仲間への思いを、ふたりの勤皇の志士に投影させている。


本の画像のようです


そしてこの青春の実感が『宮本武蔵』五部作の、剣による人格形成の道に突き進みながら、善き人と出会うたびに悩みを深めていく大きなうねりにつながっている。

武蔵は確かに、鍛錬や幾多の決闘の経験を通して、人間の器を大きくしていく。それゆえ、成長と共振するようにして、人格的にすぐれた人との出会いが増えていく。そういう人かどうかを見分ける勘も冴えていく。
よき人の存在に気づき、出会えるのも、武蔵に謙虚な学びの心があるからこそゆえで、それは見ていて実に素晴らしいお手本なのだが、しかしその人達は「強すぎる」「おぬしは自分の殺気の反射、影法師に怯えている」「無益な殺生になるとわかっていて、なぜ決斗の場に向かうか」などと、いちいち武蔵の痛いところを突いてくるのだ。

ミスター・ラグビーこと平尾誠二が、「スポーツにおけるインテリジェンスは、いかにして勝つか戦術を練り抜く時に最も端的に表れる」と書いてあるのを以前に読み(著書がたくさんあるので初出はわからなくなってしまったが)、こういう人が戦国時代の軍師だったのだろう……と感心したことがある。武蔵の主張していることも、主旨はほぼ同じだ。

だが剣の世界だと、その結果が、勝利の成績ではなく、殺生となる。そのアンビバレンツに苦しむのが、内田版武蔵の主眼。

『大菩薩峠』三部作のあとに、『宮本武蔵』五部作は作られている。
(ここまで触れなかったが)机龍之助を大スターで大ベテランの片岡千恵蔵がたっぷり演じることで、戦間期の若者の社会不安、ニヒリズムへの傾倒といった要素が薄くなったやむを得ない枷があったぶん、武蔵では中村錦之介を配して、思い切ってビルドゥングスロマンをやっている、という変化・進歩が明らかにある。『大菩薩峠』の陰鬱な難渋があっての、『宮本武蔵』のドカンとした大きさがある。

だが、両者は、舞台の時系列は真逆なのだ。
『宮本武蔵』五部作は、豊臣側の敗北から始まる。徳川の治世が行き届き、急速に殺生の価値観が現在に近づいていく時代に、武蔵の選んだ修行の道は、人から疎まれ、憎まれるものとなっていく。
(一方で、若い頃に「斬り捨て御免」の辻斬りをした経験を老いてからも悔いている懺悔録を現実に残している水戸の御老公が、無駄な殺生をいさめる世直しの旅に出る物語が始まる)

『大菩薩峠』三部作は逆に、徳川時代の終焉期から始まる。世の中の揺れが机におおっぴらに人を斬ることを教え、自ずと、白色テロ集団の性質が強い新徴組(新選組の前身)に参加させる。

東京国立近代美術館フィルムセンター時代の解説書『FC90 内田吐夢監督特集』(1992)にある佐崎順昭の論によると、若い内田が俳優時代に多く演じたのは二枚目ではなく、仇役、悪漢役だったという。
映画でいちばん面白いのは昔から、サスペンスやアクション―つまり、暴力性である。
それが人の世に避けられないものでありつつ、しかし、いかに克己して沈めなければいけないかが、内田吐夢の映画キャリアを貫くテーマだった、とここで仮定してしまってもいいかもしれない。

『大菩薩峠』三部作と『宮本武蔵』五部作の合間に、内田は歌舞伎が題材の映画を並行して数本作っている。
これまで内田のフィルモグラフィにおいては、それぞれは別の作品系統とみなされていたが、暴力性の検討というテーマを仮に据えてみれば、意外と接点は近い。

例えば『妖刀物語 花の吉原百人斬り』(1960)の、ラストの刃傷。売れっ子の太夫に袖にされた醜男による哀しい痴情事件だが、それにしてはあの立ち回りは、それまでのしっとりとした展開からすると唐突に感じるほど、凄惨で過剰ではなかったか。

原典となった演目『籠釣瓶花街酔醒』は、享保年間に実際に起きた事件をもとに書かれている。
享保年間といえば、1716~1736年の期間。
つまり、江戸のはじまりに剣の価値に迷う武蔵と、江戸のおわりに剣の持つ直截的な暴力性に魅入られる机龍之助のあいだ、江戸が政治的にも社会的にも安定して、侍が刀を抜く意味も機会もなくなった時に、人の持つ暴力性は男女のトラブルの場で奔出した。
内田のなかではそう捉える歴史観が必然的にあったから、『妖刀物語 花の吉原百人斬り』の刃傷場面は1本の映画からははみ出すような暗い迫力があったのだ。

ここまで半日近くかけて一気に書いてみて、何を思うかというと、ああ、自分は内田吐夢のことをまるで知らないな……である。大体、まだまだ監督した映画の大部分を見ていない。
つまり僕はここで、『大菩薩峠』三部作を見て改めて、内田吐夢についてよくわかっていないことがよくわかった! ということを書いておきたかったのだ。映画評のようでいて、ベクトルは逆になっている。

まさに、ふりだしに戻るという感じで溜息が出るが、それでも書いてよかった。
映画について長い文章を書くのは、楽しいもんですね。

 


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