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『赤い糸 輪廻のひみつ』という映画を見たの巻

2024-04-23 23:02:36 | 日記


『赤い糸 輪廻のひみつ』
。2021年に台湾で大ヒットし、昨年(2023)年の年末に日本でも公開された映画だ。
http://taiwanfilm.net/yuelao/

これが権利の関係で、現時点ではソフト化や配信の予定がないそうだ。それもあるのか、初公開から数ヶ月置いての再ロードショーという少し珍しい形の上映が、今始まっている。

〈日本でいちばん映画を知らない映画ライター〉と常々自称している僕がたのしく見たのに、映画通な方々にまで広まらないのはいささか勿体ないと感じた。せめて、手短にでも感想を書いておきます。





ある日、青年シャオルンは落雷事故で命を落としてしまう。
しかし冥界は、職員がパソコンでデータ整理しながら新人の死者との面談をせわしくなく行う、まるで悲壮感のない場所。冥界の人であるうちに徳を積めば再び人間として生まれ変われるので、みんな自分の不慮の死にあまりクヨクヨせず、訓練に励み出す。

シャオルンはピンキーと名乗る女の子とペアを組み、縁結びの神「月老(ユエラオ)」の役目として現世に現れる。
ふたりの息が揃わないと、生きている人間同士を結びつける赤い糸が指の先から伸びてこない。顔を合わせれば喧嘩していたシャオルンとピンキーだけど、いつしかウマが合い、どんどん縁結びを成功させていく。

ところが、シャオルンには現世で永遠の愛を捧げる女性・シャオミーがいた。彼女が、死んだはずのシャオルンが常に傍にいることに薄々気づくにつれ、ピンキーの気持ちは穏やかではなくなっていく。
それに、数百年経っても仲間の裏切りによって死んだ恨みを忘れられない男が、復讐のために冥界を抜け出す。彼がつけ狙うひとりが、シャオミー。彼女の先祖は、その男が妹のように可愛がっていた娘だった。

お話は、まあ実に賑々しい。盛り込めるものは何でも盛り込もう、という感じだ。

ずいぶん前のことだが、構成作家業で出入りしていた制作プロダクションでドラマの企画募集があった時、「お酒によわい女性が酔った時にだけ赤い糸が見える」という恋愛コメディのストーリーを考えたことがある。
自分の小指から伸びる赤い糸をたどれば運命の相手が分かるのだが、なにしろ下戸が酔っているので、まともに歩けないし、すぐ眠くなる。そのくせ、周囲の知人友人の縁だけはしっかり結べてしまう。

なかなか面白くしていけるのでは! と張り切ったのだが。「赤い糸の表現はどうするのか」などと聞かれるだけで採用も不採用もハッキリしないままになった。僕のほうもプロデューサーの反応が薄いのにめげてしまって以来、すっかり忘れていた。

それを『赤い糸 輪廻のひみつ』を見て、久々に思い出した。わー、自分、それなりに似たアイデアを考えていたんだよ。
ただ、よりその分、縁を結びつけるには冥界にいる男女のペアの協力が必要など、本作のアイデアの育て方が手厚いことには感心させられた。

『赤い糸 輪廻のひみつ』を見た後に読んだサイト記事で、とても参考になったのは、

・YAHOO JAPANニュース 2024年4月16日更新
田中美帆「台湾のヒット映画の上映がふたたび東京に戻ってきた理由。」https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/5f159134a7f97f1fb5f9367f5d47c16a3d139d53

と、

・CINRA 2023年12月21日更新
「台湾映画らしさ」を表現する一言とは?『赤い糸 輪廻のひみつ』の魅力をギデンズ・コー監督と語る」 (インタビュー・テキスト 稲垣貴俊)
https://www.cinra.net/article/202312-giddensko_ikmsh

のふたつ。

先に書いたように、冥界行きがあまり深刻でなく語られ、むしろ青春の新しいチャレンジの場だったり、月老(ユエラオ)のユニフォームが日本の古い学生服調だったり、冥界の先輩の髪型がリーゼントだったり……と、ちょくちょく幽☆白書』みたいなところがある、と感じていたのだが。
監督のギデンズ・コーはまさに冨樫雅博の『幽☆遊☆白書』の大ファンで、本作ではオマージュのつもりで主人公の死からストーリーを始めている、と前者の記事で読み、あちこちで日本のサブカルチャーへの目配せがあるのは、あくまで本気のことなのだと教えてもらえた。

それでも、冥界と現世との行き来には、日本で生まれるものとはまた違うコクが出る。
まず、輪廻転生の思想を青春・恋愛映画のジャンルと混ぜ込む、というワザは、老いることを過剰に恐れる今の日本社会の精神状態ではかなり難しい。
その輪廻転生も本作では、仏教の厳密な六道の教え等からやや離れ、がんばって徳を積めば人間に生まれ変われるゲームの設定のように、かなりカジュアル化されているのだが、そこに新しい発見、価値観の洗い直しがある。

人は死んだら、動物を含めた生き物に何度も転生する。その輪廻のサイクルにおいては僕やあなたの前世はウミガメで、来世は小さなムシの一種かもしれない。
この考え方の基本には(六道において人間道と畜生道が区別されているように)、人間が人間に生まれ変われなければ苦しい、悲しいことですよね? という共通認識が大前提としてある。

しかし『赤い糸 輪廻のひみつ』は、そこをやんわりとほぐす。イヌにもカタツムリにも命はある。その命は人間よりも価値がない、と誰が確信を持って言い切れるでしょうか? という問いかけが、賑やかなストーリーの合間合間にある。

いわゆるネタバレにはならないよう少しぼかして書くが、『赤い糸 輪廻のひみつ』はクライマックスに近いところになると、なんと手塚治虫『火の鳥 鳳凰編』の、全体のキーになる場面そっくりの展開になる。そして、お互いあさっての方向を向き合っていたようなゴースト恋愛ドラマと時空を超えた男の復讐劇が、まさに輪廻のサイクルの導きで鮮やかに交差するのだ。

ここは……かなり驚き、カンゲキした。ギデンズ・コーが『火の鳥 鳳凰編』を読んでいたとすれば、手塚漫画のオマージュとしては最高に近い部類に入る。
でも、いやあ、命の尊さというものを映画でどう表現したらよいか色々と考え、工夫していたら偶然に似ることになったんです、という答えだったとしても、僕は同じように感じ入るだろう。


ギデンズ・コーにこういう心構えがあるから、監督デビュー作で代表作の『あの頃、君を追いかけた』(2011-2013公開)そっくりの展開を堂々となぞってみせながら、さらにそのスケールを大きくしていく、という作りがうまくいっている。

ピンキーのぼやき「男の初恋話に出てくる子って、なんでみんな優等生なの?」は、『あの頃、君を追いかけた』をおちょくるギャグになっているし、かつて文系男子だった人はみんなくすぐったくなるおかしさ。

それにしても。
イケメンでスポーツ万能だけど勉強嫌いの男の子と、勉強熱心でマジメな女の子の取り合わせは、若い頃はそれこそ日本の学園漫画みたいにキラキラとハマるけど、大人になっても続くのは難しい……という、少しからい恋愛観/人生観まで、ギデンズ・コーが繰り返すのは何なのでしょうね。

シャオルンは高校のバスケ部に入り、シャオミーに「俺はこれからこの学校の桜木花道になるぜ」みたいなことを不敵に宣言してみせる。
僕がロングシュート決めたらシャオミーはどんな顔するだろう。そんな抱負とやる気で満々。

でも、そこがシャオルン、ちょっと哀しい。キミが桜木花道になるということは、シャオミーは赤木晴子さんになるってことなんだぜ? 花道とハルコさんの縁を考えてみなさいよ……。
ギデンズ・コーがそこまで漫画を読み込んだうえで、シャオルンに「俺は桜木花道」と言わせているとしたら、やはり、なかなか渋いものがある。

そんな二人に花を持たせる役どころで、逆に見る人の心を掴むのが、ワン・ジン演じるピンキー。
勝気でちょっと蓮っ葉な女の子が、秘めた片思いに耐えるのがまあ、せつなくて。

わしらがティーンの頃は『恋しくて』(1987)というアメリカ映画があってのう。
ロックバンドでドラムスを激しく叩き、不良グループも一目置くツッパリ少女なのに、気の弱い幼馴染の男の子と一緒にいる時だけはどうも調子が狂う。そんなヒロインを演じたメアリー・スチュアート・マスターソンにみんなメロメロになったものなのじゃ……という昔話になり出してもお門違いになるのでもうやめておきましょう。



青春映画は、その時々の人達のためのものなので。
『赤い糸 輪廻のひみつ』を、今、自分の恋と重ね合わせて見ることができる人はしあわせです。

 


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