ワカキコースケのブログ(仮)

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ごあいさつとFBコピペ~『ドコニモイケナイ』

2013-07-24 04:52:44 | 日記


「はじめての小川紳介」、20日(土)~23日(火)の4日間、無事に終わりました。
ご来場くださった皆様、オーディトリウム渋谷の皆様。ほんとうにありがとうございました!

ある程度の手応えはあったと思います。
小川紳介の存在が20~30代のあいだで今後さらに評判になるだろう、その露払い役をつとめた気分です。
僕自身、いろいろ勉強になりました。
全体のレポートは近日、サイトで掲載の予定です。
http://webneo.org/




さて。後回しにしてしまった案件の何から手を付けていいのか。やや途方に暮れた気分でいるところで、ヒョイヒョイと、トークゲストに呼んで頂くことが決まった。
http://dokonimoikenai.com/
http://blog.livedoor.jp/dokonimoikenai-news/archives/2013-05.html


このブログで、2012年の劇場公開ドキュメンタリー映画/国内のベストテン第6位に推した『ドコニモイケナイ』が、8月3日から9日まで、アップリンクhttp://www.uplink.co.jp/で再上映されるのだ。




僕は8月5日に、お邪魔いたします。


他の日は、人気若手監督がズラリと並ぶ豪華布陣。
「映画マスコミ業界屈指の不発弾」のキャッチは、ただの「ライター」では余りに見劣りがして島田監督に申し訳ないので、僕からお願いした。ちょっとでも、なにか印象付けたくて。
で、実際そう思っている。自虐と自信過剰が、一緒くたなのだ。


せっかくなので、去年の晩秋、公開された時に見てフェイスブックに書いた文章をコピペ。但し、事実関係で間違えてしまったところなどは修正している。
丸ごと絶賛の文章ではないが、ケナしているわけではない。
ドキュメンタリーは、引っかかる部分こそが重要ってところがあるので、エンタテインメントとは自然と評価のポイントは違う。そこはご留意を。




『ドニコモイケナイ』
  2011-2012公開  島田隆一 JyaJya Films



neoneoでは、なるたけ映画の記事は他のメンバーに任せたいと思っているのですが。

『ドキュメンタリー映画 100万回生きたねこ』、『サンタクロースをつかまえて』、それに『ドコニモイケナイ』といった映画が、渋谷のミニシアターで一斉に公開されている状況には、さすがに僕もジワジワと昂ぶりを感じます。
同じ場所でちょくちょく若い人の映画が盛り上がった時の、あの、ビミョーにキツネに化かされた感じ、はっきり言えば“円山町過大評価まつり”に参加させられた気分と比べたら、この3本の手応えは遥かにホンモノです。
ドキュメンタリー映画の新しい流れが生まれつつある渋谷は今、等身大バンドのネットワークがUKポップの流れを変えた頃のグラスゴーのようだ。……グラスゴーに行ったことないけど!

 

『ドコニモイケナイ』がどんな映画か、概要については、公式サイトをご覧ください。
http://dokonimoikenai.com/


僕はあまり、主人公のメンタルヘルスにこだわったり、主舞台の渋谷について風景論的に語ったりしたい気持ちが湧かなかった。この映画においては、そこに本質的価値は無い気が、直感的にしました。僕はね。

もちろん、彼女の変貌とハチ公前の風景の変わらなさ。これを対照していく切り口なら、僕なんかでもそれなりに批評らしく読める文章をこさえられるだろう。でも、うっかり「街の空虚な賑わい」なんて言葉を安く使ってすぐ台無しにしそうです。
見方を変えれば、昔からの渋谷区民にしてみれば、すべては地方出身者が勝手に集まり、勝手に傷つき、そして勝手に嫌う、身勝手な話なわけですから。


では、この映画の、何が僕に響いたのだろう?


約10年前に撮影された前半は、いかにもな日本映画学校のドキュメンタリー実習映像にゲッソリしました。
僕が在校していた時、ドゼミ=ドキュメンタリー・ゼミを志望する同期は、正味の話、「いい奴ではあるけど単純」な生徒が多かったのです。おもしろそうな人物を追いかけてさえいれば、何かが出てくるはずだ、社会が見えてくるはずだと、若さ任せにチーム行動するほうを、ひとりで自分なりの哲学をコツコツ育てる努力よりも優先しているのがもっぱらだった。「今日もオレたち徹夜だよー」とボロボロになってる風をよろこんで見せるやつの姿に、僕は内心、(ラクなほうを選びやがって……)と思っていたものです。

それがドゼミの気風で、この映画のスタッフもそうだった、と断言しているわけではありません。
ただ、何を見たいのか判然としないまま密着したところで……という甘い感じ。エキセントリックと魅力とのはき違えの青さに、久々に思うところを思い出した次第。

彼女を路上スカウトなんかして、諸々を手早く上げようと思った「事務所の社長」もまた、確かにかなり軽率。だけど、約10日ですぐ(あ、このコはちょっと……)と判断し、キミはいっぺん実家に帰りなさいとアドバイスしたのはセコい大人なりの賢明さであり、ズルさであり、優しさです。
僕には姿を現さない「事務所の社長」のほうがよく理解できるだけに、スタッフがただ彼女の話を聞いているだけじゃ、ドキュメンタリーにはならないと思った。


ところが約10年後、学生だった島田隆一らスタッフは熟成し、新たなスタッフ(『サンタクロースをつかまえて』と同じカメラマン・山内大堂)も加わって、映画は全くの別物になる。
日常シーンが、とてもいいです。彼女の表情が、発症する前の自意識過剰でキンキンした顔つきよりもずっと柔らかく、静かで儚くなっていることには、期せぬ鋭い問い掛けがあります。


ただ率直には、とてもいいことを、やや冗長に感じました。「(被写体に)寄り添う」という言葉が、最近のドキュメンタリー映画の秀作を誉める時にやたら流行っていますが、いかんともしがたいニセモノ臭があるワードです。この映画の感想にも、「寄り添う」がプロアマ問わずバンバン使われていそう。善男善女にそうさせてしまう自体に、弱さ・甘さがあるのではないかと。


と、けっこうブチブチ思いながら見たのですが、どうもそれでは、なにが響いたのかが説明できない。
前半と後半をつなぐ帰郷の「バイバイ」が、なぜああも痛いほどに哀しいのか、うまく言えない。空港の別れのシーンとしては東陽一『やさしいにっぽん人』の緑魔子の鮮烈さに匹敵するだなんて、ひとりごちてみせても仕方ない。


僕が見た回のアフター・トークは、島田隆一監督と、名前だけはよく聞いたことがある東良美季。
この東良氏が「夢に向かってがんばれと若い人はよく大人に言われ、その気になってストリートに出るけど、そこでは夢の叶え方を誰も教えてくれない……」といった主旨のお話をされた時に、ああそうか、と電撃的に分かりました。


『ドコニモイケナイ』は、空白期間を置いた撮影によって、巧まずして<人生におけるポスト・ドリーム>という具象では描きにくい、そして誰もが自分の身として語りにくいテーマを、ヴィヴィッドに描き得た作品なのだと。
ポジティブな夢(人生の楽天的ヴィジョン)が破れた時、また、いずれ破れることを悟るとき、その後も人生は続くことをどう受け止めていくか。(それゆえ、「寄り添う」的なる方向へ寄せていく終わり方がベストかどうかは、やはり保留してしまうんだけど)


僕の、人にあんまり言いたくない、まだ整理しきれていないところをグイグイ突いてくる映画であること。だから、ある若い女性の数奇なケースの映画だとはもともと客観的に見ていなかったことに、トークで気付きました。


非常に不遜な打ち明けをしますと、映画のトークで、この人は自分よりも深く上映作の骨に触っている、と唸ることは実はそんなに多くありません。
しかし東良美季さんには、モヤモヤしたところを見事に引き出してもらい、導かれた。凄い人でした。トークの後半はスッと下がり、島田監督を立てるように「あのカットがいいですね」的な穏当な感想を言うようになったのも、計算ずくではないかとさえ思われた。映画の後にトークが聞けて、本当に良かったです。


最近、柳町光男の『十九歳の地図』をかなり久々に見返したことも、どこかで反響しています。キックボクシングをしている同輩が試合でKO負けし、故郷に帰る挿話がありますが、これが中上健次の原作にはない柳町の脚色であることに、今回初めて気が付きました。

控室で倒れている彼を見て、主人公達はつい「情けない……」と口にする。一緒に試合を見に来ていた貧相な中年男・紺野さん(蟹江敬三)が、この時ばかりは真摯に「おまえら、まだ負ける人間の気持ちが分からないのか」と主人公達を叱ります。
しかしその紺野さんにしても、ジムで先輩にいびられるのにも耐え地道に練習を続けてきた同年代が無様に負ける姿を見る、それが主人公達にとってかなり鈍い痛みであることに思いが至らない。お互いに気持ちが通じない、哀しい場面。


僕は紺野さんなので、『ドコニモイケナイ』の真のテーマは<ポスト・ドリーム>だった、と感じられて、さめざめとした気分でこうして一気メモしているのですが、作り手の意図がその通りだったかは、分かりません。おそらく、それは作りながら生まれたものだと思われます。

 


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