ワカキコースケのブログ(仮)

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高橋洋子さんの監督新作の短編を見て

2021-10-10 07:23:40 | 日記


今年は映画でも何でも一から勉強し直し、がテーマなので、映画の長い感想は滅多に表に書かないでいるのですが。たまには。(今年初めてのブログ更新……)

高橋洋子監督・脚本・主演の短編『キッド哀ラック』の、ポレポレ坐でのお披露目上映会に伺ってきました。

最近、高橋さんに取材させていただくことがありまして。


3人、テキストの画像のようです



幼い頃から奔放だった妹が久しぶりに、優等生だった長女が守っている実家に戻ってくる。二人の仲は相変わらずぎこちなく、ずっと反りの合わなかった母親にも嫌味を言われて相変わらず情のある会話ができない。それでも女三人、再び一緒に暮らし始め……。

大先輩の久しぶりの監督作ですが、台本書きのはしくれとしては、対立の構造や葛藤の場が弱いのでは……とどうしても、まず思いました。
なんとなく、それとなく文句を言いあって、なんとなく和解するようなしないような。もどかしい気持ちで見たのです。

ところが。あれ、そこがこの映画の面白さかもしれないぞ、とジワジワ思い始めました。

対立(不和や利害、関係の不均衡など)がエピソードごとに高まり、ぶつかりあうクライマックス(問題解決か、あるいは劇的な対決)があってカタルシスとともにおしまいへ。
この、野田高梧が『シナリオ構造論』で説いたセオリーはなんといってもまず基本のもの、と僕もずっと思ってきましたが、『キッド哀ラック』はそうならない。

「あんたは昔からそう」
「私だって」
「あたしだって」
など、序盤のほうからずっと女三人、けっこう率直に気持ちを言葉にしているためです。だから、ガマンにガマンを重ねたあげくにドカーン、みたいにはならない。

それを本当に、脚本の劇構造の弱さと捉えて済ませてよいかどうか。

養老施設の和気あいあいな人間模様を描いた小説『のっぴき庵』の作者が、ご自分の自主映画で存分に好きに書いたシナリオだ、と考えると、どうも別の解釈が生まれてきます。

きょうだいへの、母への不満を、溜めずに小出しにチクチク出す。カチンときたとしても、フンと無視する。そうすることで決定的な亀裂にはならない。
それが一緒に暮らすための知恵なのよ、と言いたいところが高橋さんにはあるんじゃないか。

姉妹二人の会話の場面がとても多いのですが、端々から(今さらねえ、正面きって揉めるのもイヤよねえ。だって疲れるじゃないの……)という雰囲気が出ているのが巧まざるユーモアになっている。

疲れるじゃないの→だから文句は言うけど、相手を完全に傷つけるほどには追いつめないし、白黒つけない。

ギスギスした話題が多い昨今において、このありようは、実はかなり見事に教訓的なテーゼではないでしょうか。

少なくとも僕は、そういう知恵のほうが好み。「言いたいことがあるならハッキリ言うべきだ!」みたいな態度、苦手だもんね。遠回しに冷やかしたりならチョイチョイやるほうなので、そこから察してくださいよ……とはよく思っている。

実生活ではそうなのに、映画では登場人物に正面切ってのぶつかり合いを求める、というのも身勝手というか、おかしな話ではあるなあ、と自分自身に対して考えるよいきっかけになりました。

そう、みんながみんなイングマル・ベルイマンの『沈黙』や『秋のソナタ』みたいにガッツリやりあうのは無理。ああいう喧嘩は、修復不可能にしたほうがいい、という踏ん切りがあればやれるんだけど。嫌いでも親だからさあ……という気持ちが残っている間は、ベルイマンはやれない。

私はだから、成瀬さんの『稲妻』や『流れる』ではそういうつもりのことを脚本にしたんですよ。日本人は大体こうしておくもんでしょうし、意外とそういう関係が綺麗なのよ……と田中澄江さんの声まで(勝手ですが)聞こえてくるような気がしました。

 


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