ワカキコースケのブログ(仮)

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『魔法少女まどか☆マギカ』に今さらハマるの巻

2013-12-13 23:09:02 | 日記


この数日、僕がもっぱらなにを考えていたか。

ほむらちゃん。ほ、ほむらちゃん……。ほむらちゃん! 暁美ほむらのことばかりである。彼女のことを考えると涙が出そうになる。

仕事がどうとかツイッターができなくなったとか、忘年会はいつにしようとか、こまごました僕の日常など「魔法少女まどか☆マギカ」の主人公、鹿目まどかをいつまでも、どんな姿に成り果てようとも守り続けようと決めた、彼女の決意に比べればここに書く価値などない。

「わたしはオタクとも、いい年してキモいとも、それまでなんにも興味なかったくせして新作公開前の深夜の予習OA(11月のTBS)でコロッとハマって騒ぎ出した軽薄者と言われようと構わない。実際にその通りなんだもの。だけど、だけど……、ほむらちゃんを嗤うことだけは、わたしは許さない!」

いや、あの、どうも、すみません。急性でハマってしまったもので。
ちゃんと研究もしていない状態ですが、劇場版3本のみを見た状態でのメモをダダッと書いておきます。誤認、独解は多々あると思いますが、ひとつの感想ということで、あらかじめご理解ください。と、ちょっとヤラしく予防線を張った上で、好きに書かせていただきます。


もともと、テレビ・シリーズ放送終了後の2011年に、映画情報サイト「INTRO」で、映画批評家の大久保清朗が「魔法少女がいるところ」と題した作品論を書いており。(大久保さんがこんなに気合入れてるからには、なんかタダモノではなさそうだな……)と、存在が少しは引っかかっていた。
http://intro.ne.jp/contents/2011/06/04_1411.html

それで、11月6、7日のTBS深夜での『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[前編] 始まりの物語』『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[後編] 永遠の物語』(どちらも12年公開)の連続OAを見たのだ。テレビシリーズの総集編だというから、手っ取り早くていいや、と思って。

・魔法少女が戦う魔女のビジュアルの斬新さ。いかにもな魔女のキャラクターが出てくるのではなく、むしろ絵本のような夢のある絵の空間が、魔女として現れる。典型的にカワイイ美少女アニメな顔立ちの女の子(僕のようないちげんは、慣れるまでかなり困る)との対照が、かつてない平面スペクタクルを作り出していてびっくりした。

・その創意工夫だけで十分にタダモノではないと納得しつつ、このままだと、自分にはなんのとりえもないと思ってる女の子まどかが、年上のマミさんや、親友のさやかと一緒に魔法少女に変身してがんばるストーリーみたい。それだったら別に……と思う瞬間、マミさんが。

・マミさんがあんなことになって、ひっくり返った人、僕のほかにも多いだろう。そのあとはもう、鼻づら引きまわされるような展開。
実は、ひとつ奇跡をかなえてもらうことを条件に宇宙生命体きゅうべえと契約して魔法少女になった女の子たちの運命は、魔女に殺されるか、それとも自ら魔女になってしまうかの二択しかない。人の目に見えない裏世界の戦いは、そこから派生するエネルギー摂取のための、巨大なマッチポンプなのだった。

・好きな男の子の不治のケガを元通りにする、不遇の宗教家である父の言葉に社会が耳を傾けるようになる、といった実にいたいけな願いをかなえてもらう代わりに魔法少女になった彼女たちは、もうふつうの人間には戻れない。そのことに絶望すると、魔女になる。絶望と抗いながら、それぞれの義にのっとって戦い合うほかない。
この、画面のかわいらしさとストーリーのハードさとの戦略的落差が、まずもって「まどマギ」(わー、僕もついに略してしまった)のえもいわれぬ魅力だ。作り手自体が「実は中身はむかしのやくざ映画と同じ」といった発言をしているようで、これには激しく膝を打った。

・僕はどちらかというと、忍者ものやスパイものなど、エスピオナージを主役にした活劇の伝統をよく汲んでいることに惚れ惚れした。もちろん、白土三平や平井和正の「幻魔大戦」も込み。特に、東映の集団抗争時代劇での忍者もの、『十七人の忍者』(63・長谷川安人)や『忍者狩り』(64・山内鉄也)。こういうタイトルが並んでいるだけで血が騒ぐ人なら、「まどマギ」はどストライク、なはず。
それでも「中身が硬派でもあんなロリコンな絵じゃ……」と乗り越えられない人は、これは仕方ない。センスが悪いとか申しませんからどうぞご安心を。きっと表層批評を学ばれてる方なのでしょう。

・周囲の魔法少女が次々と斃れていく、小・中学生時代に富野由悠季アニメのカタストロフィで免疫をつけた世代の僕ですらショッキングな展開のなか、なぜ、主人公のまどかだけが契約せず、人間の少女のままなのか。謎めいた転校生、ほむらはなぜ、友達を助けたい彼女の願いすら冷たい怒りで拒み、否定し、まどかの変身を阻止し続けるのか。
実は……、のあたりの謎解きの過程は、アイマイに伏せておきましょうか。わたしはもう、ここらでは涙ポロリでしたので。
ただ、ひとつ例えておくと、ほむらは森の石松なのだ。よるべない孤独な遊侠の途次で、「石松さんと言ったね。清水に来たら遊びにおいでよ。待ってるぜ」と、清水の次郎長親分にひとこと声をかけてもらった。石松はこの優しさに報いる、それだけのために身と心を次郎長に捧げた。(講談、小説、映画からなる「次郎長三国志」ユニバースでのこと) 自分なんかいなくなっても……と思い詰める子にとって、あったかい一言をかけてくれ、勇気づけてくれるまどかのような友達が、どれほどの宝物か。

・そして、最後に残った魔法少女、ほむらが最強の魔女との戦いに敗れそうになったとき、ついに、まどかは契約を決意する。きゅうべえに求める奇跡は、完全なる利他。ほのかだけでなく、過去未来すべての魔法少女の心を安らかにすること。
この大きな願いによって(クレオパトラや卑弥呼、ジャンヌ・ダルクとおぼしき「魔法少女」たちが時空を超えて次々と死の間際に絶望から救済されるのだ!)、まどかは歴史を作り替え、魔女のいない世界を秩序づくる、恒久的な平和の概念そのものに存在を昇華させる。


以上が、劇場版の前2作まで。
こんな、アーサー・C・クラークもかくやというぐらいのスーパー大団円に、続きの物語を用意したと言われても、期待と不安が半々である。けっこう勇気をふるって、ようやく12月に入ってから見に行きました。

『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編] 叛逆の物語』
http://www.madoka-magica.com/

前半、ひとつの夢が語られる。
これまで揃うことのなかった5人の魔法少女が、まどかを中心にしてひとつのチームを組み、放課後のちょっとアブナイ冒険として「ナイトメア」と戦う。魔女ではなく、ナイトメア。まどかが神に近い存在となって魔女のいない世界にしてくれたが、その代わりに倒すべき相手としてナイトメアが存在しているのだ。

ここで作り手は、かなり意識的に、「美少女戦士セーラームーン」「プリキュア」シリーズのテレビ・エピソード1本ぶんに近い時間尺で、よく似た、これぞふつうの魔法少女もののイメージ通り、という展開を見せてくれる。
哀しく血を流しあってきた5人が、仲良くテキをやっつけ、帰りはやさしいリーダー・マミさんの入れてくれたお茶でなごむ。

朝日新聞11月2日版で、総監督の新房昭之は「5人のああいう日常が見たかった。テレビにはなかったら」と発言している。単にファンサービス以上のものがあって、うれしい。(なお小原篤によるこの署名記事は「まどマギ」とはどんなアニメかを実に端的にまとめていて、とても助かった)

しかし、じわじわと矛盾が気になる。まどかが姿を消して変えた世界に、なぜまどかがいるのか。ナイトメアはかつて魔獣と称されることもあったのではないか。どうやらこれもひとつの願望による、うその世界……と、ほむらがいち早く気づく。見ている方は、あー、このまま「ふつうの魔法少女もの」でいてほしいのに、と残念に思う。

この後は、ほとんど、ほむらの物語。
どれが現実で、どこまでが作られた世界か、という煩悶や解釈のドンデン返しが、アニメの上で進んでいくので、置いていかれる気分のひとは少なくないだろうと思う。僕も実際、どこまでストーリーを把握しているか心もとない。

ただでさえ少女たちは、想念と世界の把握を密着させている。セカイ系という言葉が定着する以前も以降も、かわらずセカイ系であり続ける。
まどかに救われ、しかしそのために、まどかを守り通す決意を成就できなかったほのかは、安定していたはずの世界を再び壊しにかかる。

せっかくの大団円を、ほのかひとりが暴走して帳消しにしていく、どうしてわざわざこんな……と、ファンほど引いてしまうような展開。『新世紀エヴァンゲリオン劇場版Air/まごころを、君に』(97)を勇んで見に行ったら、決着どころかますますとんでもないことになって、茫然となったのを思い出してしまいそうになるほどの。

決してスッキリとしたカタルシスはないわけだが、それでも、自分なりに、この締めくくりにある種の誠実を覚えている。

よくよく思い返すと、ストーリーの上では、やはりまどかのエネルギーを惜しく思うきゅうべえが、まどかを再び実体化させるために仕掛けた罠だった、という提示はなされている。
ただ、あんまりそこに乗っかって見ると、〈人気があるから無理に話を引っ張り、前作のラストの素晴らしさまでマイナスにしかねない続編〉という、日本の劇場版アニメの残念な系譜に、見ているこちらのほうから自ら連ねてしまう危険が高くなる。そうしてしまっては、なんか切ないのである。
むしろ、きゅうべえから再びまどかを守るため、にはエクスキューズ以上の意味はなく、物語を動かしているのは、あくまでほのかが自身の欲望に従った暴走。作り手の狙いは前作の継ぎ足しではなく、更新だった、と捉えたほうが僕はしっくりくる。

まどかが献身で神に近い存在になったことによって、魔女がいなくなった世界。それでも人間の不安や不満は消すことはできず、そのネガティブな感情の誇大化には、かわらず魔法少女の活躍が必要とされる世界。
その矛盾を解決するために、ほのかは、まどかとは真逆の存在として覚醒する。悪魔に近い存在、となって、まどかの存在を補填する。魔女では生易しいぐらいの敵、絶対的な対立項となることで、まどかの存在を不滅にする。こうして初めて、真にまどかを守り通すことができる。
おそらく、こういうことじゃないかと今のところは思っている。

それが、日本のSF/ファンタジーのひとつの伝統でもあるからだ。
手塚治虫は「鉄腕アトム」のわりと早い段階で、手塚ワールドではおなじみの悪人スカンクに「アトムは完全ではないぜ/なぜならわるい心を持たねえからな」と言わせている。(55年発表の「電光人間の巻」。僕が持っているのは光文社文庫の第2巻)
こうした、かなりドキッとする作者自身によるセルフつっこみ、単純な正義を信じない内省は、横山光輝(正太郎君にリモートコントロールしてもらっているから正義の活躍ができるだけで、悪人の手にかかるとどうにもならなくなる鉄人28号)、石ノ森章太郎(ショッカーによって改造人間にされた「怪人バッタ男」である仮面ライダー)らに受け継がれてきた。精神年齢的にアメリカンコミックを一足飛びに追い越して、独自の超・文学的発展をしてきた。

それに、虎の穴の極悪レスラーだったタイガーマスク。実はすべて不動明=デビルマンと飛鳥了=サタンの因縁であったと明かされ、ハルマゲドンに突入していく漫画原作のほうのデビルマン。
そして、まぼろしの(シナリオは存在していると言われる)「イナズマンF」(74)、最終回ストーリー。ずっと闘い続けてきた敵のボスを倒した、いや、倒してしまった途端、超能力が消えて廃人同様になり、街をさまよう主人公。
こども番組の勧善懲悪設定のマッチポンプ構造を、あまりにもあからさまに批判するものなので、僕らの世代にはつとに伝説的だ。

こうした戦慄の記憶の数々に、作り手はかなり忠実だったはずだと思われるのだ。
だから僕は、まどかを守り通す(彼女の聖性を輝かせる)ために、ほむらがダークサイドに自らあえて墜ちて永遠の敵になってみせたものがたりなのだと解釈する。
アニメの世界のなかだろうと、安らぎと平和の到来をカラフルに描いて、それをフィニッシュにして良しとはできなかった。そこに作り手の誠実を見た気がするわけだ。美しい大団円がネガティブな感情の否定につながってしまったら、それは観客に対してウソを伝えることになってしまう。自分のなかの悪や毒を、純粋さと区分けして考えないでほしい。それぐらいのことは当然、とことん考えているはずだ。「まどマギ」のスタッフならば。(もちろん、いちばん好きな友達を自分だけが「独占」するためなら、セカイの混乱を引き換えにえらびかねないのが少女。そんな危うさも込みで……)

ブラックジャックにおけるキリコに、キカイダーにおけるハカイダーになった。そんなほのかちゃんに、僕はやっぱり、メロメロなのです。

※19日深夜に追記。
数ヶ月ぶりに『名画座番外地』の著者、川原テツ先輩が連絡くれたと思ったら。「おい、ほむらがほのかになってるぞ!」
アカシアの雨に打たれながらこのままいっそ死んでしまいたい。
しかし、こっそり直して知らん顔したりすると、テツさんはあとでますます、さらに容赦ないのだ。いたぶりポイントを瞬時に見つけることに関しては、つかこうへい並みの天才である。http://kawahara-tetsu.com/

なので、直さず赤字にしてさらしておきます。
しかし、最後の最後に、ほのかちゃんって……。誰だろう! 自分の無意識がこわい。

※しかも、ほかにも何か所もまちがえていた。実にねちねちと、後からご指摘いただいた。うー……



 


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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2017-07-17 02:31:54
ほのかって誰ですかね…、
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