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憂太郎の教育Blog

教育に関する出来事を綴っています

ボタンとファスナーとホックと

2009-04-10 00:43:05 | 特別支援教育
■ボタンとファスナーとホックのつけはずし。どれがいちばん難しい?ボタンか?ファスナーか?ホックか?そもそもこれら3つに難しさの順番はつけられるのだろうか。それとも,子どもによって得意不得意があったりするのだろうか。ボタンはできるがホックはできない子がいたり,ボタンはダメだがホックはできるという子がいたりというような。
■もし,ボタンとファスナーとホックに確固とした難易度があるのなら,系統だった生活指導ができるだろう。けど,そんなものがなければ,生徒を観察して個々に目標を決めて指導するしかないだろう。それから,私が思うに,おそらくこの3つができないと,ベルトのとりつけは無理ではないだろうか。そして,ボタンもファスナーもホックもベルトも無理な子どもは,ヒモ結びは確実に無理だろうとも思う。
■そんなことを考えながら,着替えの介助をする。自立を目指すのだから私の役目は介助ではなく指導なのだが,生徒は自分では着替えができないのだから,やっていることは字義通りの介助だ。彼らの着替えを手伝いながら,着替えができるかできないかというのは,人間として自立できるかどうかの関門ということを実感する。
■衣類の着脱が自立の関門というのなら,ボタンやファスナーやホックのない衣類を着用すればいいだろうと思うだろう。例えば,トレーナーやジャージズボンには,ボタンもファスナーもホックもない。これらを着れば自立できよう。しかし,トレーナーやジャージズボンだって難しいのだ。何が難しいかわかるだろうか?それは,衣類には前と後ろの違いがあるのだ。あるいは裏と表の違いがあるのだ。この違いがわからなければ,トレーナーもジャージズボンもシャツもパンツも自分では着用できない。つまり,自立できないのである。
■それにくらべて,食事というのはずっと平易だ。はしが使えなければ,スプーンですくい,フォークで刺せばいいのだ。それもできなければ,いっそのこと手でつかんで食べればよい。もちろん,手づかみでいいわけがないのだが,とりあえず食べるという目的は達せられよう。そういうわけで,着替えと食事だったら,難易度でいえば着替えの方がずっと難しいと私は思う。

特別支援学校の教科書とは

2009-04-03 21:24:05 | 特別支援教育
■特別支援学校で使用する教科書が,準拠していればどのような図書でもいいというのは,知らんかった。特別支援学校用の教科書も教科書会社でつくられてはいる。けれど,子どもの障害の程度を考えれば,子どもにあわせた図書で学習したほうがいいだろう。そこで,準拠教科書として,子どもの障害の程度にあわせて,図書を選定できるのである。なので,教科書といっても,それは,ひとりひとり違っている。
■教科書が運ばれてきたということで,体育館に向かったら,「のんたん」や「ぐりとぐら」や「はらぺこあおむし」や「五味太郎の123」などがフロアにいっぱいとなっていた。それを,子どもの教科書カルテをみながら1冊づつ見付けて仕分けていった。
■教科書なので,すべて教委に報告をあげる。この報告は,やった人ならわかると思うが,結構面倒な業務だったりする。この業務が,特別支援学校では,子どもごとに,全教科の教科書すべて図書が違うわけであるから,子どもごとに報告をあげることになる。すべての図書の報告は,さぞかし大変な業務になることだろうなあと思っていたら,その業務は私の受け持ちとなった。

「どのように」という「問い」のみが有効だ

2009-03-20 22:49:21 | 特別支援教育
 中学校国語科教師の堀裕嗣氏のBlogに〈問い〉をたてる力というタイトルの論考が掲載されている。
 これが,私にはどうにもよくわからない。
 それは,次のような論考だ。短いので,すべて引用する。

〈問い〉をたてる力
多くの人は〈問い〉をたてることができないようだ。特に「なぜ」という〈問い〉をたてることを苦手にしているようだ。
授業中立ち歩きをする子をする子がいる。ここで「どのように」という〈問い〉をたてるか、「なぜ」という〈問い〉をたてるかによって、その後の展開は大きく変わる。
多くの人は「どのように」という〈問い〉をたてる。どのようにすればあの子が立ち歩かなくなるのか、どのようにあの子を授業に引き込むか、どのようにあの子をおとなしくさせるか、こういう〈問い〉である。
こういう〈問い〉をたてると、自分は安全圏にいられる。「どのように」という〈問い〉があくまで「あの子」を変えるための〈問い〉であるからだ。
しかし、ひとたび、「なぜ、あの子は立ち歩くのか」という〈問い〉をたててみる。すると、考える対象が「あの子の行動」ではなく、「あの子の心象」「あの子の認識」「あの子の立場」といったものに向かっていく。そしてそれが見えないとき、「自分の心象」「自分の認識」「自分の立場」そして「自分の子どもを見る目」「自分の教師としての力量」といったものに向かわざるを得ない。これが教師を成長させる。
「なぜ」という〈問い〉をたてる力が必要である。

 一読,いかがだろうか。
 氏は,氏の主宰するセミナー等でも,このような問題意識をもとに発信・提案をしていると聞く。氏のなかでは,そこそこ深いテーマと思われる。
 けれど,特別支援の立場である私からすれば,どうにもわからない。なぜなら,私の立場からして,これは正反対の主張だからである。
 すなわち,少なくとも特別支援では,「なぜ」という「問い」は全く無効であり,「どのように」という「問い」のみが有効なのである。
 例を示そう。
 授業中立ち歩きをする子がいる。
 そのとき,「なぜ,あの子は立ち歩くのか」という「問い」をたててみる。
 「問い」の答えは,瞬時に出る。答えは,「ADHD」だから。なので,普通,こんな「問い」はそもそもたてない。だって,たてても不毛だから。考える対象を「あの子の心象」「あの子の認識」「あの子の立場」といったものに向かっていったって,全く意味をなさない。そんなことを一生懸命考えたところで,その子の「ADHD」はなおらない。
 なので,特別支援の立場は,常に「どのように」の「問い」をたてる。
 子どもが立ち歩くのは,45分なり50分の授業がモタないからだ。
 だから,まずは「どのようにすればあの子が立ち歩かなくなるのか」を考えて授業を組み立てる。
 そうしてうまくいけばいいけれど,そうはなかなかうまくいかない。だから,授業の立ち歩きが日本全国津々浦々の学校現場で問題となっている。
 最近では,教室に教師を複数配置したり(いわゆるチームティーチングだ),もたなくなったら,別室に子どもを移して個別授業をしたりして,他の子どもの学習を保障したりする方法がとられている。これらのやり方も,「どのように」の「問い」からたてられている策であろう。
 特別支援の立場で考えるならば,「なぜ」という「問い」は不毛である。
「なぜこの子は立ち歩くのか」「なぜこの子は学級になじめないのか」「なぜこの子は漢字を読めるのに書けないのか」「なぜこの子は算数のくり上がりからつまずくのか」「なぜこの子は100mを走ることができないのか」…。
 答えは瞬時に出る。
なぜなら,「ADHDだから」「アスペルガー症候群だから」「LDだから」「軽度の知的な遅れがあるから」「肢体不自由だから」…。
 これらは,どうしようもないことなのだ。だから,「なぜ」という「問い」はたてない。常に「さて,どうすべかなあ」と「問い」をたてて,彼らの「困り感」が解消されるような支援を考える。これが,特別支援担当の考え方だ。
 堀氏は,「多くの人は「どのように」という〈問い〉をたてる」と言う。けれど,これは極めて真っ当な「問い」のたて方だと思う。
 特別支援じゃなくたって,今,「立ち歩いている」子どもをなんとかしようと考えるのは当然であろう。氏は,「多くの人は〈問い〉をたてることができないようだ。特に「なぜ」という〈問い〉をたてることを苦手にしているようだ」と言うが,それは「問い」を立てる必要性を感じないからであろう。特に,「なぜ」という「問い」をたてることに,現場での有用性を感じないからではないか。
 だから,「なぜ」ではなく「どのように」という「問い」のたて方というのは,現場感覚に即した真っ当な「問い」のたて方だと思うし,もっといえば,このような「問い」のたて方が浸透すれば,特別な支援を必要とする子どもの理解に役立っていくことにもなるし,そうなれば教科経営や学級経営にも有益になると考える。
 もし,このような私の主張が「対症療法的」だというのであれば,全くその通りである。特別支援の教育活動というのは,ほぼすべて「対症療法的」なのです。なので,私のような常に「どのように」のみの「問い」で教育活動をやっている者からすれば,堀氏の主張は,どうにも「スコラ学的教育論議」とでも言うべきなるものにしか読めませんでした。


障害・障碍・障がい

2009-02-13 22:59:35 | 特別支援教育
 今回は,表記について。
 「しょうがい児」「しょうがい者」「しょうがいじ教育」をどうやって表記するか。
 普通一般は「障害」かな?
 けど,最近は「障がい」表記もよくみますね。それから,たまあに「障碍」と表記することもあります。
 「障害」でいくか,それとも「障碍」でいくか,はたまた「障がい」がいいか。現在,この3種類に表記が割れている。
 そもそもの話でいうと,正しくは「障碍」だ。「障碍児」「障碍者」だ。
 これは字義でいえば「障」も「碍」も「さまたげ」だ。なので「障碍」は「さまたげのある(状態)」ことであり,「障碍者」は「さまたげのある人」という意味になろう。
 さて,このままでいけば,何も問題はないのであるが,戦後,当用漢字表というものが発表されてしまった。こいつが,混乱のもととなった。「碍」が戦後の当用漢字表からはずされたのだ(いわゆる「表外字」というヤツ)。そうすると,新聞をはじめ各種出版物が「碍」を「害」に当てちゃって,「障害」と表記しちゃった。これは「交叉点」が「交差点」に,「職権濫用」が「職権乱用」となっているのと同じ理屈(こいつも本来は,「理窟」)だ。
 そうなると,字義がおかしくなる。漢字が変わったのだから当然だ。「障害」を字義通り解釈しようとすると「さまたげがあって,害のある」ということになっちゃった。そこで,各種障害者団体が,この「障害」は差別用語だと,マスコミや行政に抗議したのだった。これを受けて行政は,「障害」はよろしくないと認め,かといって戦前の「障碍」は,「表外字」なため使えず,やむなく「障がい」という標記を使用するにいたったのだった。この「障碍」を「障がい」とするのは,「警邏」を「警ら」と書いたり,「蔑視」を「べっ視」と書いたりするのを同じ,いわゆる「まぜ書き」といわれるものである。
 そういうわけで,現在,3種類の「障碍」「障害」「障がい」が乱立しているということだ。
 整理しましょう。
 本来は,「障碍」。戦後は「碍」が表外字ということで「障害」。「障害」は本来の意味と違っている,違っているどころか差別的だということで「障がい」。以上,3種類です。
 以下は,言い訳がましい,私の意見です。
 私の場合,じゃあどの表記を使うか。
 私としては,本来の表記を使いたいと思っている。つまり,「障碍」「障碍児」「障碍児教育」だ。けれど,この表記は,残念ながら少数派なのだ。専門家の文章のなかに,散見はされるのではあるが,いかんせんマイノリティなのだ。そうなると,使うには勇気というか決意表明というか「こだわり」というかが必要になる。けれど,私はまだまだこの分野は素人同然。それに,勇気も決意も「こだわり」もありゃしない。
 なので,「障碍」と表記したいなあ,と思いつつも,「やっぱり,やめとくか」ですましてしまう程度の軟弱者なのである。
 では,「障がい」はどうか。この表記は増えてきている。行政がこれなので,普通一般の人間も,さほどの「こだわり」をもたずとも「障がい」と表記しているようだ。けど,これ私は,嫌なんだよなあ。それは,「障がい」が嫌というよりも,いわゆる「まぜ書き」全般が嫌いなのです。すなわち「警ら」や「べっ視」というように書くのが嫌なのです。もちろん,「障がい」表記をしている人も,すきこのんで「まぜ書き」をしているわけではないでしょう。やむにやまれぬこととは,お察しします。けど,私は,「まぜ書き」は嫌いなの。これは,好き嫌いのことだから,人にとやかく言うことでもないし,言われることでもないでしょう。放っておいてちょうだいということ。
 なので,私の場合は「障がい」もだめ。
 となると,消去法で「障害」を使うしかなくなるのだ。もちろん,差別的な意味合いを持っているのはわかっています。けど,「障碍」も「障がい」も使用しないのであれば「障害」と表記するしかないのです。
 人によっては,「障」も「害」もどちらも差別的な用語なのだから,「害」だけ平仮名にするのはおかしい。だから「障害」でいいんだなんていう意見を言う人もいますが,それは無知をさらしているようなもの。私のように漢字表記について専門でもない人間ですら,これまでのような経緯は知っていますよ。
 繰り返しますが,私の場合はあくまでも消極的な「障害」の使用です。「障」も「害」も差別語だからいっそのことどっちも漢字でいい,なんていう無知の開き直りじゃありません。
 だから,私はできるだけ「障害」と書かずにすませたいと思っていて,これまでもそうしてきた。
 「障害児」とは書かずに「特別な支援を必要とする子ども」と書く。「障害児教育」は「特別支援教育」,「知的障害」と書かずに「知的な遅れをともなった子ども」,「発達障害」と書かずに「ADHD」「LD」「アスペルガー」「高機能自閉」などなど診断名を使うようにしている。
 大人の場合も「障害者」は,できれば使いたくないと思うので,「体の不自由な人」とか「言語に不自由な人」とか「知的に遅れをともなっている人」とかというように書く。
 字数は多くなるけど,「障害」を使わないのではあれば,それでいいと思っている。
 「知的障害」を「知的な遅れをともなっている」と書くのも,好みの問題だろうと思っている。だから,人にとやかく言うことでもないし,言われることもないでしょう。
 以上,言い訳がましい私の意見でした。

千葉県東金市の保育園児殺害事件のこと

2008-12-12 23:14:07 | 特別支援教育
 世間の関心事について,じゃあオレもなんて感じで,うっかり何か述べようとすると,いらぬ誤解があったり本意ではないように受け取られたりする。
 以前,宮崎勤の死刑執行にかかわって,彼は発達障害であると断言したら,発達障害児の親から批判を受けた。そういう根拠もないことを吹聴することによって,発達障害に対する偏見が助長されるだろうという内容だった。
 私は,かりにも特別支援教育に携わる教師なんだから,そんな偏見を持たれるようなことをわざわざ主張しねえよ,と弁解したところで,そう受け取られてしまったのだから,配慮の足らない書き方だったのだろう。あのときは,発達障害児の親からみて,私は敵になってしまったことが,私にとってちょっとしたショックだった。
 けど,私はね,そもそも発達障害についての議論をせず,マスコミがタブー視しているから,発達障害に対する偏見が助長されると言いたかったの。けど,私の文章がマズかったので全く本意ではなく受け取られたのだね。
 で,ここで何が言いたいのかというと,千葉県東金市の保育園児殺害事件だ。
 これも,容疑者が知的障害者と知って,私なりに意見したいことがあるのだけど,私の本意ではなく受け取られてしまいそうなので,どうしようかなあとここ数日は逡巡してました。
 そう言い訳しながら,以下,私の現時点での主張はこうである。
 逮捕された日。先週の土曜日だったのだが,私がこの一報を知ったときの印象は,容疑者が知的障害者だったとしても,犯罪者への厳罰化を求める風潮のわが国では,到底容疑者に寛容であることにはならんだろうということだった。
 今日までの報道をみる限り,逮捕されたときとくらべて,容疑者へ対するトーンは穏やかになってきているが,やはり厳罰化を求める風潮は緩まらないだろうと思う。
 今後は,あの弁護士がどれだけ世論の風向きを変えることができるかどうかによっていると思う。
 弁護士は,彼の責任能力の有無を争点とするようであるが,現在,知的障害者が法を犯した場合,残念ながら責任能力の有無の議論は回避され,有罪になることが多い。それは,知的障害者のセーフティネットが刑務所になっているというわが国のゆがんだ福祉政策にあるということは否めない。(山本譲司『累犯障害者』新潮社、2006年)。
 弁護士は今後,犯人である知的障害の彼も,社会の境遇からすると被害者であるという論陣を張るだろう。その時,世論がグラリと動けば当然判決にも影響する。(最近の,裁判の厳罰化はわが国のゼロトレランスの風潮に影響されているのは明らかである)。つまり,責任能力の有無という論点から無罪もしくは減刑となる可能性がある。問題は,弁護士がうまくマスコミを使いこなしながら,世論を誘導するかにかかっているだろう。
 ただ,私は,いかにあの弁護士が有能でも,それは難しいだろうと思っている。
 それだけ,現在のわが国は,知的障害者であろうと何だろうと不寛容になっていると思うからだ。
 これが私の現時点での見解である。

千葉5歳女児死体遺棄事件の報道を観る

2008-12-08 22:45:12 | 特別支援教育
 千葉5歳女児死体遺棄事件の報道を観る。
 軽度の知的障害者の犯罪について,今回もマスコミはやはりタブー視するのだろうか。
 軽度の知的障害者が社会で生きていくこと。そのことに世論は,排除でいくのか共生でいくのか,そういう議論こそ必要なことなのだと思うのだけど。
 このままタブー視するのでは,タテマエでは共生,しかし現実はゼロトレランス,という風潮が一層強まるのではないかと思う。それが,今現在の私の懸念だ。
 私が,今回の事件にかかわって,再読した本は,山本譲司『累犯障害者』(新潮社,2006年)。
 特別支援教育に携わる者としては,いろいろ考える内容の本である。

「普通学級」か「特別支援学級」かその2

2008-10-31 22:06:16 | 特別支援教育
 一般的に,発達障害とよばれる子どもであっても,小集団であれば学校生活はさほど「困り感」なく過ごすことができる。なので,過疎地域などの小規模校であればインクルージョンの実践は可能であるし,推進したらいいだろう。
 しかし,それ以外の一般的な学校現場というのは,発達障害の子どもにとっては「困り感」が満載である。生活しにくくて仕方がないというのが彼らの本音だろう。
 小学校の低学年のうちはまだいい。障害があろうとなかろうと,自我が目覚めないうちは集団で生活させていてもさほど問題は生じないであろう。しかし,成長とともに,集団づくりをする学齢期になっていき,思春期を迎える中学生になったら,もう発達障害の子どもはキツくなってしまう。
 そうであるならば,発達障害の子どもは,小集団で生活できるような環境のもとで学校生活を送ったほうがいいだろうというのが私の主張だ。つまり,「特別支援学級」に在籍したほうがいいということだ。ただし,このような主張は,インクルージョンの理念からは相容れないことだろう。
 私が,このような主張をする一番の理由は,いわゆる二次障害の問題による。
 二次障害というのは,学校生活を含む子どもをとりまく生活で,障害がもとになって自尊心が低下していくことをいう。ADHDの生徒が教師に叱責されることでやる気がなくなったり,自閉傾向の子どもが学校になじめなくて不登校になったりするのは,まさしく二次障害である。
 中学校の特別支援担当の私が実感するのは,特別な支援を必要とする生徒は,必ず何らかの二次障害を抱えている。それは,やはり小学校の中学年以降の学校生活によるところが多い。また,二次障害の程度でいれば,知的に遅れを伴っている生徒よりも,発達障害の生徒のほうがより強い。
 もっというと,学年が上がってから「通常学級」でモタなくなって「特別支援学級」に在籍した場合は一層自尊心が低下している。
 さらにいうと,中学校になってから「特別支援学級」に移ったADHDやLDの生徒は,自尊心の低下どころではない。挫折感まで伴う。子どもにとっては,「通常学級」での毎日が失敗体験の連続で,しまいに,「特別支援学級」という彼らにとって落伍者の行く末みたいな教室に移されてしまったということだ。
 知的な遅れがある子どもにしろ,発達に何らかの障害を持っている子どもにしろ,おそらく,小学校のうちから「特別支援学級」に在籍していれば,その子の特性にあった学習が展開されていて,自尊心も低下することなく学校生活を送れていたに違いないのである。
 それでも「通常学級」に在籍しながら「特別支援学級」でも学習を進めている場合は,まだ「特別支援学級」在籍へソフトランディングが可能である。発達障害の子ども自身が,「通常学級」での授業はわからないから,個別で学習したいと希望をいったりする。
 しかし,「通常学級」で長く生活してきた子どもが,だんだんモタなくなって(本当は,低学年からモタなかったに違いないのだが),「特別支援学級」に移ろうとする場合,保護者も本人もかたくなになっていまうというのは,多くの事例からも明らかである。
 子どもは,授業なんてチンプンカンプンなのに,わからないそぶりをすれば,特別支援行きになってしまうということなわけだから,無理に学習を頑張ったりする。学習がわからないのは,本人の努力不足ではなく,障害の程度によるものなのに,「通常学級」でわかったフリをする子どもが多く存在している。それよりも,個別でその生徒の認知にあった学習を取り組んでいけば,今よりもずっと理解が進むのになあと思わずにいわれない。
 あるいは,学級集団のなかでバカにされたりいじめられているのに,通常学級の集団のなかにいようとする。もう,劣等感のかたまりになっているのにもかかわらず,その集団のなかにいようとする。そんな,けなげな子どもも多く存在する。かわいそうなことだと思う。発達に障害を持つ子どもの多くは,集団生活を送ることが苦痛なのであるから,集団生活になじめないのも,それは本人が悪いわけでもなく,ましてや「通常学級」の集団の子どもが悪いというわけでもないのである。
 インクルージョンの理念については,ことさら反対するものでもないだろう。しかし,現場では,この理念を実践するまでにはいたっていない。私は,義務教育で現在の集団教育を今後も続けるのであれば,中学校現場でインクルージョンは無理だと思う。そして,そのような現状のなかで言えることは,特別な支援を必要とする子ども,なかでも発達障害の子どもにとっては,非常に不利益な状況に置かれているということだ。であるならば,とりあえず現状では,特別な支援を必要とする子どもは,学年が上がるにつれて「特別支援学級」在籍になるという道筋をつけておくのが,よいのではないかと思うのである。

関連記事:再々・「通常学級(普通学級)」か「特別支援学級」か

「普通学級」か「特別支援学級」か

2008-10-24 22:16:22 | 特別支援教育
 特別な支援を必要とする子どもは,「普通学級」に在籍させるべきか,それとも「特別支援学級」に在籍させるべきか。
 そんなもの障害の程度によるだろう,と言ってしまうとそれまでで,話は続かない。
 一般論として考えてみよう。
 私の主張はこうだ。
 低学年は「普通学級」で原則OK,学年が上がるにつれて「特別支援学級」での時間を多くさせよ。中学校からは,原則「特別支援学級」がよい。そして,現場にそういう道筋があらかじめ定まるようになれば,本人も保護者も見通しがもてていいと思う。
 例示して説明しよう。
 まず,知的に遅れのある子どもの場合。もちろん障害の程度によるから,すべてはケースバイケースであることを断っておくが,算数であれば,小学校1年生の繰り上がり繰り下がりでツマづいてしまうことが多い。あるいは,そこを何とかクリアしたとしても,2年生の九九が待っている。と,このあたりで,「普通学級」での授業理解は難しくなる。国語でいうと,まずは字を書くのに時間がかかる。もちろん漢字を覚えるのにも多大な時間がかかる。
 ということを考えれば,そういう子は,1年生の時から国語や算数の一斉授業は苦痛であろう。ならば,「特別支援学級」で個別支援が必要であろう。ただ,図工や体育や生活科や総合は,普通学級の子どもと一緒でもなんとかなるだろう。これが,私のいう「普通学級」で原則OKということだ。
 さて,学年があがると,いろんな教科で理解に時間がかかるようになる。例えば,音楽なら,合唱はいいけど,リコーダーあたりが難しいだろう。ならば,そういう時間は「特別支援学級」で学習したほうが子どもにはいいだろう。
 中学校にはいると,すべての教科で理解は難しくなるだろう。運動能力に障害がなれければ,体育科あたりは普通学級でいいかもしれないが,それにしても保健の授業は難しいだろう。であるなら,中学校では原則「特別支援学級」で,学校行事などで普通学級と子どもと参加という形態がいいだろう。そうであるなら,「特別支援学級」在籍という形をとるほうが自然であろう。
 次に,いわゆる発達障害の子どもの場合で考えよう。
 これも,知的に遅れがある子どもと場合と同様に,低学年だったら「普通学級」に在籍させて,45分間の授業がもたなそうな場合は,個別に対応するというのがいいだろう。 しかし,学年があがるにつれて,健常児との発達の差は顕著になっていくことは否めないことであるから,少しずつ「特別支援学級」での時間を増やしていくのがいいだろう。
 中学校入学時で,自閉的傾向がはっきりと見られるのであれば,「普通学級」での集団生活を無理して送らせる必要はないと思う。なぜなら,彼らの「困り感」というのは,間違いなく集団で生活することなのであるから,それを解消したいのであれば個別支援とせざるを得ないのである。ADHDやLDの場合も同様に,一斉授業では理解に時間がかかるのであれば,原則「特別支援学級」がいいだろう。
 その他,脳性まひなどの肢体不自由も同様で,低学年だったら多くの時間を「普通学級」で過ごせるであろうが,学年があがるにつれて,健常児とできないことが増えてゆくので,「特別支援学級」で学習するというのが,本人のニーズにあった学校生活だと思う。
 以上が,私の主張だ。
 私が,このようなことを主張するのは,次のことがらによる。
 まず,ひとつは,いわゆる統合教育,あるいは共生の思想という考え方。これは,思想としてはいいけど,何がなんでも現場でやっていくにはあまりに乱暴だろうと思うからである。小学校の低学年であれば,いいかもしれないが,中学校は明らかに無理があるのだ。
 最近では,普通学級に在籍している発達障害の子どもへの授業スキルについて,大いに議論されている。それは,普通学級の担任が,そういう子どもにキリキリさせられているという,切羽詰った事情があるからだろう。けれど,発達障害の子どもの立場でいえば,集団活動や一斉授業という形態自体,無理があるのだ。だから,担任が頑張ってスキルを磨いたとしても,それは,前提として無理があるなかでの頑張りなのだ。もちろん,そうはいうものの,現実にそういう子どもが在籍しているという切羽詰った事情があることは,わかっているのであるが…。
 子どもの「困り感」というのは,「普通学級」在籍という環境に要因があるのであれば,無理させて「普通学級」在籍させることが子どもにとって良いこととは思えない。担任も子どももシンドくなっている現状というのは,変えていったほうがいいのではないかと思うのだ。
 さらにいえば,中学校になると,そのような授業形態は,どうしようもなく難しくなっていき,デキる教師でないと担任はつとまらないようになる。私を含めた凡百の教師が担任すれば,学級崩壊はまぬがれたとしても,子どもの「困り感」を解消できるような学級経営は難しいであろう。
 とりあえずここまで。続きは次回。

関連記事:再々・「通常学級(普通学級)」か「特別支援学級」か

先入観を持って生徒に接せよ

2008-08-29 22:19:48 | 特別支援教育
■一般的に,先入観を持って子どもに接するのは良くないことと言われる。しかし,発達障害の教育に携わるものとしては,この生徒は何らかの発達の乱れを抱えているのではないか,という見立てのもと接することは必要なことと思う。
■特別支援教育に「グレーゾーン」などという,おぞましい差別用語があるように,健常児と支援が必要な子どものはっきりとした線引きは難しい。例えば,いわゆる知的障害児というのは,IQ69以下の子どもをさす。健常児というのは,IQ85以上を指すから,IQ70~84の子どもは,いわゆる「境界児」などと呼ばれたりする(「グレーゾーン」よりはまだマシな呼称だが,こちらも差別的な臭いがしますね)。また,子どもの知的の度合いも発達するから,成長と共にIQ値が上がったり下がったりすることも常識である。そうであるなら,通常学級に知的な遅れを伴っている子どもが在籍していることも十分に予想される。
■IQ値という,とりあえず数値化できる知的障害でもこうなのであるから,近年クローズアップされている発達障害の子どもだったら,障害の指標は医師の診断に依っているわけで,そうなるといよいよ教師の見立てが必要になると思われる。
■先入観というのは,つまりこういうことだ。どうも落ち着きがないなと思ったらADHD傾向を疑うということであり,視線を合わせて話をしないんだったらアスペルガー傾向を疑うということだ。そして,そういう傾向を持った子どもに対して,どのような対処ができるかということを,教師の見立てに基づいて考えよということだ。
■これまでの学校教育では,いわゆるADHD傾向の子どもや高機能自閉傾向の子どもへの二次障害を誘発していたことは否めない。すなわち,ADHD傾向の子どもはいつも叱責されることで無気力になったりいじめの対象になったり,高機能自閉傾向の子どもはコミュニケーション不全から不登校になったりということがあった。これらは,学校教育側の知識不足によるところが大だった。しかし,この状況は,現在ほぼ改善されたと思う。学級担任をはじめ,教師であるわれわれにはADHD傾向の子どもや自閉傾向の子どもへの支援についての知識は身に付いた。今後は,教師の見立てにもっと自信を持つことが必要ではないかと思っている。

母親殺しの記事から

2008-06-04 22:26:54 | 特別支援教育
■先月の下旬に,とある殺人事件があった。東京新宿で58歳の母親が,22歳の別居中の次男にマンションの駐輪場で撲殺されたという事件である。事件は,あまり大きな扱いではなかった。容疑者である次男の氏名は公表されなかった。ある新聞には次男は統合失調症であると報道していた。
■実は,この母親殺しの容疑者である次男のことを,私は知っている。特に,この次男が,中学生だった頃のことをよく知っている。ついでにいうと,過去にこのBlog上にもこの次男のことを話題にしたこともあった。そんなこともあって,この新聞報道から,しばらくの間,私は彼のことについてあれこれと思いを馳せていた。
■中学校卒業後は,彼とは一度も会っていない。だから,中学生だった当時の彼の様子を思い出すしかない。統合失調症と新聞報道で知ったあと,中学校の頃の彼の様子を思い出しながら,ああ,なるほどなと納得してしまった。今にして思うと,やっぱり中学生の当時から様子が少しおかしかった。若い女性教諭は,「あの子の女子をみる目つきがイヤだよね」と,彼の表情のおかしさを的確に報告していた。
■もちろん,当時,彼が統合失調症になるとか,母親を殺すとか,そんな予見を教師ができたはずもない。ただ,今にして思うと,中学生の頃には,すでに統合失調症になる予兆は十分に感じられたということである。けれど,そうだとしても,当時の私たちには何ができたであろうか。彼が,統合失調症になりそうだからといって,それを防ぐような指導ができたであろうか。せいぜい,保護者に精神科の受診を勧めるくらいだったろう。けど,それを保護者に伝えるのも,教師にとってはとてもヘヴィな仕事といえただろう。
■ただ,ここで強調しておきたいのは,普通一般の感覚として,あの子はおかしいなあという予兆は教師に共通してみられていたということである。そしてそれは,特別な支援を要する広汎性発達障害とは,明らかに違う目つきや言動であったということも,当時の記憶をたどる限りはそうだった。けれど,そんなことを思い出したところで,卒業し上京していった彼をどうすることもできなかった。
■新聞報道によれば,母親は彼から暴力を受けていたため,彼に居場所がわからないように引越しをしたとのこと。そして,彼は母親を探し,東京新宿の長女宅のマンションの駐車場で待ち伏せし,母親が長女宅を訪れたところを殺害したという。この後は,私の推測であるが,統合失調症と診断を受けていたということは,次男は入院をしていたのではなかったか。そして,おそらく彼は退院し,母親と暮らしていたものの,予後かんばしくなく,母親に暴力を振るったのだろう。母親としては,度重なる彼からの暴力に母親もまた精神が不安定になっていたと思われる。彼の母親の苦悩はいかばかりであったろう。そして,彼や母親の人生を思うとき,他に道はなかったのだろうかと考えてしまうのだ。
■このような結末を知り,あれこれ思いを馳せるだけで,結局のところ何もできなかった教師の私は,何ともいえない無力感にさいなまれるのであった。