憂太郎の教育Blog

教育に関する出来事を綴っています

「どのように」という「問い」のみが有効だ

2009-03-20 22:49:21 | 特別支援教育
 中学校国語科教師の堀裕嗣氏のBlogに〈問い〉をたてる力というタイトルの論考が掲載されている。
 これが,私にはどうにもよくわからない。
 それは,次のような論考だ。短いので,すべて引用する。

〈問い〉をたてる力
多くの人は〈問い〉をたてることができないようだ。特に「なぜ」という〈問い〉をたてることを苦手にしているようだ。
授業中立ち歩きをする子をする子がいる。ここで「どのように」という〈問い〉をたてるか、「なぜ」という〈問い〉をたてるかによって、その後の展開は大きく変わる。
多くの人は「どのように」という〈問い〉をたてる。どのようにすればあの子が立ち歩かなくなるのか、どのようにあの子を授業に引き込むか、どのようにあの子をおとなしくさせるか、こういう〈問い〉である。
こういう〈問い〉をたてると、自分は安全圏にいられる。「どのように」という〈問い〉があくまで「あの子」を変えるための〈問い〉であるからだ。
しかし、ひとたび、「なぜ、あの子は立ち歩くのか」という〈問い〉をたててみる。すると、考える対象が「あの子の行動」ではなく、「あの子の心象」「あの子の認識」「あの子の立場」といったものに向かっていく。そしてそれが見えないとき、「自分の心象」「自分の認識」「自分の立場」そして「自分の子どもを見る目」「自分の教師としての力量」といったものに向かわざるを得ない。これが教師を成長させる。
「なぜ」という〈問い〉をたてる力が必要である。

 一読,いかがだろうか。
 氏は,氏の主宰するセミナー等でも,このような問題意識をもとに発信・提案をしていると聞く。氏のなかでは,そこそこ深いテーマと思われる。
 けれど,特別支援の立場である私からすれば,どうにもわからない。なぜなら,私の立場からして,これは正反対の主張だからである。
 すなわち,少なくとも特別支援では,「なぜ」という「問い」は全く無効であり,「どのように」という「問い」のみが有効なのである。
 例を示そう。
 授業中立ち歩きをする子がいる。
 そのとき,「なぜ,あの子は立ち歩くのか」という「問い」をたててみる。
 「問い」の答えは,瞬時に出る。答えは,「ADHD」だから。なので,普通,こんな「問い」はそもそもたてない。だって,たてても不毛だから。考える対象を「あの子の心象」「あの子の認識」「あの子の立場」といったものに向かっていったって,全く意味をなさない。そんなことを一生懸命考えたところで,その子の「ADHD」はなおらない。
 なので,特別支援の立場は,常に「どのように」の「問い」をたてる。
 子どもが立ち歩くのは,45分なり50分の授業がモタないからだ。
 だから,まずは「どのようにすればあの子が立ち歩かなくなるのか」を考えて授業を組み立てる。
 そうしてうまくいけばいいけれど,そうはなかなかうまくいかない。だから,授業の立ち歩きが日本全国津々浦々の学校現場で問題となっている。
 最近では,教室に教師を複数配置したり(いわゆるチームティーチングだ),もたなくなったら,別室に子どもを移して個別授業をしたりして,他の子どもの学習を保障したりする方法がとられている。これらのやり方も,「どのように」の「問い」からたてられている策であろう。
 特別支援の立場で考えるならば,「なぜ」という「問い」は不毛である。
「なぜこの子は立ち歩くのか」「なぜこの子は学級になじめないのか」「なぜこの子は漢字を読めるのに書けないのか」「なぜこの子は算数のくり上がりからつまずくのか」「なぜこの子は100mを走ることができないのか」…。
 答えは瞬時に出る。
なぜなら,「ADHDだから」「アスペルガー症候群だから」「LDだから」「軽度の知的な遅れがあるから」「肢体不自由だから」…。
 これらは,どうしようもないことなのだ。だから,「なぜ」という「問い」はたてない。常に「さて,どうすべかなあ」と「問い」をたてて,彼らの「困り感」が解消されるような支援を考える。これが,特別支援担当の考え方だ。
 堀氏は,「多くの人は「どのように」という〈問い〉をたてる」と言う。けれど,これは極めて真っ当な「問い」のたて方だと思う。
 特別支援じゃなくたって,今,「立ち歩いている」子どもをなんとかしようと考えるのは当然であろう。氏は,「多くの人は〈問い〉をたてることができないようだ。特に「なぜ」という〈問い〉をたてることを苦手にしているようだ」と言うが,それは「問い」を立てる必要性を感じないからであろう。特に,「なぜ」という「問い」をたてることに,現場での有用性を感じないからではないか。
 だから,「なぜ」ではなく「どのように」という「問い」のたて方というのは,現場感覚に即した真っ当な「問い」のたて方だと思うし,もっといえば,このような「問い」のたて方が浸透すれば,特別な支援を必要とする子どもの理解に役立っていくことにもなるし,そうなれば教科経営や学級経営にも有益になると考える。
 もし,このような私の主張が「対症療法的」だというのであれば,全くその通りである。特別支援の教育活動というのは,ほぼすべて「対症療法的」なのです。なので,私のような常に「どのように」のみの「問い」で教育活動をやっている者からすれば,堀氏の主張は,どうにも「スコラ学的教育論議」とでも言うべきなるものにしか読めませんでした。