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憂太郎の教育Blog

教育に関する出来事を綴っています

再々・「通常学級(普通学級)」か「特別支援学級」か

2011-08-27 10:22:41 | 特別支援教育
「通常学級(普通学級)」か「特別支援学級」か。
 これは、比較的軽度の障害を持ったお子さんを持つ、保護者の方の共通の悩みといってよいであろう。
 我が子にとって、「通常学級」と「特別支援学級」のどちらに在籍させるのがより望ましいのか…。
 特に、小学校の就学時には、その判断が迫られる。「就学指導委員会」という自治体が設置している委員会の各種諸検査の結果、「特別支援学級が望ましい」という判定が出たときに、多くの保護者の方が、程度の差はあれ悩まれた経験があるのではないかと思う。

 お子さんを小学校就学させるとき、「通常学級」でいくか「特別支援学級」でいくかは、保護者にとっては重い決断になることは想像に難くない。
 この決断をするときには、いろんな情報が必要であろう。そこで、私のような教師の意見も判断の際の参考になるのではないかという思いから、これまで過去3回に渡って、このBlogで議論してきた。

 結論をいうと、子ども個々の障害のレベルが違うのであるから、「通常学級」がいいのか「特別支援学級」がいいのかは、一概にはいえないということ。であるから、たとえ就学指導委員会で「特別支援学級に適している」という結果がだされたとしても、保護者が、お子さんの障害のレベルを客観的に把握して、「通常学級」でもいけると判断したのであれば、その判断を信じてお子さんを「通常学級」に通わせればいいと思っている。
 ただ、個人的には、肢体不自由や弱視、難聴の子どもについては、障害の程度によるものの総論として「通常学級」に通った方がいいと思うし、知的、言語、情緒、病弱の子どもについては、やはり障害の程度によるが、総論として「特別支援学級」に通った方がいいとは思っている。とはいっても、繰り返しになるが、これらは障害の程度によって判断するべきものであるから、どちらに在籍にさせるのがふさわしいかは、子ども個々によって違うということである。

 この議論で、私が出している論点は「リスク」である。
 当事者である障害を持った子どもにとって、「通常学級」で生活するには、少なからずリスクが伴っているということは間違いがない。保護者からすれば、そうしたリスクを無くするのがインクルージョンの理念であるから、障害のある我が子だけにリスクが伴うのは不平等である、と主張することもできよう。それは、学校現場としても同様である。学校現場も、理念は理念として正しいと思っている。障害のある子どもも「通常学級」で生活するのが望ましいとは思っている。
 しかし、現在のわが国の学校教育では、そうした理念が浸透していることは違いないのであるが、現実として、どうしても障害のある子どもにとって、通常学級で生活するのは「リスク」が高いことが避けられないというのが現状なのである。
 つまり、今後、より障害児にとって「リスク」が軽減される方向に向かうことはあるだろうが、現在「リスク」が存在していることは事実なのだ。
 では、どういうことが障害を持った子どもに「リスク」となるのか。例えば、私のいう「リスク」とは、こういうことである。
 知的な遅れの伴う障害児にとって、「通常学級」で在籍することのリスクの大きなものは国語や算数の授業である。小学校入学してすぐに、こうした授業でつまずく。国語の書き取りや算数の計算ができない。授業についていけない。ここですでに、2次障害を生むリスクがある。小学校1年生では、なんとかついていけたとしても、学年が上がるにつれて学習も難しくなっていくから、「リスク」が軽減することはない。
 逆に、音楽や美術といった授業であれば、国語や算数ほど授業についていけないということもないだろうから、「通常学級」でもOKという場合が多い。
 知的な遅れがなくても、高機能自閉症児やADHDといった情緒に障害のある子どもについても「通常学級」では「リスク」が伴う。集団での学習に不適応を起しやすいのである。その結果、学習があまり伸びず、結果、劣等意識を持ちやすくなるという2次障害を持ってしまうことがある。

 一方、「特別支援学級」は、個々の子どものニーズに沿った教育をするというのが前提であるので、個に応じた指導が期待できる。学習では、個の障害特性に応じた教育計画を立て、個別指導が前提となっている。当然、「通常学級」とは学習の進み具合は、その子どもの障害の程度によって変わることになるから、学習についていけないことで生じる2次障害の出現の「リスク」が低い。
 ただし、教室では同年齢による集団生活を送ることが難しくなるので、集団でのかかわり合いによる成長を望むのは、ほとんど無理である。ただし、「通常学級」での集団生活を送ることで劣等意識が生じ、それに伴って起こる2次障害の出現は、「特別支援学級」に在籍しているぶんには低い。

 これらのほかにも、障害を持った子どもが「通常学級」に在籍するには、多くの「リスク」が伴うのであるが、それでもなお「通常学級」に通わせたいと思われる保護者の方も多いことだろう。
 そこで、私は、そういう保護者の方には、次のことを提案したい。
 それは、子どもの「リスク」を保護者が分担するという発想である。
 先ほどの学習での「リスク」でいえば、子どものつまずきを把握して、家庭で一緒に学習をする。読み取りの苦手な子どもには、教科書を拡大して、書き直したプリントをつくる。あるいは、一緒に学校に行って、子どもの横に座って、個別対応してもよい。このように、子どもの「リスク」を保護者が分担するのである。ただし、こうした対応は、仕事を持っていなくて育児に時間的な余裕のある保護者ではないと難しいこととは思うので、現実的ではないかもしれない。しかし、子どもの「通常学級」に在籍する「リスク」を保護者が分担をするという発想は、子どもにとってその有用性が大きいことを認識して欲しい。
 繰り返しになるが、障害をもった子どもが「リスク」を伴うというは不平等である、という主張は正しい。しかし、理念としては正しいが、実際はそうなっていないことから、現実的な対応としての提案である、ということについて誤解しないで欲しいと思う。

 なお、私が、子どもの「リスク」軽減にとって、保護者の対応でもっとも効果があるのが、「子どもの障害特性を関係する人に語ること」だと思っている。この実践例は、多くの保護者によって紹介されているが(例えば高橋和子『高機能自閉症児を育てる』小学館新書、2010年など)、これは学校現場では特に有効だと思っている。
 まずは、学級担任に丁寧に説明をして理解を求める。それから、保護者懇談会などを通じて、他の保護者に説明をして理解してもらうのである。できるのであれば、学級の子どもの前で、説明ができたらいちばんいい。けれど、これは保護者にとってはなかなか勇気がいることだろうとは思う。ほとんどの場合は、学級の子ども達への理解は担任を通して説明しているというのが現状であろう。しかし、私は、保護者が教室に出向いて、子ども達の前で我が子の障害特性について語ることのできた事例をいくつか知っている。ここまで保護者ができれば、子どもの「通常学級」で生活することの「リスク」は、かなり軽減できる。

 最後に、知的な遅れや情緒面で障害のある子どもにとって、「通常学級」か「特別支援学級」かの判断として、現時点で、私がもっとも適切であると考える提案をしたい。
 ただし、これも繰り返しになるが、個々の障害のレベルによって一概にはいえないので、総論としてとらえて欲しい。
 それは、小学校の入学時で迷っていて、保護者が子どもの「リスク」を分担する用意もあるのであれば、とりあえず「通常学級」在籍ということにして、子どもの成長を見守るという提案である。
 少なくとも、就学指導委員会で「特別支援学級に適している」という判定がなされたのであれば、その時点で、間違いなく何らかの障害を持っているのであるから、「通常学級」に在籍させるのであれば、「リスク」を伴うことは避けられないという認識を保護者は持つべきである。であるから、子どもが成長にするにつれて、「通常学級」で生活するのはシンドクなっていくであろうことも、あらかじめ想定しておいた方がよい。そのうえで、子どもの成長に応じて、どこかの時点で「特別支援学級」に移るというのが、子どもにとっては、2次障害が低い状況で学校生活を送れるのではないかと思っている。
「特別支援学級」に在籍となっても、近年は、「通常学級」に通級という形をとる。個別の支援が必要な国語や算数といった教科は「特別支援学級」で、そうではない音楽や体育や学級活動や給食や当番活動や学校行事は「通常学級」で、というパターンをとる。そして、障害の程度に応じて、比較的軽いのであれば「通常学級」で生活する時間を多くして、比較的障害が重いのであれば「特別支援学級」での時間を多くする。すべては、個々のニーズによって決めていくということである。

 なお、少ない事例ではあるが、保護者が子どもを「特別支援学級」に在籍させたいのだけれど、就学指導委員会でNOの判定をするという事例も存在している。
 この場合は、残念ながら保護者の願い通りにはならず、子どもは「通常学級」となる。この判定の背景には、子どもの障害程度のほかにも、行政の事情もあったりもするので、論点がずれる。けれど、こうした場合については、就学指導委員会や学校との関係を良好に保ちながら、子どもの成長に応じて、適宜、医療機関などで発達検査をすることで判定に持ち込むというのが現実的な対応といえる。

 最後に。
 保護者が最終的に「通常学級」に在籍するという判断をするにしても、何らかの障害をもったお子さんについては、学校の特別支援学級の教師とコンタクトをとるようにし、できれば「個別の指導計画」を作ってもらうのが望ましいだろう。また、「就学指導委員会」との関係を良好に保ち、医療と福祉のサービスについて情報を提供してもらうとよい。それから、これもまた保護者の判断によるのであるが、知的や情緒に障害のあるお子さんについて、私としては、小学校のうちから医療機関で検査を受けておき、早い段階で自治体に「療育手帳」の申請をするのが、子どもの将来を考えれば望ましいのではないかと思っている。

研究大会に参加をする

2011-07-29 14:16:46 | 特別支援教育
 先日、とある特別支援学校の研究大会に参加をした。
 そこには、普通中学校の教師も参加をしていて、その普通校の特別支援学級担当の教師より、次のような報告があった。
「市内には、約250人の特別支援学級の教師がいますが、その半数が期限付きです」
 ちょっと、会場は、どよめきました。

 恐らく、そんなこと、普通校の教師であれば体感として認識できているのだろうが、この研究大会は大半が特別支援学校の教師の集まりだったので、普通校の現状なんて、ほとほと皆さん知らないのである。

 私は、こと特別支援教育については、特別支援学校と特別支援学級の間に、同じ特別支援教育に携わっているにもかかわらず、深い断絶があると考えている。
 この深い断絶の原因は、ごく当たり前の話で、校種が違うことによる。
 小学校教師と中学校教師の間の情報交流の少なさの程度と同じく、特別支援学校教師と特別支援学級教師の間にも情報交流は少ない。これが校種の違いというものだ。ただ、私は、小学校と中学校の間でみられる、校種が違うがために生まれる現場の論理の違い、というものほど、特別支援学校と特別支援学級の間には、現場の論理の違いは小さいと思う。
 だから、今後、やり方によっては、この両者の深い断絶が多少は解消できるのではないかと思っている。
 では、どうやって、この断絶を解消するか。

 まず、特別支援学級の多くの教師の専門的な部分に関しての勉強不足をあげつらうことは簡単だ。
 それは、特別支援学級教師としてプライドをもって仕事している教師だって、特別支援学級でやっている特別支援教育の程度の低さは、課題と感じているハズである。
 けれど、これは、構造的な問題である。特別支援学級の担当の半分が期限付きという状態じゃあ、特別支援教育の程度があがるはずがない。
 もう一つは、特別支援学校の側から、特別支援学級に寄っていくという方法だ。
 特別支援学校での実践の蓄積を、特別支援学級へ流していくのである。あとは、どうやって寄っていくか、そのやり方ということになるのだろう。
 そんなことを研究大会に参加しながら考えていた。

インクルージョン(包括)教育の現状と、いくつかの提案~その2

2011-05-22 20:03:54 | 特別支援教育
・「インクルージョン」について
 「インクルージョン」とは、一人一人がユニークな存在であるという基本理念に基づき、差別・分別することなくすべての子どもを包含(インクルージョン)して通常の小・中学校のなかですべての子どもが学ぶという、教育分野の概念である。この概念のポイントは2つある。1つは、「一人一人がユニークな存在である」ということであり、もう1つは「通常の小・中学校のなかですべての子どもが学ぶ」ということである。この2つが「インクルージョン」の概念を理解するポイントといえる。
 このポイントの理解は、これまでの特殊教育の理念とされた「インテグレーション」と対比するとわかりやすいだろう。「インテグレーション」とは、そもそも障害児サイドからの発想であったということがいえる。すなわち、障害児を普通学級の中で統合(インテグレーション)する教育を目指すというのが、「インテグレーション」の基本理念であったのに対し、「インクージョン」は、障害のあるなしにかかわらず「一人一人がユニークな存在である」と規定しているというところに大きな違いがある。そして、そうしたすべての子どもたちのニーズに対応できるように、学校を変革していこうとする壮大な考え方が「インクルージョン」の概念には含まれているということである。
 この「インクルージョン」は、WHOが2001年に発表した「ICF」の障害概念と共に、現在の特別支援教育の根幹となっているものといえよう。

・「インクルージョン」についての見解
 「インクルージョン」は、今日の成熟社会を迎えたわが国の教育理念としては正当なものであり、異論を挟む余地はないものといえる。例えば、「インクルージョン」とは真逆の主張である「障害児と健常児は分離して学校教育をおこなうべきである」といような主張を考えたとき、これがいかに前時代的なものであるかが容易に理解できよう。
 ただし、「インクルージョン」にある、障害のあるなしにかかわらず、すべての子どものニーズに合わせた学校教育を目指すという考え方は、理念としては正当であるが、実際の教育現場で実践するためには、もっと精緻な議論を進めるべきであろうというのが、私の見解である。
 軽度の知的に遅れのある子どもや、高機能自閉症、あるいは肢体不自由の子どもが、通常学級で健常の子どもと学ぶことは可能であろうし、現在の教育現場では実際に実践されている。こうした実践は「インクルージョン」の理念が反映されているといえるであろう。しかし、重度の知的な遅れのある子どもや全盲の子どもや、脳性麻痺で全介護が必要とされる子どもが普通学級で生活するとなるとどうであろう。どんなに「インクルージョン」を推し進めようとも、恐らくは、このような子どもの学習権は保障されないであろう。これは、「インクルージョン」の理念が正しくないのではなく、「インクルージョン」のついての議論が深まっていないためなのだと思う。つまり、「インクルージョン」は、特別支援教育の根幹としては正当な理念であろうが、そこから派生する枝葉の部分、すなわち、特別支援教育の各論については、まだまだ議論の余地が多くあるだろうというのが、現時点での私の思うところである。
 例えば、現在の特別支援学校に在籍する多くの子どもたち、こうした重度の知的な遅れのある子どもたちの「インクルージョン」はどうあるべきか。今のところは、こうした子どもたちも、いずれは普通学級で通常の子どもたちと在籍させるのが望ましい、という議論しかされていない。果たして、それが本当に「インクルージョン」の理念に沿ったものなのか、という実際的な議論にはいまだ至っていないのが現状である。
 子ども一人一人のニーズに合わせた教育というのは、理念としては正当であるが、実際の実践は困難を極めるであろう。特に、特別支援学校に在籍している子どものニーズは、それこそ障害の程度によって異なっている。だからこそ、そのようなニーズに沿った形で特別支援学校が存在し、特別支援教育が進められているのである。そこでは、まさしく子ども一人一人のニーズに合わせた教育が行われているのであるが、こうした教育は「インクルージョン」ではないのか。すべての子どもを通常の小・中学校に在籍させるのが本当に「インクルージョン」の理念にかなうことなのか、といったような議論が今後はもっと深められるべきであろうと思う。
「インクルージョン」の理念について異論はないが、各論についてはまだまだ議論の余地がある、ということを述べた。特別支援教育がはじまって、まだ10年も経っていないことからして、そうした議論はこれからである、ということなのだろうが、ただ、そうとはいえ、現状の「インクルージョン」について、一向に議論が深まっていかないことは、やはり問題として提起するべきであろうと思う。
 今後、こうした状態が続くのであれば、せっかくの「インクルージョン」の理念も、現場実践に基づかないものとして、理念と実践が乖離していってしまうという危機をはらんでいるのではないかと考える。

インクルージョン(包括)教育の現状と、いくつかの提案~その1

2011-05-14 21:11:15 | 特別支援教育
 障害を持った子どもと健常の子どもが共に学ぶという、いわゆる「インクルージョン(包括)教育」という理念は、理念としては全く正しいので、これを批判するという言説は、今のところはない。
 ただ、理念としては正しいのだが、これを完全に現場で行うことは無理である。重度の知的な遅れのある子どもが通常の教室にいても、その子どもの学ぶ権利は全く保障されることはない。あるいは、全盲の子どもが通常の教室にいても、恐らくは聴覚による認知でしか学ぶ権利は保障されない。つまり、そういう子どもも含めた完全なインクルージョン教育というのは、現実には不可能である。
 ただし、こうした現実的に不可能なのにもかかわらず、理念を現実に無理矢理当てはめていこうという、イデオロギーは存在する。つまり、重度の知的な遅れのある子どもも、全盲の子どもも、健常の子どもと同じ教室で学ばせるべきであるという主張である。しかし、こういう主張は私に言わせれば、理念を実現することが目的的となってしまっているといういささか狂信的な主張といえ、このような主張はひたすら理念を押し通すだけで、恐らく建設的な議論にはならない。であるから、こうした一部のイデオロギーはここでは除外しよう。
 では、現状としてはどうなのかと言えば、このインクルージョン教育というのは理念としては全く正しいのだけど、されど、現場で完全に実現するには不可能であるといえ、結果的に今以上に浸透することはないだろうというのが、現在の学校現場での現状といえよう。
 特殊教育が特別支援教育に移行したのは、インクルーションの理念に基づいているだろう。しかし、それは、インクルーション教育の完成なのか。それは違うだろう。特殊教育から特別支援教育への移行というのは、インクルージョン教育の出発であろう。なぜなら、それまでインクルージョン教育の実践は行われていなかったのだから。特別支援教育に移行して、ここから、インクルージョンの実践が始まると考えるべきだろう。
 では、そうやって出発したインクルージョン教育の実践は、現在、どこまで進んだか。私見を述べれば、それは出発から一向に進んでいないというのが現状ではないか。
 この進んでいない現状というのを考えるなら、インクルージョン教育という理念は、理念として正しいには違いないのだが、相当粗い理念でもあるということだ。もちろん、理念というのはそういうものだという主張は成り立つ。しかし、そうであればなおさら、批判を含めて、インクルージョン教育について多くの議論がなされるべきではないか。現状は、そうした議論が特別支援教育の現場を変化せしめるようにはなっていない。
 私は、インクルージョン教育についての言説に触れるたびに、どうも知的怠惰性というのを感じずにはいられないのである。
(この話題は、多分次回に続く)

特別支援学校公開研でのひとコマ

2011-02-18 00:11:35 | 特別支援教育
 ウチの学校(とある特別支援学校)の公開研究会でのこと。
 参加された公立中学校の特別支援学級の教師が、公開した中学部の作業学習について質問をした。
「このような長い時間繰り返しおこなう作業というのは、私の受け持ちの生徒にとっては難しいと思うのですが、どういう特性の生徒に向いていますか?」
 この問いに対し、授業者は向いている生徒の特性を述べたあと、次のように聞き返した。
「先生の受け持ちの支援学級は何ですか?」
「情緒学級です」
「ああ、情緒の生徒だったら、こういう作業は向いていますよ」
「ああ…そうですか…?」

 このやりとり、このようにして噛み合わずに終わった。さて、どうして噛み合わなかったかわかるだろうか。

 この噛み合わなかった原因は「情緒学級」にある。
 質問した特別支援学級の教師の受け持ちの生徒は、ADHD傾向の多動の生徒なのだ。だから、長時間の繰り返しは難しいと教師は思ったのだ。
 一方、授業者である養護学校の教師は、「情緒学級」と聞いて、自閉傾向の子どものいる学級と早合点したのだ。だから、長時間の繰り返しは向いていると発言したのである。
 早合点したウチの学校の授業者の側が、悪いといえばそうなのだが、養護学校の教師が「情緒=自閉」と考えたのはベテランであればなおさらである。養護学校の用語としては、それが一般的だからだ。
 けれど現在、普通中学校の特別支援学級の「情緒」には、知的な遅れがない生徒で、特別な支援を必要とする生徒が在籍しているわけだから、高機能自閉だけではなく、ADHD傾向の生徒もいることには違いがないのである。
 そんなやりとりを聞きながら私は、やはり、「情緒」で生徒を括るのが混乱の元なんだろうなあと思った。

 現在、特別支援学級の区分は「知的」「情緒」「弱視」「難聴」「肢体不自由」「病弱」「言語」の7区分となっている。
 一方、特別支援学校はというと、「知的」「盲」「聾」「肢体不自由」「病弱」という従来の区分をやめて(すなわち、養護学校、盲学校、聾学校という名称をやめて)、等しく「特別支援学校」という名称に統一をした。その結果、重度の障害を持った子どもや、重複の子どもも、最寄りの特別支援学校に通学ができるようになりつつある。これは、特別支援教育の理念を反映しているものであり、今後は、さらにそのようになっていくと思われる。
 このような特別支援教育の理念からみて、特別支援学級の現行の7区分というのは、時代にそぐわないものといえよう。
 しかし、だからといって、特別支援学級の7区分をやめた方がいいという意見は学校サイドからは出てこないだろうと思う。

 それは、教職員定数の関係による。特別支援学級というのは学年編成で学級の数が決まるのではなく、学級区分によって学級数が決まるのであるから、この区分を無くしてしまうと、特別支援学級数は現行よりも大幅に減少するのは間違いがないわけで、学級数が減れば、それだけ教員の数も減ることになるから、こうした意見は学校サイドからは出るわけがないということになるのだ。
 ちなみに、特別支援学校も学級編成というのは同様で、学年ではなく障害区分(知的な特別支援学校だったら「知的学級」と「重複学級」の区分がある)によってなされている。

 そういうわけで、今後も、同じ特別支援教育に携わっていながらも、特別支援学級教員と特別支援学校教員の間にある、今回の「情緒」の障害概念の食い違いのようなことが、特別支援教育の現場では頻繁起こるのだろうなあと思ったのでありました。

「集団」と「個」の発想の違いなのだ

2010-05-14 06:10:38 | 特別支援教育
 普通学校と特別別支援学校の違いというのを、ここのところずーっと考えている。
 いずれ、きちんとした形でまとめようと思っているのだけど、どうもまとまってくれない。
 なので、今回もまた断片的な形で、だらだらと書いていこうと思う。

 普通学校と特別支援学校の違い。
 私の主張ははっきりしている。それは、3年前に普通学級担任をやめて、特別支援学級をはじめて受け持った1学期に直感的に感じたことで、今でも根本は変わらない。
 すなわちそれは、「集団」と「個」の違いなのだ。
 このBlogにも特別支援教育について主張した、最初期の文章にその内容がある(タイトルは 「個別の指導計画」から通常教育を考えると… 2007.6. 興味のある人はどうぞ)。
 つまり、普通学校は「集団」の教育で、特別支援学校は「個」の教育ということなのだ。
 こいつが、私がずーっと変わらず感じている根本の違いである。
 そこから、枝葉な違いが様々にあるのではないかということだ。
 そして、私は13年の間、中学校で「集団」教育に従事してきたから、どうしても現場での発想が、「集団」からのものになってしまう。特別支援学校での「個」の教育というのに、身のこなし方のレベルでしっくりきていないのだ。日常生活の指導の面でとくに、普通中学校での「集団」教育的発想が顔を出す。そして、ああいけない、そのやり方は、特別支援学校では通用しないんだ、と思い直したりするのであった。

 以下は、この「集団」と「個」の違いについての断片。
 今回は、教育課程の違いから。ここにも、「集団」からの発想、「個」からの発想が顔を出していると私は思う。
 まずは普通学校。普通学校の教育課程は、どんな構成になっている?
 そんなに難しい問題ではない。はい、正解は「各教科」「道徳」「特別活動」「総合的な学習の時間」。これが「領域」と呼ばれているやつでしたね。この「領域」別に指導内容があって、そこで授業時数が割り振られていてということでした。国語とか数学とかいう教科はもちろん「各教科」のひとつですね。
 一方、特別支援学校の場合はどうなっているかというと、「各教科」「道徳」「特別活動」「総合的な学習の時間」に「自立活動」がプラスされている。この「自立活動」がプラスされているというのは、あまり重要じゃあない。重要なのは、これら領域・教科を「合わせた指導」ができるということ(ただし、厳密なことをいうと、「総合的な学習の時間」については合わせてはいけない)。こいつが、特別支援学校の教育課程の大きな特徴。
 つまり、「領域」や「各教科」に分かれているはずの、国語や数学や道徳や特別活動を「合わせた」授業を構成してよい、というのが特別支援学校の教育課程なのである。
 この「教科・領域を合わせた指導」というのが、特別支援教育のポイントであり、普通学校と特別支援学校の大きな違いだと私は思うのである。
 それは、この両者の教育課程を編成する発想の違いといっていいだろう。
 普通学校の教育課程の編成は、教育内容がはじめにある。そこから、子どもの発達段階にあわせて内容を編成するわけだ。あんまり、小難しい話はしたくないのでサラッといくけど、スコープとかシークエンスとかいうやつだ。そこには、教えるべき内容は確固としてある。
 一方、特別支援学校の場合はどうかというと、こちらは生徒の障害特性というのがある。生徒の障害の程度は生徒にとってばらばらだ。
 一口に知的な遅れといったって、生徒によって程度が違う。一般に、軽い重いで表現する。そして、その子に合った指導というのを考える。それから、特別支援学校では、生徒が自立的な生活ができるようになることを重要とする。生活中心主義なのである。具体的にいえば、筆算よりも衣類の着脱ができるようにする、とか、一人でバスに乗れるようにする、とか、困ったときに「お願いします」ができる(言える、ではない)とか、そういうことだ。それらを、授業にしっかりと個々の障害特性に合わせて組み入れていくのだ。
 であるから、生徒それぞれに身に付けさせたい指導上の目標が違ってきているので、どうしても普通学校的な発想の教育課程には収まりきれないのである。そこから、「合わせた指導」なる、合科指導とは全然意味合いの違う、教育課程が発想されてきているのである。そして、私は、このような教育課程から、特別支援教育が「個」の教育であると、思わずにはいられないのでありました


こんな市長もいるんだなあ…

2009-12-04 19:02:57 | 特別支援教育
 世の中には「建前」と「本音」がある。「建前」も「本音」もどちらも世の中には必要なものであり、この2つをきちんと使い分けることのできるのが、普通の社会人ということになる。この「建前」と「本音」、前者を公的言語、後者を私的言語と言い換えてもあながち間違いではないだろう。
 すなわち、公的な場では「建前」の言葉が行き交い、私的な場では「本音」の言葉が行き交う。公的な場で「本音」を漏らしたり、他方、私的な場でも「建前」を言う人は、やはりバランス感覚に欠けている人間と思われてもしょうがないだろう。

 「重い話題」というのがある。「そのハナシ、重いなあ」なんて言う、あれである。
 この「重い話題」というのは、私的な不幸な話題だったり、秘密めいた話題だったりするわけであるが、日常的な話題にはそぐわない類のものにも使われよう。例えば、哲学的な問いをはらんだ話題。これも「重い話題」に違いない。「人はなぜ生きるか」「過去とは何か」「偶然とは何をさすか」…。
 こういう「重い話題」の場合、主張する者の強度も問われよう。つまり、そういう「重い話題」に耐えうる思想的な強度がないのに、ただ単に例えば「人はなぜ生きるか」なんてことを闇雲に主張されても、受ける側は困惑しよう。受ける側に困惑されるだけならまだ可愛いものだが、ときには嘲笑の的になったり、あるいは、多方面から反感を受けるということにもなる。これもやはり、社会人としてバランス感覚に欠けていよう。

 さてさて、2つのマエフリをしたのだけど、私が上記のことを思ったのは、次のニュースを読んでのことだ。
 以下、12月3日付ヨミウリオンラインからのコピペ

鹿児島県阿久根市の竹原信一市長(50)が自身のブログ(日記形式のホームページ)に「高度医療が障害者を生き残らせている」などと、障害者の出生を否定するような独自の主張を展開している。
障害者団体は反発、市議会でも追及の動きが出るなど波紋が広がっている。
ブログは11月8日付。深刻化する医師不足への対応策として、勤務医の給料を引き上げるべきだとの議論に対し、「医者業界の金持ちが増えるだけのこと。医者を大量生産してしまえば問題は解決する。全(すべ)ての医者に最高度の技術を求める必要はない」と批判。
そして、「高度な医療技術のおかげ」で機能障害を持ち、昔の医療環境であれば生存が難しい障害児を「生き残らせている」などと述べ、「『生まれる事は喜びで、死は忌むべき事』というのは間違いだ」と主張している。
知的障害者の家族でつくる「全日本手をつなぐ育成会」(本部・東京、約30万人)の大久保常明・常務理事は「人類繁栄のため、優れた子孫だけを残そうとするかつての優生思想そのもの。命の重さを踏みにじり、公人の意見とは思えない」と批判。
阿久根市身体障害者協会(約1050人)の桑原祐示会長も「差別意識も甚だしい」と反発、役員会で対応を協議し始めた。
同市議会の木下孝行市議も市長に説明と謝罪を求め、14日から始まる市議会一般質問で追及する。
竹原市長は取材に対し、「養護学校に勤めている人から聞いた情報をそのまま書いた。事実と思う。障害者を死なせろとかいう話ではない」と説明している。

 以下、私の意見。
 その1。公的な場では、公的な言動をするのが、社会人としてのたしなみである。それは、市長にかかわらず、普通の社会人なら皆そうしている。今回の阿久根市長の発言は、公的な言動を大きく逸脱しているといえる。この市長、これまでもブログで奔放なことをやっているようで(今回の日記も、今現在削除はされていない。普通に読めた)、こうした社会人として逸脱した言動をすることで、阿久根市政への住民世論を喚起したい目論見もあるようである。ただ、それにしてもこのようなブログを書き連ねる人物が選挙で当選しているという現実は、私には受け入れがたい。恐るべし、阿久根市民。
 それはともかく、こういう発言は「本音」の範疇に入るもので、公人がブログで書き連ねるものではない。いくらブログでは奔放なことを書き連ねる市長だって、障害者団体の前ではこういう「本音」の発言はしないだろうし、議会答弁でもしないだろう。
 ここに、市長が確信犯的にブログを使用していながらも、なおかつブログの公的性格をわかっていないという、悲しき現実がある。
 やはり、こういう発言を公的な場で書き連ねてしまうというのは、社会人としてバランス感覚を欠いているといわれても仕方あるまい。

 その2。しかしながら、この市長の発言。これは、哲学的な問いとしては実に重い問いだと私は思う。人間の死生観や倫理観を内包している重い問いだ。そして、誤解を恐れずにいれば、これはある一面においては真実であるという仮説も哲学的議論としては成り立つ、重要な問いでもあるのだ。
 けれど、そんな思想的な強度は、このブログの文面からは全く感じられない。
 養護学校に勤めている人から聞いたなどと、格好の悪い言い訳をし、養護学校教職員からも大きく反感を買うという始末である。
 こんな重い話題をあっけらかんと書き連ねる思想的な軽さについて、私は嘲笑や反感というより、怒りを感じる。それは、障害者団体が反発する動機とは違う。「重い話題」に耐えうる思想的強度の感じられない人間が、平気で「重い話題」をこちら側に振るという、社会人としてバランス感覚に欠ける行為に対しての怒りである。
 障害者に関する議論をすることは大いに結構だ。しかし、少し議論を深めようとするとすぐに障害者差別にぶつかる。私のような軽薄な者ですら、それは何度も経験している。しかし、より議論を深めたいのであれば、障害者を差別することは承知の上での思想的強度を持ちえる覚悟が必要だ。そんな覚悟のない人間が、軽い気持ちでブログで思いつくままに書き連ねていいわけがないのである。

 そういうわけで、この阿久根市長は、二重に罪深い人間だと私は思うのだが、くどいようだが、こういう人物にもかかわらず選挙で当選して市長になっているのである。恐るべし、阿久根市民。

再び「通常学級」か「特別支援学級」か

2009-11-27 22:39:07 | 特別支援教育
 私は昨年度まで普通公立中学校の特別支援学級の担当だったから、特別な支援を必要とするいわゆる「発達障害」の生徒が、通常学級に在籍することに反対だった。それは、特別な支援を必要とする生徒のために、私のような担当教員が存在しているのであるから、そういう生徒が通常学級に在籍するんだったら、私の存在理由がないではないか、という原理原則論的理由による。特別な支援を必要とする生徒が、特別な支援を必要とする生徒のための教室ではなく、普通教室に在籍するとは、どういうこっちゃ、ということ。
 そして、現実的に、特別な支援を必要とする生徒が通常学級で在籍するには、現時点でのわが国の教育環境を見る限り、それはあまりにリスクが高いだろうし、それが証拠に全国で多くの二次障害の報告なされていることからも明らかであろうというものである。
 ただ、私のような立場はマイノリティだった。
 私が、特別支援教員担当として原理原則論を声高に主張したとしても、目の前の現実は原理原則で動いちゃあいなかった。目の前の現実として、多くの特別な支援を必要とする生徒は、特別支援学級ではなく、通常学級に在籍しているのであった。私の主張、ここに潰えり。サヨウナラ。
 …と、なってしまうと、話はここで終わってしまうので、私も原理原則論はおいといて、現実的対処法について述べていくことにしよう。
 特別な支援を必要とする生徒が、普通学級に在籍しているという現実。
 それは、統合教育なり共生の思想なんていう美しい教育観の原理原則論からすればいいことなのだろうけど、現実の教室は凄惨を極める。
 学級崩壊や崩壊寸前のなか、教師は精神的にギリギリの状態まで追いつめられ、多くの善良なる学級成員である生徒らの学習権は保障されず生徒はストレスをためこみ、いじめがはびこり、不登校生徒も多数発生するという状況となる。なんて、さすがにそこまではオーバーとしても、教師はリスクを抱え込んでいる状況であるということは間違いない。
 教師にとって、特別な支援を必要する生徒が在籍している学級経営は、やはり大変なのだ。ただ、現実は、もう少し進んで、今ではそういう生徒が学級に在籍しているのは当たり前の風景になっているようである。ADHDやLDやアスペルガーや高機能自閉の生徒が在籍するのは当たり前、それを前提として学級経営にあたるというのが、ここ10年による教師の学級を受け持つにあたっての状況の変化であろう。ただ、そのように変化しようとも、リスクを伴っていることには変わりはないのである。
 では、次に視点を変えてみよう。
 特別な支援を必要とする生徒、この生徒にとって通常学級に在籍するというのは、どうなのだろう。
 これは、教師であれば当たり前の現実だと思うが、それはADHDでもLDでもいいけれど、基本的に彼らは、一斉授業は厳しいのだ。みんなと一緒の場、すなわちそれは普通教室なのだけど、そこで学習理解をするというのはさまざまな困難を伴っている。だから、ADHDやLDの生徒にとってみれば、できればみんなと一緒に授業は受けたくないのである。高機能自閉の生徒は、それに加えて、教室のような同調圧力が強い集団で生活していくことに対しても苦痛を伴う。その苦痛から逃れるために、最悪の場合、中学生であれば不登校、卒業後であれば引きこもりというかたちで、社会そのもの忌避することにもなる。
 そうしてみると、中学校段階で特別な支援を必要とする生徒が普通学級に在籍するというのは、生徒本人にとってリスクなのである。
 教師はここをきちんと押さえなくてはならない。つまり、生徒自身も、普通学級には在籍したくないのである。私は、特別な支援が必要とする生徒が、通常学級でモタなくなって苦しんでいる状況についてかつてこのBlogで書いた。それは、実に可哀相なことだと思う。
 じゃあ、特別な支援を必要とする生徒が、通常学級に在籍しているという現実、これを現実たらしめている意向はなにか。
 教師ではない。担任は、リスクを抱えて学級経営にあたっている。特別支援担当も、そのために存在している。
 生徒でもない。本人も通常学級に在籍しているのはリスクなのだ。
 行政でもない。行政は、発達障害児のために特殊学級を改め特別支援学級を整備した。
 じゃあ、だれか?
 それは、保護者である。
 親の願いが、特別な支援を必要とする生徒を通常学級に在籍している、それを現実たらしめているものなのだと思う。
 では、そのような保護者の願いについて、特別支援教育はどう対処すべきか。
 と、ここまで主張したけれど、この議論は非常にデリケートな要素をはらんでいるので、一度、ここで切って、また今度議論をし直すとしよう。(いつになるかは、わからない…)。

関連記事:再々・「通常学級(普通学級)」か「特別支援学級」か
 

「発達障害」の最近の議論より思うこと~その2

2009-09-18 22:57:22 | 特別支援教育
 前回の続きである。
「発達障害」をめぐる議論として、ADHDやLDといった診断名にこだわるよりも、その子どもの実態をよく知り、子どもの発達の特性に応じた指導を考えるといった考えが主流になっているというようなことを述べた。
 そして、私としては、そのような議論の変化は、これまで10年にわたる「発達障害」に関する教育現場での認識が否定されたりすることではなく、新たな議論のステップに進んでいるのではないかということを主張した。
 さて、このような議論より私が思うのは、いかにも「教師らしいメンタリティ」で議論が進められていくなあということである。私のいう「教師らしいメンタリティ」とは、ストイックというか誠実というかガンバリズムというか、そういう類のメンタリティである。
 以下、そのことについて話をしたい。

 文科省がいわゆる「発達障害」の疑いのある子どもが6.5%という調査結果を出した頃、だから、えーと、今から8年くらい前でしょうか、勤務校の教頭との雑談のなかで、いみじくも教頭は私に言った。
「今は、こういう診断名が出てくるいい時代になった。私の頃は、そんな用語がなかったもの」
 これは、私にとってとても意外な、教頭の本音ともいえる言葉だったので、今でも「発達障害」を考える上で思い出す。
 この教頭の発言、何を言っているがわかるだろうか。
 つまり、教頭が若い頃にも(というか、「発達障害」という概念が現場にやってくるまでは)、知的な遅れはないけど、どうも発達上のおかしな子どもというのは、当然教室にいた。それは、6.5%なのかどうかはわからないけど、間違いなくいた。けど、そういう子どもも、みんなと同じように学習指導をして生活指導をした。それが、うまくいった場合もあったろうけど、ほとんどの場合、学級経営上、うまくいかなかったことだろう。一方の子どもにとっても、先生に指導されてばかりで、多かれ少なかれ劣等感を持ったことだろう(現在で言うところの「二次障害」だ)。
 けれど、当時はそうやって指導するしかなかったのである。はじめから、この子は発達上の問題があると見切って指導はできなかったのである(もちろん、結果として、この子は他の健常の子とは違うから、違うように接するということはあったろう。けれど、それは。現在「発達障害」という概念を知っていて、発達上の問題があるから他の子とは違う指導をする、ということとは決定的に異なる)。これが、教頭の言う「いい時代になった」という言葉の真意である。
 今は、そういう子どもは、ADHDとかLDとか高機能自閉であるという診断を下してもらえるので、健常の子とは違うという認識のもと学級経営を行えるようになったということだ。
 そうかあ、やはり先達の話は深いなあ、と私はこの教頭とのやりとりを心に刻んだわけである。
 私も、ADHDとかLDとか高機能自閉とかの診断を下すことは、または、そういう見立てのもとで、その子に接するのは、今でも有効だと思っている。ちょうど、去年の今頃、このBlogにも書いた(タイトルは「先入観を持って子どもに接せよ」。だいたい、こういうBlogを2年以上も続けていると、すでに一通りの教育の問題は取り上げてしまっているのです)。
 私は、発達上の問題がみられる子どもについては、教師が「この子はADHDじゃあないか」とか「もしかしたらLDじゃないか」とかという「先入観」を持つのは、何も悪いことじゃないし、そういう「先入観」をもてるのは、教育の専門家である教師の役割とも思うのだ。
 そして、そのような見立てをもって教育活動にあたれるようになったというのが、ここ10年間の教育現場の大きな進歩であるということは、前回述べた通りである。
 けれど、それで私のような不埒な教師はメデタシメデタシと思うのだけれど、普通一般の教師にはそうはならないのである。
 それは、ADHDとかLDとかという見立てというのは、子どもをマイナスとして見立ててしまうわけで、そのような見立てに対する忌避が教師の無意識の内にあるのではないかと思うのである。教師の素朴なメンタリティとして、マイナスの先入観を持って子どもに接したくないのである。
 なので、ADHDだとかLDだとかそんなマイナスの先入観を持たず、その子の発達上の特性として、学級経営にあたりましょうという方向に議論が進んでいくのだと思う。
 けれど、それは結局のところ学級担任がすべてを抱えるという帰結となる。
 教師としては、自分が頑張って「この子をなんとかしたい」という思いで学級経営にあたるわけだが、どうして、そんなにストイックな心性で学級経営をしようとするのだろうと思わずにいられない。
 うまくいけばそれでいいけど、うまくいかないときには、教師もボロボロになるし、子どもも結局救われず、適切な指導を受けられず二次障害だけが増幅していくということにもなりかねないのである。けれど、多くの教師はそこまで思いを巡らそうとしない。「自分が頑張ってこの子をなんとかしよう。この子を救えないのは、自分の力量不足だからだ」と誠実にストイックにガンバリズムで学級経営にあたろうとするのである。
 そうじゃなくて、ADHDやLDといったレッテルをまずは張って、その上で、その子に応じた適切な指導法を考えたらいいのになあと不埒な教師の私は思うのでありました。
(ちなみに、このあたりの議論はやっぱり過去にこのBlogでしています。タイトルは「普通学級か特別支援学級か」です。よかったらどうぞ)。

「発達障害」の最近の議論より思うこと~その1

2009-09-11 12:09:32 | 特別支援教育
 いわゆる「発達障害」をめぐる最近の議論をみていると、「レッテル張りはそろそろやめよ」というのが主流になっているようだ。つまり、何らかの発達上の問題がみられる子どもに対して、「この子はADHDじゃないのか?」といったレッテル張りをして指導にあたるのではなく、その子の実態をとらえて、その子にあった指導を考えなさいということだ。そこには、現在もなお、ADHDとかLDとかの診断名でその子をとらえて、学習指導や生活指導を進めている学校現場に対して、あたかも批判的なニュアンスが込められているかのようでもある。
 ADHDやLDや高機能自閉症といった診断をひっくるめた「発達障害(当初は軽度発達障害)」という用語が教育界に見聞されるようになって、だいたい10年になろうか。現在、これらの概念は、もうすっかり現場に定着したといっていいだろう。
 換言するなら、これらの概念が現場に定着するまでに10年かかったということ。この現在にいたる10年間、教育界では、「ADHDって何?」とか、「高機能自閉症と自閉症スペクトラムの違いは?」とか、「広汎性発達障害のカテゴリーは?」とか、さまざまに議論され、そういうなか現場に「発達障害」という概念が浸透していったのだ。現場にいる一人としていえるのは、10年というのは、早いか遅いかの議論はおいておくとして、浸透するにはそれだけの時間が必要だったということであり、その間でなされた議論というのもやはり必要であったということだ。
 なので、最近の主流の「もう、子どもにADHDだとかLDだとかのレッテル張りはやめて、その子の発達特性に応じた指導を」なんていう議論というのは、これまでの議論を批判的にみるとか、否定するとかということではなく、新しいステップに議論が移ったととらえるのがよいと私は思っているのだが、どうなのだろうね。

 もう少し、詳しく述べることにしよう。
 学校現場に、ADHDとかLDとか高機能自閉症とか、それまで現場で知られちゃあいなかった用語がやって来た頃。さっきも言ったけど、それはだいたい10年前。その時、教師の素朴な対応は、「それって一体何なの?」ということだ。これは、当然のことであろう。「別に、ADHDなんて知らなくても、その子の発達特性に応じた教育を行えばいい」なんて言ったときには、勉強不足を嘲笑されたろう。
 当時、発達に問題を抱えている子の発達特性に応じた指導について、現場は間違いなく何も知らなかったのである。
 だから、教師は勉強をした。そして、ADHDにはこういう指導を、LDにはこういう指導を、なんていう事例を知り、目の前にいる発達上の問題を抱えている子どもに指導を進めたわけである。試行錯誤という言葉がふさわしいかどうかはわからないけど、とにかく熱心な教師は、目の前にいる発達に何らかの問題がみられる子どもについて、ADHDやLDや高機能自閉やアスペルガーといった見立てをしたり、あるいはそういう診断にもとづき、その子にふさわしい指導をあれこれとやってみたのだ。
 診断するのは医師である。けど、診断名があろうとなかろうと、教育現場では、教師はそういう見立てができるようになったのだ。これは、教育現場の進歩である。それまでは、学級経営や学習指導で困難を抱えている子に対して、問題の多い子どもとして指導していたわけであるが、それが「発達障害」という概念のもとで指導にあたることができるようになったのだ。私は、このことが「発達障害」を議論するうえで欠かせない論点だと思っている。
 では、なぜ、最近「レッテル張りをやめよ」という主張が主流になっていているのか?
 これは、私が思うに、10年を経過して「発達障害」でくくられるADHDやLDとか高機能自閉とかという診断が、うまくカテゴライズできなかったということに尽きるんじゃないだろうか。
 結局、研究者がいろいろな知見をもってして、ADHDはこうだ、とかLDとはこういうことだとか議論したけど、そもそも健常との線引きは難しかった(だから、グレーゾーンなんて言う言葉でごまかしていた)。それに、ADHDとLDの違いなんてのも、実は、教育現場ではあまり有効じゃなかった。高機能自閉傾向の子とADHD傾向の子は、確かに特性の違いはあると思うが、そのどちらも併せ持つ子どもなんてのも現場にいれば普通に存在している。これは、常識。ましてや、自閉症スペクトラムとアスペルガーの違いを議論することは、教育現場にはちっとも有益じゃあなかった。
 そういうことに、10年たって気が付いたのだ。いろいろ議論したけど、ADHDもLDも自閉症もアスペルガーもはっきりとしなかったのだ。だから、そういうレッテル張りはもうやめて、これからは、その子の発達上の特性から、指導を考えなさいということなのじゃないか。
 なので、この先は、ADHDとかLDとかアスペルガーとか高機能自閉症とかの用語はもしかしたら、教育界では使われなくなるかも知れない。「発達障害」なんてのも、「発達上の問題」というような用語に変えられるかもしれない。
 これが、私の、最近の「発達障害」に関する議論より思うことである。