雑談の達人

初対面の人と下らないことで適当に話を合わせるという軽薄な技術―これがコミュニケーション能力とよばれるものらしい―を求めて

下々の者が「俺らは社会への影響力ゼロだもんね」と割り切ると、上々の者は非常に困るんだな

2013年03月12日 | その他の雑談
「選挙では必ず投票に行きましょう」とか、「自分の意見を持ちましょう」とか、「身近な問題に関心を持ちましょう」とか、「皆で世の中を少しでも良い方に変えましょう」とか、白々しいにもほどがあるご忠告をとかく口にしたがる御人が後を絶たない。しかも、そういう御人は大概、社会で一定のステータスを確保している幸せな方々ばかりである。

すでに中年になっても何の権限もなく、めぼしい資産もなく、ささやかな自由もない筆者は、「社会的影響力ゼロ状態」の自分をあるがままに受入れる境地に達しており、そうした白々しいセリフは、恰も流れゆく風景の如く、筆者の意識に上ることさえないまま、空気の振動という物理的現象としてやがて静寂へと収束していく。筆者のような下々の人間は、遅かれ早かれこんな境地に達し、意識しようとしまいと皆同様に、日々をあきらめつつ、いい加減適当に、恙無くやり過ごしているものだ。

だが不思議なことに、上々(?)の方々は、そんな下々の者の生き方が本当に気に食わないようだ。自分たちのフレンドリーな忠告が馬耳東風だと気付くと、松岡修造のように「あきらめるな!!!」と暑苦しく励ましてくるぐらいならまだしも、時には罵声さえ浴びせて来ることもある。やれ「無責任」だの、「敗北主義」だの、「利己主義」だのといった具合だ。ゴミ同然の下々の連中など無視して、ハイソでセレブで2.0(笑)な方々だけで盛り上がっていれば良いではないか、と思うのだが、是が非でも下々の者を鼓舞、叱咤激励したいらしい。

そんな上々の方々の考えることは、頭の悪い筆者には理解しかねるものだと思っていたが、最近ようやく理由が分かった。世の中で一定の影響力を持っている方々というのは、「自分は社会に対して何の影響も及ぼすことができない」と割り切っている人間が大嫌いなのだ。その理由は少々逆説的だが、影響力を持っているはずの上々の人は、影響力ゼロを割り切っている人に対して、全く何の影響も及ぼすことができないからなのだ。

「自分は社会に何の影響も与えられない」という考えの持ち主は、あらゆる外部の変化を不変の「所与」として行動する。そこに、自分の意志や力が反映されることは絶対にないことを予め理解している。そのため、影響力のある方々と同じ土俵に上がることは決してないのである。結果、影響力のある人間が勝手に決めたことに対しては、まともに向き合おうとせず、「抜け道」「盲点」「逃げ方」を常に探すようになるのである。立派な方々にとって、こういう下々の者の行動は、最も許し難い挑発だろう。

たとえ話をしてみよう。上々のお歴々が、道路を造り、線路を敷き、立派なバスや電車を走らせることにした。さあ工事が終わり、インフラが完成した、これから通行料や運賃をガッポリぶんどってやろうと思ったら、筆者のような下々のへそ曲がりが、全く遠出しようとせず、けもの道を自転車で走るだけだとしたら、腹が煮えくり返るのも無理はなかろう。彼らとしては、「自宅から駅までが遠い」「渋滞や混雑がひどい」「運賃や料金が高すぎる」といった、さも低能が訴えそうな「想定の範囲内」の苦情が来るのを手ぐすね引いて待っているのであって、「問題の対策及び状況の改善」という口実で、バカな底辺の連中をさらに嵌めてやろうと思っているのである。

筆者のような「影響力ゼロ肯定者」は確実に増えている。とは言え、別に積極的に増えている訳ではない。仕方がなく、そういうある種の諦観に行きついただけである。上々の方々が自らの影響力保持に汲々としていて、哀れな下々の人間にはおこぼれさえ絶対分け与えようとしないのだから、当然の帰結である。その結果、そうして死守した影響力が、全く通じない層が増えてしまうのだ。上々の方々が大好きな「自己責任」というやつである。せいぜいのたうちまわってほしい。そう言えば、そろそろ春のそよ風が心地よい季節だ。

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