北村奈緒さんの初撮影から3年、何度か出逢いを重ねてきましたが
いよいよモデルを卒業するときが来たそうです
モデル卒業の理由は、RQ卒業と連座 益々のご活躍を祈ってシャッターをきる
今日はとあるお宅を訪問し黒田官兵衛にまつわる話を聞いた。黒田官兵衛の研究に若い頃から没頭しているご主人の元には色々な御仁が訪れるという。明日はNHK大河・黒田官兵衛のProduceをしている方がくるそうな。少しずつ今日の成果を紹介しようと思っているが、まずは黒田家譜。黒田家譜は筑前黒田家の公式の記録であり、完成は1688年という。筑前国・福岡藩主の命で編纂を始めたのが儒学者・貝原益軒である。この黒田家譜によって黒田官兵衛は名軍師と伝わることとなる。ただし黒田家譜がすべて正しいことが記載されているかどうかは注意を要するわけで、藩主にしてみれば悪い内容は残したくない気持ちがはたらくし、良いことは誇張して残したい・・となる。したがって黒田官兵衛の出身は近江となっているが、一方で、兵庫県西脇市黒田庄の土豪だったとする説を記載した文献も参考にする必要がある。それを踏まえたとしても黒田家譜は一級資料であり、ここに掲載したものは写本であるが触ってもいいものなのだろうかとお話しながらページをめくらせて頂いた。
徳島藩主蜂須賀家といえば通称小六、蜂須賀正勝は家祖にあたり、羽柴秀吉の家臣である。もともと蜂須賀氏は徳島がゆかりの地ではなく尾張国蜂須賀郷を本拠地とした国人であるため、主君は斎藤道三であった。道三が織田信長に滅ぼされると信長に仕え、その後豊臣秀吉に仕えた。豊臣秀吉との出会いは秀吉が織田氏に仕える以前と云われている。蜂須賀氏は織田信長の側室・生駒吉乃の実家・生駒氏とは縁戚関係にあり、秀吉が織田氏に仕えたのは正勝と縁のあった吉乃の推薦によるという説もある。中国大返しでは黒田官兵衛孝高とともに貢献し成功に導いた立役者である。そして正勝は娘のイトを黒田官兵衛の嫡男・長政の正室としている。このように蜂須賀正勝と黒田官兵衛は親子のように年齢は違ったが結びついていった。
次に蜂須賀正勝の嫡男・蜂須賀家政1558-1639も織田信長、羽柴秀吉に仕える。1582年、信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、秀吉に従って山崎の戦いに参加し、1583年の秀吉と柴田勝家の決戦・賤ヶ岳の戦いで勝利したときには播磨佐用郡内に3,000石を与えられた。1585年の紀伊雑賀攻めの後に行なわれた四国征伐では、阿波木津城攻め、一宮城攻めなどで武功を挙げ、四国征伐後、その戦功により秀吉は正勝に対して阿波一国を与えようとしたが、正勝は秀吉の側近として仕える道を選んで辞退し、秀吉はやむなく家政に阿波を与えたという。因みに父・正勝はこれを見届け、翌年に没している。だから高野山には徳島蜂須賀家とあるのである。こうして家政は1586年に阿波18万石の大名となり、徳島城を築城した。朝鮮出兵には、文禄の役・慶長の役の2度とも出陣、南原城の戦い、蔚山城の戦いでは救援軍の一端を担い、浅野幸長を助け出すという武功を挙げたが、戦線縮小を主張する石田三成らにかえってこの戦闘行為を非難され、預かっていた蔵入地を没収される懲罰を受けた。1598年に秀吉が死去し、1599年に前田利家が死去すると、福島正則や加藤清正、浅野幸長らとともに三成襲撃を蜂起し、子の至鎮と徳川家康の養女の縁組を結ぶなど、典型的な武断派・親家康大名として活動している。1600年の関ヶ原の戦いでは、時代の流れを察知し、自身は出馬せず、西軍に対しては軍勢だけを送った。家康とは直接戦うことのない丹後田辺城攻防戦に加わった。ここは細川忠興の父・幽斎が東軍として立て篭もっていた城であったが戦闘まもなく補給と称して阿波に戻り、アリバイ工作としての西軍参加を表明したようであるが、西軍が敗れたときには家来は無断で西軍に味方したとして蜂須賀家を追放されている。一方、家康の上杉景勝征伐に同行させていた至鎮は関ヶ原の本戦で東軍として参加させ、武功を挙げたため、家康から所領を安堵された。家政は西軍についた責任を取る形で剃髪し隠居したが、早くに至鎮が病死したために、その子・忠照の成長と家臣団の統制に務め81歳まで生きたのである。
黒田重隆1508-1564(龍野城主・赤松政秀→小寺政職に仕える)
┗黒田職隆1522-1585(姫路城代)⇔赤松政秀
┃┣娘 蜂須賀正勝1526-1586
┃┃┣- ┣蜂須賀家政1558-1639
┃┃浦上清宗-1564 ┗イト
┃┣黒田官兵衛孝高1546-1604 ┣-
┃┃ ┣黒田長政1568-1623
┃┃幸園(櫛橋伊定娘) ┣黒田忠之1602-1654
┃┣黒田利高1554-1596 ┣黒田長興1610-1665
┃明石宗和娘(小寺養女) ┣黒田高政1612-1639
┣黒田利則1561-1612 栄姫
┣黒田直之1564-1609
神吉氏
吉川氏といえば吉川元春、毛利元就の3兄弟の真ん中で3本の矢でたとえられることで知られる。ということは吉川元春は元々吉川氏ではない。毛利家が領地獲得の末に吉川氏に入り込んだのである。わかりやすくいうと毛利は吉川を支配下に置いたのである。これは1550年のことであるが、吉川氏は実質的にはこの年に滅びた。吉川元春は吉川興経の養子になると、父・吉川興経と実子・吉川千法師は毛利元就に暗殺され、養子の吉川元春が吉川氏の当主となった。元々吉川氏は毛利よりもずっと血統は高く、藤原氏南家の流派である。まさに下克上の時代だったのである。遡ること100年前、吉川経基という安芸国の領主は足利将軍家に仕え、娘の吉川夫人は尼子経久の正室となっている。尼子経久は出雲を中心に中国地方の覇権をもつ大名である。しかも宇多源氏佐々木氏の流れを汲む京極氏の分家である。吉川氏はこの尼子氏と手を組んで磐石の態勢を整えたが毛利に滅ぼされた。因みに吉川氏の初代は吉川経義といって平安時代末期の駿河の豪族、鎌倉御家人である。1183年に源頼朝から駿河国を得たときに吉川氏を名乗ったことが始まりである。この吉川氏を滅ぼした毛利家の反映は幕末まで続くのである。
毛利輝元・長州藩初代藩主の祖父・毛利元就は安芸の国人に過ぎなかった毛利氏をわずかに一代で大大名とした人物である。輝元は父を早くに失い、当初は元就が、後には二人の叔父である吉川元春、小早川隆景が輝元を補佐した。信長の時代には、輝元は石山本願寺と同盟を結び、配下の村上水軍を使って石山に兵糧を運び、本願寺側の唯一の欠点である補給問題を 毛利がカバーすることで 信長を苦しめたのである。信長が本能寺で急死すると備中高松城で対峙していた羽柴秀吉を攻撃せず中立を守ることで毛利の大領土を守った。広島の土地に巨城と城下町を築いたのも輝元である。秀吉は天下をとった後五大老に輝元を加え、毛利の知将である毛利隆景を入閣させている。ところが知将・隆景を失い、秀吉がなくなると輝元の武将としての迷彩は欠いていくのである。そして毛利輝元は、石田三成の意を受けた安国寺恵慧の説得に乗って関ヶ原の戦いの西軍総大将に祭り上げられてしまった。結局関ヶ原の戦いは吉川元春の子である広家が小早川秀秋を裏切らせたために東軍の勝利で終わった。しかし輝元は秀頼という切り札をもって大阪城という難攻不落の要塞にいたのであるが、毛利の本領は安堵する、という家康の誘いに乗って大阪城をでていってしまった。これにより家康は毛利家を完全に取り潰そうとしたが、吉川広家の嘆願により毛利家は大名としてかろうじて生き残ることができたのである。二百数十年を経た長州から吉田松陰、久坂玄随、高杉周作で代表される幕末の志士を輩出し、ついには倒幕を果たすこととなる。これらの原動力になったのは関が原の戦いでの苦渋に違いない。
乃美大方殿-1601 高橋興光┓
┣ 高橋久光娘
毛利弘元1466-1506(安芸吉田郡山城主) ┣幸松丸1515-1523
┣毛利興元1492-1516(大内興元傘下)
┣毛利元就1497-1571 ⇔ 武田元繁
┣女 ┣毛利隆元1523-1563
福原広俊娘┃ ┃ ┣輝元1553-1625
┃ ┃大内義興┏尾崎局(養女)1527-1572
┃ ┃ ┗大内義隆1507-1551 ⇔ 陶隆房(晴賢) ⇔ 相良武任
┃ ┃ ┣- (義隆討つが厳島の戦で元就来島水軍に敗れる)
┃ ┃ 万里小路秀房娘貞子
┃ ┣長女(高橋氏の養女)
┃ ┣五龍局(宍戸隆家室)-1574
┃ ┣吉川元春1530-1586
吉川経基 ┃ ┃ ┣吉川元長1548-1587
┃(藤原南家)┃ ┃ ┣毛利元氏1556-1631
┣吉川国経 ┃ ┃ ┣吉川広家1561-1625
┃┣元経1459-1522┃新庄局(熊谷信直娘)-1606
┃┣経長 ┣小早川隆景1533-1597
┃┗妙玖 1499-1546 ┣小早川秀包1567-1601
┃ ┣小早川秀秋1582-1602
┗長女 ┏正平娘 ┣羽柴秀行
┃ ┗繁平1542-1574 毛利輝元養女
┣政久1488-1518
┃ ┗晴久1514-1561(1540年毛利征伐で敗走)
┣国久 ┣義久1540-1610
┃ ┗娘
┣塩治興久
┏尼子経久1458-1541(宇多源氏)
尼子清定-1478(出雲守護代)
今回は紀州徳川家2代以降の墓。墓標には2代から6代までの藩主名が記されている。しかし5代の名が抜けているのは何故かというと、紀州徳川家第5代藩主こそが徳川8代将軍・吉宗だからである。吉宗公については何度か町火消し48組制定、享保の改革、目安箱の設置等で紹介した。ここでは吉宗が徳川宗家の将軍となった経緯を記す。
八代将軍吉宗は極めて幸運であった。吉宗は紀伊徳川家第二代藩主・徳川光貞の四男として生まれた。つまり紀伊徳川家の藩主になることすら難しい四男であり、母は当主・光貞の湯殿番の女中であった。父、光貞と江戸にいたときに、紀州藩邸に当時の将軍綱吉がやってきた。綱吉の一人娘・鶴姫が光貞の嫡男・綱教と結婚していたからである。このとき綱吉の子・徳松は死に、綱教を時期将軍に考えていたほどに鶴姫を溺愛していた。ところが綱教が41歳でなくなり、頼職が26歳でなくなったことにより、紀伊家当主となり、綱吉の一文字をもらい吉宗と改めた。この時点で吉宗が将軍になることは不可能といってよい。つまり綱吉の跡を継いでやっと6代将軍になった家宣にしてみれば、最も嫌っていた大名・紀伊家の綱教のせいで冷や飯を食わされたのであるから、その弟・吉宗、しかも綱吉の字をもらったことを思えば、家宣が紀伊家ではなく尾張の徳川吉通に継がせる遺志があったことはいうまでもない。ところが吉通は頓死し、7代将軍家継もわずかに8歳で死んだ。これらの幸運の次に絵島生島事件により紀州家の者は将軍にしないと言う月光院が大打撃を受けた。事件により優位に立った天英院にしてみれば尾張は受け入れることはできず、紀伊を押すことになる。このように吉宗には考えられないほどに幸運がついてまわり、その結果天英院に押された紀州・吉宗が八代将軍となったのである。
松平広忠 ━━ 徳川家康 1543-1616年 ┓幼名:竹千代
(八代当主) ┏ 松平忠政 ┃
┃ ┣ 徳川家元 ┃
於大の方 ┣ 樵臆恵最 ┃
(伝通院) ┣ 内藤信成 ┃
┗ 市場姫 矢田姫 ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃
正室・篠山殿━┳ 長男・松平信康(1559年 - 1579年)(母:築山殿)
正室・朝日姫 ┣ 長女・盛徳院 (1560年 - 1625年)(母:築山殿)
側室・お津摩 ┃
側室・お万 ┣ 次女・督姫 (1565年 - 1615年)(母:西郷局)池田輝政室
側室・小督局 ┣ 次男・結城秀康(1574年 - 1607年)(母:小督局)
側室・西郷局 ┣ 三男・徳川秀忠(1579年 - 1632年)(母:西郷局)━━┓幼名:長松
┣ 四男・松平忠吉(1580年 - 1607年)(母:西郷局) ┃
┣ 次女・良正院 (1565年 - 1615年)(母:西郡局) ┃
┣ 三女・振姫 (1580年 - 1617年)(母:お竹 ) ┃
┣ 徳川義直1601-1650(初代徳川尾張藩主)(母:お亀) ┃
┃ ┣光友1625-1700(2代藩主) ┃
┃ ┣京姫┣綱誠1652-1699(3代藩主) ┃
┃ 歓喜院┃ ┣吉通1689-1713(4代藩主母本寿院) ┃
┃ ┃ ┃ ┣五郎太1711-1713(5代) ┃
┃ ┣松平義行┃九条輔姫 ┃
┃ ┣松平義昌┣継友1692-1732(6代藩主 母は和泉)┃
┃ ┣松平友著┣義孝1694-1732(母は唐橋) ┃
┃ 千代姫(家光娘)┣宗春1696-1764(7代藩主 母は梅津)┃
┃ ┗松姫(綱吉養女) ┃
┣ 徳川頼宣1602-1671(初代徳川紀伊藩主)(母:お万) ┃
┃ ┣徳川光貞1627-1705(生母 中川氏) ┃
┃ ┃ ┣徳川綱教1665-1705(3代尾張藩主) ┃
┃ ┃ ┃ ┣徳川頼職1680-1705(養子) ┃
┃ ┃ ┃鶴姫1677-1704(徳川綱吉娘) ┃
┃ ┃ ┣徳川頼職1680-1705(4代尾張藩主 母真如院) ┃
┃ ┃ ┣徳川吉宗1684-1751(5代藩主8代将軍 母浄円院┃
┃ ┃瑞応院 ┃
┃ ┣因幡姫1631-1709(鳥取藩主池田光仲正室) ┃
┃ ┣松平頼純1641-1711 ┃
┃ ┃ ┣徳川宗直1682-1757 ┃
┃ ┃観樹院 ┣宗将1720-1765 ┃
┃ ┃ 永隆院 ┃
┃ 八十姫1601-1666(加藤清正娘) ┃
┗ 十一男・徳川頼房(1603年 - 1661年)(母:お万) ┃
┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
正室・於江与の方━┳ 千姫(天樹院):豊臣秀頼室、のちに本多忠刻室
母は信長の妹お市 ┣ 徳川家光 三代将軍 福・春日局に養育 幼名:竹千代
┣ 徳川忠長
側室・お静の方 ┣ 徳川和子(東福門院):後水尾天皇中宮
┣ 珠姫 (天徳院) :前田利常室
┣ 勝姫 (天崇院) :松平忠直室
┗ 初姫 (興安院) :京極忠高室
紀州家7代徳川宗将の事績は良くわからない。享保5年、1720年という天下泰平・徳川吉宗の時代に生まれた。先代は徳川宗直といって、伊予西条藩の第2代藩主でもある。そして西条藩初代藩主・松平頼純、祖父にあたる。この代になると高田馬場の決闘で知られている。1694年江戸郊外の高田馬場で起きた事件である。当事者は伊予国西条藩・松平頼純の家臣、菅野六郎左衛門らと村上庄左衛門らである。ところがこの事件で思い浮かべる名は堀部安兵衛であろう。安兵衛こと堀部武庸は菅野に助太刀して名を挙げたのである。そして松平頼純は紀州藩主・徳川頼宣の三男である。つまり初代将軍・徳川家康の子であるから、徳川宗将の祖父の祖父が家康となる。
松平広忠 ━━ 徳川家康 1543-1616年 ┓幼名:竹千代
(八代当主) ┏ 松平忠政 ┃
┃ ┣ 徳川家元 ┃
於大の方 ┣ 樵臆恵最 ┃
(伝通院) ┣ 内藤信成 ┃
┗ 市場姫 矢田姫 ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃
正室・篠山殿━┳ 長男・松平信康(1559年 - 1579年)(母:築山殿)
正室・朝日姫 ┣ 長女・盛徳院 (1560年 - 1625年)(母:築山殿)
側室・お津摩 ┃
側室・お万 ┣ 次女・督姫 (1565年 - 1615年)(母:西郷局)池田輝政室
側室・小督局 ┣ 次男・結城秀康(1574年 - 1607年)(母:小督局)
側室・西郷局 ┣ 三男・徳川秀忠(1579年 - 1632年)(母:西郷局)━━┓幼名:長松
┣ 四男・松平忠吉(1580年 - 1607年)(母:西郷局) ┃
┣ 次女・良正院 (1565年 - 1615年)(母:西郡局) ┃
┣ 三女・振姫 (1580年 - 1617年)(母:お竹 ) ┃
┣ 徳川義直1601-1650(初代徳川尾張藩主)(母:お亀) ┃
┃ ┣光友1625-1700(2代藩主) ┃
┃ ┣京姫┣綱誠1652-1699(3代藩主) ┃
┃ 歓喜院┃ ┣吉通1689-1713(4代藩主母本寿院) ┃
┃ ┃ ┃ ┣五郎太1711-1713(5代) ┃
┃ ┣松平義行┃九条輔姫 ┃
┃ ┣松平義昌┣継友1692-1732(6代藩主 母は和泉)┃
┃ ┣松平友著┣義孝1694-1732(母は唐橋) ┃
┃ 千代姫(家光娘)┣宗春1696-1764(7代藩主 母は梅津)┃
┃ ┗松姫(綱吉養女) ┃
┣ 徳川頼宣1602-1671(初代徳川紀伊藩主)(母:お万) ┃
┃ ┣徳川光貞1627-1705(生母 中川氏) ┃
┃ ┃ ┣徳川綱教1665-1705(3代尾張藩主) ┃
┃ ┃ ┃ ┣徳川頼職1680-1705(養子) ┃
┃ ┃ ┃鶴姫1677-1704(徳川綱吉娘) ┃
┃ ┃ ┣徳川頼職1680-1705(4代尾張藩主 母真如院) ┃
┃ ┃ ┣徳川吉宗1684-1751(5代藩主8代将軍 母浄円院┃
┃ ┃瑞応院 ┃
┃ ┣因幡姫1631-1709(鳥取藩主池田光仲正室) ┃
┃ ┣松平頼純1641-1711 ┃
┃ ┃ ┣徳川宗直1682-1757 ┃
┃ ┃観樹院 ┣宗将1720-1765 ┃
┃ ┃ 永隆院 ┃
┃ 八十姫1601-1666(加藤清正娘) ┃
┗ 十一男・徳川頼房(1603年 - 1661年)(母:お万) ┃
┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
正室・於江与の方━┳ 千姫(天樹院):豊臣秀頼室、のちに本多忠刻室
母は信長の妹お市 ┣ 徳川家光 三代将軍 福・春日局に養育 幼名:竹千代
┣ 徳川忠長
側室・お静の方 ┣ 徳川和子(東福門院):後水尾天皇中宮
┣ 珠姫 (天徳院) :前田利常室
┣ 勝姫 (天崇院) :松平忠直室
┗ 初姫 (興安院) :京極忠高室
姫路酒井家は、姫路城主としては最後の家系となる。その経過を見ると、池田家→本多家→松平(奥平)家→松平(越前)家→榊原家→松平(越前)家→本多家→榊原家→松平(越前)家→酒井家となり、越前敦賀藩主酒井忠菊の三男・酒井忠恭1710-1772が初代で、第10代酒井忠邦1854-1879が最後となる。池田輝政が52万石で播磨一国を与えられて三代継いだのち、徳川四天王本多忠勝の子・本多忠政が伊勢桑名より15万石で入って三代継ぐ。家康が外孫として可愛がっていた松平(奥平)忠明が18万石で入り、次ぎは親藩の越前家・結城秀康五男の松平(越前)直基が、15万石で入る。さらに徳川四天王の榊原康政の三男・榊原忠次が陸奥白河より、15万石で入る。越前直矩が成長して戻ってくるが、宗家の越後高田の騒動の連座で減封を受け、陸奥福島より、本多忠国が入るが、越後村上へ。入れ替わって上野前橋より、酒井忠恭が15万石で入ってやっと安定し、以降酒井家の支配で、明治に至る。酒井家は松平親氏の子が酒井広親となったことから出る松平庶流であり、酒井忠次・家次父子を祖とする出羽庄内の左衛門尉系酒井家と、酒井重忠を祖とするこの姫路に至る雅楽頭系酒井家がある。
武田信玄 は1521年に清和源氏の名門である甲斐武田氏の17代目として甲府で生まれた。武田氏の本拠・躑躅ヶ崎館ではなく 要害山城とも積翆寺とも云われている。父は信虎、母は大井氏の娘である。武田信玄が家督を継いだのは父より受け継がれたのではない。信虎は信玄(晴信)を忌み嫌い、弟の信繁に家督を継がせたいと考えていたた。信繁は武田家の当主になろうという野心はなく、(兄信玄の部下として忠誠を誓った副将で 戦国の名将真田幸村の本名は信繁。 ) 信玄は父を追放する。武田家の家臣が当主として選んだのは子の信玄のほうであった。信玄は元服して初陣で手柄を立てたのであるが、 父と共に攻め立てた城が落ちずに引き上げた後、信玄は殿軍を願い出た。殿軍は退却の際に大将をかばって敵と戦い、逃げ延びる時間稼ぎを行うのが目的である。しかし信玄はその目的とは反して、城に籠もった敵を攻め立てて呆気なく落としてしまった。(敵の大将・平賀源心を討ち取ったのは騎馬隊侍大将の馬場信春) 初陣で大勝利を収めた信玄に対して父・信虎は命令違反を咎め、評価しなかった。これにより自分が当主になることを誓った信玄は父を追放したのである。このとき信虎の重臣であった板垣信方、甘利虎泰の賛同を得ているから謀略の片鱗をこのときから見せている。信玄の姉は今川義元に嫁いでいたため、父を今川家に保護してもらおうとし、今川義元はこれに応じたのである。今川義元も信玄の器量に呼応したのは信玄の姉の賛同もあったと考えられる。信玄は息子・義信の妻に今川義元の娘を迎え入れている関係でもある。 (これにより、今川、北条、武田の三国同盟が成立) 後に今川義元は桶狭間の戦いで織田信長に討ち取られ、後継者として氏真が当主となったが、氏真は戦国史上名高いバカ殿であった。お互いの政略結婚により均衡を保っていた武田家と今川家の同盟均衡が破れたのはこのときである。武田信玄は今川領攻めに出たのであるが、これに反対したのが今川の娘を妻にしていた義信である。そして義信は父に対して反乱を企てた。義信は捕らえられ東光寺に幽閉されると、後に自刃して果てたとされる。このときに連座したのが嫡男・義信の傅役であった飯富虎昌である。虎昌は信虎の寵愛をうけたが、武田信玄が信虎を追放したときに板垣、甘利同様、虎昌も信玄を推した。そして義信の傅役を務めることとなったが、謀反の罪に問われては飯富家も廃絶するしかなかった。虎昌には弟・三郎兵衛がいて、謀反の企てを告発せよといい含めたことから、三郎兵衛だけは功が認められた。後に武田信玄の四天王となる山県昌景がその人である。
1572年武田信玄が京への道を確保する際、織田の同盟軍である徳川家康軍を蹴散らしたが、このとき武田信玄側の中核にいたのが山県昌景率いる騎馬隊である。 家康はかろうじて浜松城へ逃げ帰ったが、このとき恐怖のあまり脱糞していたという。家康はこれを契機に戦略を武田流に変え、軍学・甲州流の祖である小幡勘兵衛を召抱えた。家康は本能寺の変後、甲斐国に進出して多くの武田遺臣を採用しており、徳川四天王の一人・井伊直政に 赤備え(鎧兜を赤で統一したスタイルで、自分をアピールする必要のあった戦国時代に始めて山県昌景が行った) を受け継がせたというから家康がいかに武田軍および昌景を尊敬していたかがわかる。昌景と同じ騎馬隊侍大将に馬場信春がいる。抜群の武勇と勘のよさを持ち、築城術は山本勘助に学び 最後に1575年長篠の戦で討死するまではかすり傷ひとつ負わなかったという。長篠の戦での大将は武田信玄の後を継いだ勝頼(諏訪御料人の子)であったが重臣たちはその力を信じていない。それに反発する勝頼と信春らの重臣との間にできた分裂を突いて、攻めてきた織田軍との戦いが長篠の戦である。勝頼を諌めて退却させ、殿軍を務めた信春はここに倒れたのである。馬場信春、山県昌景と並んで武田四天王の一人に内藤昌豊がいる。 父・工藤虎豊を先代の信虎に手打ちにされ放浪していたが、武田信玄の父追放によって呼び戻された昌豊は領地を与えられ 内藤家を継いで武田信玄に忠誠を誓った。川中島の合戦で騎馬隊大将を務め北条氏康との三増峠の戦いでは補給部隊の大将を務めた。勝頼の時代になり長篠の戦で山県昌景に続いて 内藤昌豊も犬死したところでやっと勝頼は退却に従った。最後の四天王は高坂昌信、といって他の3人と違って百姓生まれで春日源助といった。父を早くに亡くした源助は遺産相続に負けてたが、そのときに武田信玄の眼に留まって近習となったのであるが、その理由は男色の相手としてである。 しかし武勇にも優れており、上杉謙信との防衛線である海津城の城大将(お目付け役に小幡虎盛といって甲州流軍学の祖・小幡勘兵衛景憲の祖父である )にしていたというから四天王なのである。現在、武田信玄に関する武功は、「甲陽軍艦」に記載されていることからその詳細が知られているが、これを書いたのが実は高坂昌信であるから、現代への功績は昌信が一番であろう。
武田信玄が冷血(実は人は城、人垣、堀・・・と言っているように決して冷血ではないのであるが。) とされる理由に諏訪氏の滅亡がある。甲斐国と接する諏訪郡の領主に諏訪頼重がいた。頼重には武田信玄の妹・禰禰が嫁ぎ、虎王丸を産んでいた。武田信玄はこの諏訪を攻め、油断していた義兄・諏訪頼重はすぐに降伏に追い込まれ、和議が成立したのであるが武田信玄は頼重を切腹させたのである。頼重がすぐに降伏に追い込まれたのには理由があり、諏訪家の分家である高遠頼継という男が諏訪家を裏切り、武田家の味方をしたのである。 本家に不満を持つ頼継を調略した結果の成果といえるが、このあたりに影響力を持つ諏訪大社については頼継に一切手をつけさせなかったことから、怒った頼継は挙兵して上原城を落とし、諏訪大社を奪い取った。これに反応した武田信玄は諏訪家の遺児である虎王丸を担いで軍の総大将として頼継を討ち、諏訪大社を含む領地すべてを奪い取るのである。 虎王丸はいつの間にか歴史から消えたが、武田信玄の謀略である可能性は高い。このとき、頼重の娘で絶世の美女といわれた諏訪御料人は武田信玄の側室になっていた。 諏訪家を継ぐ幼児・虎王丸を餌にされて側室にならざるをえなかった諏訪御料人が悲劇のヒロインになる所以である。多くの家臣は御料人を側室にすることは反対であったが、軍師・山本勘助が一人異を唱え、諏訪家の血を残して諏訪の民を心服させることが必要と進言したというが、 結果、諏訪家は高遠家とともに滅ぼされている。理由はもちろん武田信玄と諏訪御料人との間に男子が生まれたからである。名を勝頼といい諏訪家一族として家督を継いでいたが、後に武田家当主となる。 武田信玄次男は生まれつきの盲目で、三男は早世したからである。17歳で勝頼を産み、25歳でなくなった御料人は諏訪湖を望む小坂観音院に墓所があるという。
さて、武田信玄亡き後嫡流で跡を継ぐものは誰もいなかったのは諏訪勝頼にとっては幸いであった。ところが織田信長との長篠の戦で多くの戦力を失った勝頼はほぼ武田家を滅亡させたといっていい。しかし信長は勝頼にとどめはさしていなかったため、国に帰った勝頼は再起を期すことができたのである。その最大の好機が1578年の御館の乱であった。上杉謙信亡き後家督相続の遺言を残していなかった上杉家は、謙信の甥・景勝と北条氏政の弟・景虎が分裂し家督争いをし、御館の乱に発展したのである。武田勝頼は断交していた北条家と同盟を結び、氏政の妹を妻とした。最初の妻の信長の養女は信勝を産んだ後に死んでいた。これで武田勝頼と上杉景虎は義兄弟となった。妹を勝頼の嫁にだしていた北条氏政より、弟の景虎の援護を依頼してきたのである。上杉は強大ではあるが分裂した今となっては勝頼が援護すれば、それで勝敗は決し、武田、上杉、北条の大同盟ができあがる。はじめは景虎の援護をするつもりであったが、途中で心変わりし武田勝頼は上杉景勝側の援護を行ったのである。これに激怒した北条氏政は信長、家康とともに武田家に総攻撃をかけて呆気なく倒したのである。心変わりの原因は劣勢にたたされていた上杉景勝からの賄賂であったという。金銀の宝庫であった越後で謙信は多大な金を春日山に残していた。この資金を抑えた上杉景勝はこの金を使って勝頼を味方に引き入れた。結果、優勢だった景虎は自刃に追い込まれ、弟を失った北条氏政が織田、徳川と連合を組んで襲ってきたのである。そのとき勝頼は援護を上杉景勝に求めたが何の援護もなく、追い詰められた勝頼は北条夫人と嫡子・信勝とともに天目山で自害し、1582年武田本家は滅亡したのである。尚、天目山ふもとの景徳院には 勝頼と北条夫人、嫡子・信勝の墓がある。
武田信虎1494-1574
┃諏訪頼重-1542(諏訪領主 ⇔信玄に攻められ)
┃ ┗娘1530-1555(諏訪御料人)
┃ ┣武田勝頼1546-1582
┃ ┃ ┣信勝1567-1582
┃ ┃信長養女
┣武田信玄1521-1573
┃ ┣義信1538-1567(父に謀反自刃)
┃ ┃ ┣
┃ ┃┏今川義元1519-1560娘
┃ ┃┗今川氏真1538-1615
┃ ┣黄梅院1543-1569(北条氏政室)
┃ ┣海野信親1541-1582(龍宝)
┃ ┣信之1543-1553
┃ ┣見性院1545-1622(穴山梅雪室)
┃ ┣真理姫1550-1647(木曾義昌室 母:不明)真竜院
┃ ┣仁科盛信1557-1582(高遠城主)
┃ ┣菊姫1563-1604(上杉景勝室 母:油川夫人)
┃ ┣松姫1561-1616(織田信忠と婚約 母:油川夫人)信松尼
┃┏三条の方(三条公頼娘)1521-1570
┃┗如春院(顕如室)
┣武田信繁1525-1561(川中島4戦で戦死)
┣武田信廉1532-1582(画才有)
┣松尾信是-1571(母:松尾信賢娘)
┣河窪信実-1575
┣一条信龍1539-1582()
┣武田信友-1582(母:内藤氏)
大井の方1497-1552大井氏(⇔本拠地:佐久郡)
周囲が白っぽいタイルで囲まれていると全体がレフ板となる
こういう場合に思いっきり露出オーバーの撮影をするのが好きである
白とびを嫌う人は多いが、その部分の質感が失われるのを嫌うことにある
しかし背景をぼかしてその質感を追求しないのであれば、白とびさせるのも同じ