今回は紀州徳川家2代以降の墓。墓標には2代から6代までの藩主名が記されている。しかし5代の名が抜けているのは何故かというと、紀州徳川家第5代藩主こそが徳川8代将軍・吉宗だからである。吉宗公については何度か町火消し48組制定、享保の改革、目安箱の設置等で紹介した。ここでは吉宗が徳川宗家の将軍となった経緯を記す。
八代将軍吉宗は極めて幸運であった。吉宗は紀伊徳川家第二代藩主・徳川光貞の四男として生まれた。つまり紀伊徳川家の藩主になることすら難しい四男であり、母は当主・光貞の湯殿番の女中であった。父、光貞と江戸にいたときに、紀州藩邸に当時の将軍綱吉がやってきた。綱吉の一人娘・鶴姫が光貞の嫡男・綱教と結婚していたからである。このとき綱吉の子・徳松は死に、綱教を時期将軍に考えていたほどに鶴姫を溺愛していた。ところが綱教が41歳でなくなり、頼職が26歳でなくなったことにより、紀伊家当主となり、綱吉の一文字をもらい吉宗と改めた。この時点で吉宗が将軍になることは不可能といってよい。つまり綱吉の跡を継いでやっと6代将軍になった家宣にしてみれば、最も嫌っていた大名・紀伊家の綱教のせいで冷や飯を食わされたのであるから、その弟・吉宗、しかも綱吉の字をもらったことを思えば、家宣が紀伊家ではなく尾張の徳川吉通に継がせる遺志があったことはいうまでもない。ところが吉通は頓死し、7代将軍家継もわずかに8歳で死んだ。これらの幸運の次に絵島生島事件により紀州家の者は将軍にしないと言う月光院が大打撃を受けた。事件により優位に立った天英院にしてみれば尾張は受け入れることはできず、紀伊を押すことになる。このように吉宗には考えられないほどに幸運がついてまわり、その結果天英院に押された紀州・吉宗が八代将軍となったのである。
松平広忠 ━━ 徳川家康 1543-1616年 ┓幼名:竹千代
(八代当主) ┏ 松平忠政 ┃
┃ ┣ 徳川家元 ┃
於大の方 ┣ 樵臆恵最 ┃
(伝通院) ┣ 内藤信成 ┃
┗ 市場姫 矢田姫 ┃
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正室・篠山殿━┳ 長男・松平信康(1559年 - 1579年)(母:築山殿)
正室・朝日姫 ┣ 長女・盛徳院 (1560年 - 1625年)(母:築山殿)
側室・お津摩 ┃
側室・お万 ┣ 次女・督姫 (1565年 - 1615年)(母:西郷局)池田輝政室
側室・小督局 ┣ 次男・結城秀康(1574年 - 1607年)(母:小督局)
側室・西郷局 ┣ 三男・徳川秀忠(1579年 - 1632年)(母:西郷局)━━┓幼名:長松
┣ 四男・松平忠吉(1580年 - 1607年)(母:西郷局) ┃
┣ 次女・良正院 (1565年 - 1615年)(母:西郡局) ┃
┣ 三女・振姫 (1580年 - 1617年)(母:お竹 ) ┃
┣ 徳川義直1601-1650(初代徳川尾張藩主)(母:お亀) ┃
┃ ┣光友1625-1700(2代藩主) ┃
┃ ┣京姫┣綱誠1652-1699(3代藩主) ┃
┃ 歓喜院┃ ┣吉通1689-1713(4代藩主母本寿院) ┃
┃ ┃ ┃ ┣五郎太1711-1713(5代) ┃
┃ ┣松平義行┃九条輔姫 ┃
┃ ┣松平義昌┣継友1692-1732(6代藩主 母は和泉)┃
┃ ┣松平友著┣義孝1694-1732(母は唐橋) ┃
┃ 千代姫(家光娘)┣宗春1696-1764(7代藩主 母は梅津)┃
┃ ┗松姫(綱吉養女) ┃
┣ 徳川頼宣1602-1671(初代徳川紀伊藩主)(母:お万) ┃
┃ ┣徳川光貞1627-1705(生母 中川氏) ┃
┃ ┃ ┣徳川綱教1665-1705(3代尾張藩主) ┃
┃ ┃ ┃ ┣徳川頼職1680-1705(養子) ┃
┃ ┃ ┃鶴姫1677-1704(徳川綱吉娘) ┃
┃ ┃ ┣徳川頼職1680-1705(4代尾張藩主 母真如院) ┃
┃ ┃ ┣徳川吉宗1684-1751(5代藩主8代将軍 母浄円院┃
┃ ┃瑞応院 ┃
┃ ┣因幡姫1631-1709(鳥取藩主池田光仲正室) ┃
┃ ┣松平頼純1641-1711 ┃
┃ ┃ ┣徳川宗直1682-1757 ┃
┃ ┃観樹院 ┣宗将1720-1765 ┃
┃ ┃ 永隆院 ┃
┃ 八十姫1601-1666(加藤清正娘) ┃
┗ 十一男・徳川頼房(1603年 - 1661年)(母:お万) ┃
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正室・於江与の方━┳ 千姫(天樹院):豊臣秀頼室、のちに本多忠刻室
母は信長の妹お市 ┣ 徳川家光 三代将軍 福・春日局に養育 幼名:竹千代
┣ 徳川忠長
側室・お静の方 ┣ 徳川和子(東福門院):後水尾天皇中宮
┣ 珠姫 (天徳院) :前田利常室
┣ 勝姫 (天崇院) :松平忠直室
┗ 初姫 (興安院) :京極忠高室