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彩木里紗さん

2014年03月09日 | 彩木里紗 齋藤このみ 山部さくら 桜田美里

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彩木里紗さん

2014年03月09日 | 彩木里紗 齋藤このみ 山部さくら 桜田美里

堺筋線北浜駅から難波橋を渡ると中ノ島公園

なにわ橋駅 中央公会堂近辺から大川を臨みながらの撮影

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高野山25 徳川頼宣の墓所

2014年03月08日 | 高野山

 徳川家康が孫のような側室・お万の方に生ませた十男が頼宣、徳川御三家の紀伊徳川家の祖である。お万の方は家康との間にもうひとり頼房・徳川水戸家の祖を設けている。関ヶ原の戦いで勝利して西軍の大名の所領を大量に没収した徳川家康は、武田家の名跡を継いでいた武田信吉が若くしてなくなったことで宙に浮いていた遺領をわずか2歳の頼宣に与えたが、結局頼宣が一度も水戸入りしないうちにその領土は駿河、遠江50万石に加増転封され、紀伊伊勢55万石が与えられることとなった。頼宣が元服すると領主として紀伊国和歌山へ入部する。このとき本家からの付家老として安藤直次が紀伊田辺城、水野重央が紀伊新宮城をあたえられ、監視役を担った。1614年大坂冬の陣で初陣を飾り、翌年の大坂夏の陣では天王寺・岡山の戦いで後詰として活躍し、1617年に加藤清正の第五女・八十姫(瑤林院)を正室としている。紀州徳川家の家祖となったのは1619年紀伊国紀州藩55万5千石に転封したときで、入国後は、和歌山城の改築、城下町の整備や、地元の国人を懐柔する地士制度を実施した。1651年の慶安の変において、由井正雪が頼宣の印章文書を偽造していたため幕府に謀反の疑いをかけられ、10年間紀州へ帰国できなかったが、その後、疑いは晴れて無事帰国する。

  松平広忠 ━━ 徳川家康 1543-1616年 ┓幼名:竹千代
(八代当主) ┏ 松平忠政       ┃
  ┃    ┣ 徳川家元       ┃
 於大の方  ┣ 樵臆恵最       ┃ 
(伝通院)  ┣ 内藤信成       ┃
       ┗ 市場姫  矢田姫   ┃
   ┏━━━━━━━━━━━━━━━━┛
   ┃ 
正室・篠山殿━┳ 長男・松平信康(1559年 - 1579年)(母:築山殿)       
正室・朝日姫 ┣ 長女・盛徳院 (1560年 - 1625年)(母:築山殿)
側室・お津摩 ┃ 
側室・お万  ┣ 次女・督姫  (1565年 - 1615年)(母:西郷局)池田輝政室
側室・小督局 ┣ 次男・結城秀康(1574年 - 1607年)(母:小督局)
側室・西郷局 ┣ 三男・徳川秀忠(1579年 - 1632年)(母:西郷局)━━┓幼名:長松
       ┣ 四男・松平忠吉(1580年 - 1607年)(母:西郷局)  ┃
       ┣ 次女・良正院 (1565年 - 1615年)(母:西郡局)  ┃
       ┣ 三女・振姫   (1580年 - 1617年)(母:お竹 )    ┃ 
       ┣ 徳川義直1601-1650(初代徳川尾張藩主)(母:お亀)  ┃
       ┃ ┣光友1625-1700(2代藩主)             ┃
       ┃ ┣京姫┣綱誠1652-1699(3代藩主)          ┃
       ┃ 歓喜院┃    ┣吉通1689-1713(4代藩主母本寿院) ┃
       ┃    ┃    ┃ ┣五郎太1711-1713(5代)    ┃
        ┃     ┣松平義行┃九条輔姫            ┃
        ┃     ┣松平義昌┣継友1692-1732(6代藩主 母は和泉)┃
        ┃     ┣松平友著┣義孝1694-1732(母は唐橋)    ┃
       ┃  千代姫(家光娘)┣宗春1696-1764(7代藩主 母は梅津)┃   
        ┃         ┗松姫(綱吉養女)           ┃
       ┣ 徳川頼宣1602-1671(初代徳川紀伊藩主)(母:お万)    ┃
        ┃  ┣徳川光貞1627-1705(生母 中川氏)         ┃
        ┃  ┃ ┣徳川綱教1665-1705(3代尾張藩主)      ┃
        ┃  ┃ ┃ ┣徳川頼職1680-1705(養子)        ┃
        ┃  ┃ ┃鶴姫1677-1704(徳川綱吉娘)         ┃
        ┃  ┃ ┣徳川頼職1680-1705(4代尾張藩主 母真如院) ┃
        ┃  ┃ ┣徳川吉宗1684-1751(5代藩主8代将軍 母浄円院┃
        ┃  ┃瑞応院                      ┃
        ┃  ┣因幡姫1631-1709(鳥取藩主池田光仲正室)     ┃
        ┃ 八十姫1601-1666(加藤清正娘)              ┃
       ┗ 十一男・徳川頼房(1603年 - 1661年)(母:お万)    ┃
                                    ┃
     ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ 
正室・於江与の方━┳ 千姫(天樹院):豊臣秀頼室、のちに本多忠刻室
母は信長の妹お市 ┣ 徳川家光 三代将軍 福・春日局に養育 幼名:竹千代 
         ┣ 徳川忠長                         
側室・お静の方  ┣ 徳川和子(東福門院):後水尾天皇中宮           
         ┣ 珠姫  (天徳院) :前田利常室             
         ┣ 勝姫  (天崇院) :松平忠直室             
         ┗ 初姫  (興安院) :京極忠高室

 

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高野山24 多田満仲公の墓所

2014年03月07日 | 高野山

 平安時代の中期頃、花山天皇が藤原氏の謀略によりなかば無理矢理に出家させられ、藤原兼家の権勢が始まったことは、平安時代に明るい人は良く知るところである。このときに藤原氏の護衛役であったのが源満仲で代表される源氏であった。藤原権勢の経緯は次である。

 984年円融天皇が譲位し冷泉天皇の皇子・師貞親王が即位して花山天皇となった。母は藤原伊尹娘・女御懐子であったが、藤原伊尹はすでに没し、子息も早世が多く5男の義懐が天皇側近の蔵人頭、参議、権中納言と昇っただけだった。ゆえに太政大臣藤原頼忠がひきつづき関白に任ぜられた。藤原頼忠は父・藤原実頼と同様温厚で兼家とも良好な関係を保ち、兼家も右大臣の地位を保っていた。兼家は娘・詮子を円融天皇の女御にいれ、懐仁親王をうんでいたが、花山天皇即位とともに懐仁親王を東宮につけていた。花山天皇は一流の文化人で従来の慣習を壊して文化事業を主催した。朝儀では先例を無視したことから官僚の批判をあびたほどで、具体的な政治は官僚に任せて、外向きの政治だけは立派と揶揄された。政治の中心となったのは藤原義懐であり補佐にあたったのは藤原惟成であったという。惟成は藤原魚名流の学者系出身の才人であり枕草子にもその名は見られるが、地位はそれほどでもないことから敏腕ぶりには疑問もある。花山天皇には数人の女御がいたが、特に大納言・藤原為光(兼家の異母弟)の娘・藤原忯子を寵愛し、懐妊してから内裏を退出し、985年に没した。天皇の悲しみは尋常ではなく、世をはかなんで出家を考えた。これを好機とした花山退位計画をたてて懐仁親王の即位をくわだてたのが藤原兼家である。兼家の4男通兼は天皇を清涼殿から連れ出し山科の元慶寺に向かわせ、途中は源満仲率いる武士に警護させて出家させてしまった。義懐、惟成が気づいたときはすでに遅く、二人とも出家してしまった。かくして懐仁親王は即位して一条天皇となり、皇太子は冷泉天皇皇子・居貞親王が立てられた。 こうして天皇、東宮ともに兼家の孫にあたることから、不遇に甘んじてきた兼家の出番がようやくやってきたのである。 

 

 源満仲の子息で、武勇をほしいままにした源頼光948-1021は、時の権力者・藤原道長の重臣で源氏の棟梁である。母は嵯峨源氏の近江守源俊娘で、 妻には伊予守藤原元平娘などがいる。子には頼国、頼家、頼基、永寿、頼昭などがあり、満仲の長子として清和源氏の三代目を相続して摂津国多田源氏を束ね、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれる。異母弟には大和源氏の源頼親、後に武家源氏の主流となる河内源氏の源頼信がいる。同時代の中級貴族と同じく、20前後で出仕し、満仲と同じく摂関政治を行っていた藤原氏に臣従して官職を得て、財力を蓄えていたと考えられて、986年頃、居貞親王(三条天皇)が皇太子となった際に東宮権大進に任じられる。東宮大進時代には朝廷の儀礼や典礼関係の年中行事に記録が見られ、藤原道長の主催した競馬などに参加している。同時期には、大江匡衡が隣国の尾張守となり、両者は赴任するにあたって書状を交わしており、また、匡衡妻の赤染衛門は頼光を詠んだ和歌を残しているなど親交があったと思われる。左馬権頭となって正四位下になり、後一条天皇の即位に際して昇殿を許された後は、受領として蓄えた財により一条邸を持ち、たびたび道長に多大な進物をしてこれに尽くした。道長の権勢の発展につれて、その側近である頼光も武門の名将「朝家の守護」と呼ばれるようになり、弟の頼信と共に後の源氏の興隆の礎を築く。

 また、頼光の四天王といわれた渡辺綱953-1025は平安時代中期の武将で嵯峨源氏の源融の子孫で、大江山の酒呑童子と戦った源頼光・四天王の筆頭である。武蔵権介だった嵯峨源氏の源宛の子で、摂津源氏の源満仲の娘婿である仁明源氏の源敦の養子となり、母方の里である摂津国西成郡渡辺に居住したことから渡辺綱と名乗り、渡辺氏の祖となった。 大江山の酒呑童子退治や、京都の一条戻り橋の上で羅生門の鬼の腕を源氏の名刀「髭切りの太刀」で切り落とした逸話で有名である。その子孫は渡辺党と呼ばれ、内裏警護に従事する滝口武者として、また摂津国の武士団として住吉の海を本拠地として瀬戸内海の水軍を統轄し、源平の争乱から南北朝にかけて活躍した。九州の水軍松浦党の祖の松浦久もまた渡辺氏の出である。

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高野山23 信州松本藩水野家墓所

2014年03月06日 | 高野山

 信州松本藩といえば石川数正1533-1593を思い浮かべる。酒井忠次と共に徳川家康に仕えていたが、小牧・長久手の戦いの後に徳川家を出奔して豊臣秀吉側に寝返ったことで知られている。徳川家康が駿河国の大名・今川義元の人質になっていた頃から仕えていた石川数正が何故寝返ったのか。色々な説があるが、ほんとうのところはわからない。織田信長が死去し、秀吉が台頭してきた頃、数正は家康の命令で秀吉との和睦交渉を担当していたのであるが、逆に秀吉に調略されたのである。この石川数正が信州松本藩の初代とも言われているが、もうひとりの松本藩初代藩主が水野忠清1582-1647、ここ高野山の墓所に眠る人物なのである。備後福山藩初代藩主・水野勝成の弟であり、正室には前田利家の娘を持つ。1600年父・水野忠重が加賀井重望に殺された後、水野氏の家督は兄・勝成が継ぎ、忠清は徳川秀忠の家臣として仕えることとなった。1614年からの大坂の陣では冬・夏の両陣とも参戦し、父の過去の功績と大坂の役の軍功により、1642年信濃松本7万石に加増移封された。1647年江戸にて死去すると東京小石川の伝通院に眠る。この伝通院は徳川家の菩提寺であることから、水野家が徳川家に重用されてきたことが伺える。

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稲垣優里奈さん

2014年03月04日 | 井上綾花 稲垣優里奈 MAKI 板野優花

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稲垣優里奈さん

2014年03月04日 | 井上綾花 稲垣優里奈 MAKI 板野優花

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稲垣優里奈さん

2014年03月04日 | 井上綾花 稲垣優里奈 MAKI 板野優花

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稲垣優里奈さん

2014年03月04日 | 井上綾花 稲垣優里奈 MAKI 板野優花

もうすぐ大学3回生となる稲垣優里奈さん モデル復帰はいつでしょう

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高野山22 小田原北条家墓所

2014年03月03日 | 高野山

 小田原北条家は、鎌倉幕府の執権である北条家とは全く違う。従って区別するために後北条家と呼ぶべきであるが、一般的には小田原北条家と呼ばれる。この祖・北条早雲は1432-1519元々伊勢氏の出身で実力でのし上がってきた戦国大名の筆頭である。早雲は出家号であり、伊勢長氏、盛時との説があるがはっきりはしていない。早雲の父は伊勢盛定、母は伊勢貞国 (室町幕府の執事で子に伊勢貞親がいる。室町将軍の足利義教・義勝・義政の3代に仕える)の娘である。北条氏は鎌倉時代に執権を世襲する勢力であったが、足利氏に滅ぼされた後は伊豆の地方豪族に没落した。伊勢氏は関西地方を基盤としたが関東へ進出する際に北条の姓を得るために婿入りしたと考えられる。 関東・駿河に名を上げようと下ったのは1490年頃で、早雲の妹が駿河守護の今川義忠の側室(北川殿という)として竜王丸(後に今川氏親)を産んでいたためである。今川家に食い込もうと駿河へ下ったときに、今川家では御家騒動が起こっており、当主義忠は亡くなり妹・北川殿との間の嫡男・竜王丸が残っていたが幼少ということもあり小鹿範満を跡継ぎにする動きがあった。つまり妹と竜王丸を排除する動きに対して待ったをかけたのである。早雲は揉め事の調停役である関東管領上杉家の家老・太田道灌をも後ろ盾にして、竜王丸を後嗣とする(この時元服して今川氏の当主・氏親と名のる)とその功により駿河に興国寺城をもらいうけ、今川氏親を補佐する。そして隣国の伊豆を狙う(伊豆討ち入り)ことになる。伊豆では関東堀越公方の相続争いが起こっていたのである。先の公方・足利政知(足利義教の子)には茶々丸という名前に似ず気の荒い息子がいたが、家督を奪うために義母・円満院とその子・潤を殺害していた(1491年)。茶々丸は主君になっていたものの真の従者はいなかったのであろう。早雲は今川家からも兵を借りて挙兵し、堀越御所の茶々丸を攻めて追放したのである。こうして早雲は伊豆をも領国とし一気に関東領土を手中にしようと目論んだ。さらには隣の相模・小田原を狙ったのである。当初小田原の大森氏は勢力もあり手を出せない状態であったが、小田原城主大森氏が急死し、藤頼という若い城主が後を継いだときに、早雲は贈り物をして親交を深めることに努力をした。これにより大森氏の隙を突いた早雲は、一気に小田原城に攻め入り落としたのである。小田原城は後に豊臣秀吉に滅ぼされるまで5代に渡って栄えることになる。早雲が次に狙ったのは三浦半島一帯を勢力圏に持つ三浦氏である。三浦氏といえば、鎌倉時代からの名族であり、当主三浦義同(道寸)とその息子・義意は三浦半島一帯の豪族である。そして新井城という難攻不落の名城を持っていた。大森氏と姻戚関係にある三浦氏は将来の禍根になりかねないと考え、この難攻不落の三浦氏に対して海上、陸上を封鎖することによって三浦氏の篭城作戦に対抗した。数年の長きに渡って新井城を封鎖し、やっと打ちとった時には早雲85歳であったという。三浦氏滅亡の3年後の1519年に早雲はその生涯を閉じた。

 それから約100年後、北条家は上杉の家督争いの渦にまきこまれる。上杉謙信が倒れたときに起こった御館の乱がそれである。北条家から養子にはいった上杉景虎が圧倒的優位に立っていた。景虎が後継者になれば実家の大大名である北条家と同盟が結ばれる。そして北条家から嫁を迎えていた武田家の当主・武田勝頼とも同盟ができあがり、北条・武田・上杉の義兄弟同盟によって大敵である織田信長にも対抗できるという目算があった。従ってこのお家騒動のとき、北条家の当主・北条氏政は義弟・武田勝頼に対して上杉景虎の援護をするようにと依頼していた。窮地にたっていたのが上杉景勝(謙信の姉の子)である。ところが景勝は絶対不利のこの状況をひっくり返し武田勝頼を味方につけたことにより、御館の乱で勝利して上杉家を継いだのである。これにより武田勝頼は北条家を敵に回しただけではなく、同盟のチャンスの逃し、北条氏政を信長との連合に走らせ、1582年滅亡することとなる。今から考えればありえないことであるが、これは直江兼続の軍師としての采配によるものである。上杉謙信の遺産により勝頼を寝返らせたことと、父信玄のなし得なかった上杉家が武田家の家臣として仕えると景勝が誓ったことで、謀略は成功したのである。軍師といえば山本勘助、竹中半兵衛、黒田官兵衛などが有名であるが、武田信玄は山本勘助がいなくても、今語られる信玄であったであろうし、秀吉も官兵衛がいなくても秀吉であったであろう。しかし直江兼続がいなければ決して上杉景勝はいなかった。つまり豊臣政権の五大老のひとりにはなれなかった。兼続1560-1620は樋口与六として身分の低い家に育ったが、幼き頃から頭角をあらわし、名門直江家を入り婿として相続し、上杉家の重臣となり与板城主となった。

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高野山21 丸亀京極家墓所

2014年03月02日 | 高野山

 高野山にある京極家の墓所にゆかりのある丸亀、丸亀城といえば、讃岐にある廻りを内堀で囲まれた輪郭式の立派な平山城である。石垣は、緩やかであるが荒々しい野面積みと端整な算木積みの土台から、頂は垂直になるよう独特の反りを持たせる「扇の勾配」となっている。山麓から山頂まで4重に重ねられ、総高60メートルの石垣は日本一高く、三の丸石垣だけで一番高い部分は22メートルある。江戸時代以前に建造された天守が現存する12城の一つである唐破風や千鳥破風を施した白亜の天守の高さは15メートルあり、現存のものでは日本で最も小さいが、高い石垣とその扇の勾配の効果により風格を保っている。 天守のほかに大手一の門・大手二の門・御殿表門・番所・長屋が現存しており、天守・大手一の門・大手二の門は国の重要文化財に指定されている。天守からは、瀬戸大橋など瀬戸内の風景だけではなく、讃岐冨士の眺望は絶景である。1597年豊臣政権の時代、生駒親正が讃岐17万石を与えられ高松城を本城とし、亀山に支城を築いた。1658年に山崎氏は3代で無嗣断絶し改易となり、代わって播磨国龍野より京極高和(1619-1662)が入城する。高和(外様大名)は京極高次(お市の方の次女・お初は正妻)流の江戸時代初期の当主で、播磨国龍野藩主、讃岐国丸亀藩初代藩主である。讃岐うどんを食べに丸亀へいったときにはこの城へどうぞ。 

讃岐にある丸亀城 天守には京極家の系図等説明が詳しくあります

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高野山20 秋田藩佐竹家の墓所

2014年03月01日 | 高野山

 秋田藩・佐竹家は上杉家と同様に関が原の敗者で、かろうじて改易は免れたが領地は召し取られて生きながらえた。佐竹家は水戸を中心とした常陸国が先祖伝来の領地であったが、出羽国に移されて貧しい藩経営を強いられていた。このころの秋田藩佐竹家は財政改善のために鉱山開発を計画し当時の藩主が江戸から平賀源内を招いている。出羽国久保田藩の第8代藩主・佐竹義敦1748-1785は源内から文化、学芸を学んだのであるが、それは家臣の小野田直武の功績によるもので、源内の親友である杉田玄白が解体新書を出したときの人体図を描いたのが、この小野田直武である。1773年に直武が源内と出会い、翌年に解体新書が刊行、そしてその2年後に篤胤がうまれている。 佐竹義敦は軍学者であり蘭学者の平田篤胤が10歳まで生き、現役の藩主として活動するかたわら家臣の直武と西洋画論を書いている。秋田藩には蘭学に対する深い理解があったことは特筆すべきことである。ところが篤胤は20歳のときに突如秋田を出奔して江戸に向かった。あてがあったわけでもなく国学で身を立てようと思ったわけでもない。結局本居宣長とは接触することなく江戸で6年を過ごしている。この間雑用をしながら学問に励んでいたという。そして江戸在中の備中松山藩の軍学者・平田篤穏に見出されて養子となった。これが篤胤の幸運の始まりといえる。落ち着いて学問に励み、本居宣長のことを知るようになると徐々に傾倒していった。秋田藩大番組頭大和田祚胤の四男として生まれた平田篤胤、平賀源内など佐竹家にかかわる人格者は多い。因みに関が原合戦時に西軍として徳川と戦ったのは佐竹氏19代当主・竹義宣1570-1633で、出羽久保田藩(秋田藩)の初代藩主である。 

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