薩摩の援助により発足した亀山社中は長崎駅の真東に1kmくらいのところにあります。長崎電鉄で長崎から諏訪神社前を経由して新大工町駅で降りると、南側の小高い丘に向かって約15分歩くと到着です。その間に上野彦馬写真館跡、料亭跡、色々なモニュメントを見ながら若宮稲荷神社までいくと、時計まわりの若宮通りと反時計まわりの龍馬通りで目的地まで行くことができます。
坂本龍馬は初めは武市半平太と行動をともにしていたが、過激な活動に疑問を持ち決別したあとは後藤象二郎を通じて土佐藩に復帰し、勝海舟の後押しで貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中を長崎に設立した。薩摩藩らの援助により設立された亀山社中の目的は、神戸海軍操練所時代に考えていた貿易を実現するため商社をつくり海軍・航海の技術を習得することにあった。当初のパトロンとなったのは事業家・小曽根乾堂で、後の海援隊は小曽根家を本部としている。小曽根乾堂は宮中で御前演奏の栄誉に預かった人物でもある。そして亀山社中は後に「土佐藩海軍別働隊」というべき海援隊に変わっていく。半平太切腹後の土佐勤皇党は崩壊して、多くのメンバーが龍馬のもとに集まったが、彼らは龍馬が勤皇党の宿敵であった後藤象二郎と組むことに反対であったが、後藤の将来に対する展望の大きさを説く。龍馬は海舟の弟子として既に名士であり、他藩との交流は深かったが、出身の土佐藩との太いパイプは無かった。かくして後藤象二郎との連携によって亀山社中だけではなしえないことを土佐二十四万石を動かすことのできる後藤の力を借りて果たすこととなる。亀山社中は長崎を拠点にイギリス人貿易商人・グラバーから武器を購入し、薩摩、長州藩に引き渡すなどの貿易、海運を手がけていた。しかし社中は深刻な経営不振に陥る。というのも社中にはもともと資金などはなく、他藩の借り物の船で貿易を行っていたからである。武市半平太の盟友・坂本龍馬と吉田東洋の甥・後藤象二郎はもともと敵対する二人である。しかし後藤象二郎は亀山社中の航海技術に着目、龍馬は後藤の後ろ盾である土佐藩の資金援助がほしかった。両者は共通の未来を見据えて意見の一致を見たことで亀山社中という絆で結ばれていたに過ぎない。
吉田東洋が外国との通商を行い、文明を取り入れようと門閥に捕らわれない人事を行い、岩崎弥太郎もその恩恵にあずかった。東洋が参政に復帰した1859年、弥太郎は長崎の現地調査の大役を任じられたものの、長崎丸山の花街での遊興三昧で任務は一向にはかどらずに、岩崎弥太郎はついに公金100両を使い込んだ。これにより土佐藩を罷免され井ノ口村に舞い戻るはめになった。此の頃、武市半平太率いる土佐勤王党が台頭し、1862年吉田東洋は暗殺された。弥太郎は失意のまま数年過ごすが、1867年好機がきた。土佐で開国派が勢力を回復して後藤象二郎が藩政の中枢に戻り、弥太郎は再び呼び寄せられた。弥太郎が再び長崎を訪れたこの時に、坂本龍馬とであったのである。後藤は土佐商会を開設しグラバーなどから船舶や武器弾薬類を買占めていたが、夜毎花街に繰り出し豪遊していたので土佐商会は火の車であったという。このとき後藤は坂本龍馬が1865年結成した亀山社中を土佐藩の勢力下にいれた。亀山社中は長崎を拠点にグラバーから武器を購入し、薩摩、長州藩に引き渡すなどの貿易、海運を手がけていた。しかし社中は深刻な経営不振に陥る。というのも社中にはもともと資金などはなく、他藩の借り物の船で貿易を行っていたからである。武市半平太の盟友・坂本龍馬と吉田東洋の甥・後藤象二郎はとをもともと敵対する二人である。しかし後藤象二郎は亀山社中の航海技術に着目、龍馬は後藤の後ろ盾である土佐藩の資金援助がほしかった。こうして両者は共通の未来を見据えて意見の一致を見たのである。
上野彦馬1838-1904、日本で始めてカメラを扱い写真技術を日本に導入・普及させた人物である。歴史と写真を扱う当ブログにふさわしいネタである。先週長崎へ行ってきた際、最初に訪れたところが、ここ上野彦馬の生誕の地であり、写真館があった跡地である。彦馬の写真であまりにも有名なのが坂本龍馬の記念写真であるが、内外の有名人や西南の役従軍での写真など事績は多い。実はこの上野彦馬は、当然のことながら写真家を目指していたわけではなく、幼少の頃から松下文平塾に通い、父の親友である木下逸雲から評価を得ていた。父俊之丞は、時計製法や蘭館医師シーボルトから舎密学(化学)を学び、蘭学を学んだ。また、製薬や火薬のもとになる硝石を製造し、写真の背後を流れる中島川に別邸と硝石製錬所を設けるなど事績は多彩であった。実は初めて写真機を導入したのは父俊之丞であり、彦馬ではない。その頃の写真機械は、フランスのダゲールという発明者の名をとったダゲレオタイプ・カメラ(銀板写真)である。初の被写体は島津斉彬であったというから驚き。
家督を相続した彦馬は木下逸雲のはからいで広瀬淡窓の私塾へ入門する。その門弟には高野長英、大村益次郎などがいる。この間、長崎の情勢は激しく動き、医学、化学、物理学、測量、数学、石炭坑法、蒸気船操縦法、製鉄造法などの講義が活発に行われた海軍伝習所には、33歳の勝海舟がいた。一方、彦馬は化学薬品の調剤方法について学び、写真研究に打ち込んでゆくようになる。長崎へ帰ってからは以前にもまして写真研究に打ち込み、1862年に写真館開業の看板を掲げると、写真研究の成果が実績をあげ、営業も軌道にのっていくのである。上野彦馬が営業写真師として忙しくなるのは、西南戦争以後であるという。明治10年アメリカ合衆国の前大統領グラント将軍を撮影したことや、同年行われた第一回内国博覧会に出品した彦馬の写真が入賞したことも、世間に彼の知名度を広げる役目を果たした。
【関西の写真家・市田左右太の湿板写真ガラス原板ネガ】 幕末から明治にかけて、上野彦馬という人物に劣らぬ写真家が京阪神で活躍していた。その写真のフィルムに相当するのは「湿板写真ガラス原板ネガ」というものであった。このネガはオーストリア・バートアウスゼーの美術館に今でも所蔵されている。そのネガを使って江戸の街並みを撮影したのはヴィルヘルム・ブルガーとその弟子ミヒャエル・モーザー。明治2年にオーストリアの記録隊として来日して各地で撮影を行った。当時のガラス原板300枚弱がオーストリアで発見されたのである。150年前の鮮明な技術とともに当時の暮らしぶりも伺える。
当時の湿板写真ガラス原板ネガを使って、街に立つ名札(1868年に日本各地に「町名札を立てよ」という指令がでて1872年ごろには整備されたという。)江戸城の石垣に刻まれた大名家の刻印などが、鮮明に映っているのである。手前と向うの風景、文字両方に焦点を合わすためにはF値を絞る必要があるが、その分光を取り入れるために露出時間を長くする(約5秒)が、人物もそんなにぶれていないのは不思議である。写っている人物は皮靴に指輪というのも時代風景を物語る。
ところで、この技術を使っていたと思われる日本人が居る。それは神戸に住む市田左右太1834-1896、1867年に京都で写真館を開業し,1870年に神戸にうつった。ところが、1863年にこの原板を使って撮影した写真が残っていたから驚きである。つまり日本最古のネガでると同時に、オーストリアの技術を既に知っていた証拠でもある。坂本龍馬1836-1867の写真で知られる上野彦馬1838-1904とはほぼ同世代とわかる。1872年の京都博覧会や1877年の第1回内国勧業博覧会で数々の写真を出品して受賞している。当時使われていた湿板写真用カメラは構造もレンズも極めてシンプルであるから、湿板写真ガラス原板ネガが繊細(驚異のシャープさが出る)であることがわかる。その理由は ①画像銀粒子が微細 ②青い光(短波長)だけに感光するハロゲン化銀 ③感光幕が非常に薄い ということらしい。光の3原色の赤青緑はそれぞれに屈折率が異なることから微妙に色が滲んでシャープな画像は得られない。そこで湿板写真ガラス原板を使うと青い光だけを感光するためにシャープな絵が出来上がる。そのシャープさは現在のデジタルカメラを上回る。当時の原板は八つ切り(16.5x21.6cm)で2億画素以上になる。つまりカラーではなく、モノクロを使えばそのくらいの記録性を持っていたのである。そして今までは湿板写真ガラス原板ネガであっても紙焼きプリントをしていたために、このような性能は分からなかったという。
長崎から市電にのってわずかに5分くらいのところにありました
高野山にある上州榊原家墓所には姫路藩主初代の榊原忠次が眠る。榊原氏は前回に紹介した鳥取藩・池田氏と繋がりが深い。池田光政の娘・富磯と榊原忠次の息子・政房が結婚することで榊原氏を受け継いでいくこととなる。実はこの姫路初代藩主・榊原忠次は黒田官兵衛の孫娘を正室に迎えている。また、榊原忠次の母は松平康元の娘であるから、徳川家康の姪が忠次の母なのである。一方、鳥取藩初代・池田光政の祖父輝政は家康の次女・督姫を妻とした。このように池田氏とともに榊原氏も徳川家康の重用により繁栄して播磨・因幡の大名として長州藩を牽制する立場を築いた。高野山の奥の院に続く一帯に隣接して造られた墓地には、このようなつながりがあることに注目したい。
土田弥平次
┣
生駒吉乃1528-1566
┣1織田信忠1557-1582(岐阜城主)二条御所(本能寺の近く)で討死
┃ ┣秀信1580-1605(三法師)本能寺の変時に清洲城へ非難
┃ ┣秀則1581-1625(秀信と共に関ヶ原合戦で西軍)
┃┏森可成(祖は河内源氏・源義家)娘(徳寿院)
┃┣森可隆1552-1570
┃┣森長可1558-1584小牧・長久手の戦で討死
┃┃ ┣- 督姫1565-1615(家康次女)
┃┃┏━娘 ┣池田忠雄1602-1632(鳥取藩祖)
┃┃┃ ┃┣池田光仲1630-1693(初代鳥取藩主)
┃┃┃ ┃三保姫┣池田綱清1648-1711(2代)
┃┃┃ ┃茶々姫(徳川頼宣娘)┃┣池田吉泰1687-1739(3代)
┃┃┃ ┃ 式姫┃┃ ┣池田宗泰1717-1747(4代)
┃┃┃ ┃ 菊子(側室)敬姫 中村氏┣池田重寛1746-1783(5代)
┃┃┃ ┃ (徳川綱紀娘) 久姫 ┃ ┣池田治道1768-1798(6代)
┃┃┃ ┃ (徳川宗直娘) 律姫┃ ┃┣池田斉邦
┃┃┃ ┃ 上氏(側室)┃於三保
┃┃┃ ┃ 生姫(伊達重村娘)
┃┃┃ ┃ 松平広忠1526-1549
┃┃┃ ┃ ┣徳川家康1543-1616
┃┃┃ ┃ 於大の方1528-1602(水野忠政娘)
┃┃┃ ┃ ┗松平康元 黒田長政娘(正室)
┃┃┃ ┃ ┗娘 ┣-
┃┃┃ ┣池田忠継1599-1615 ┗榊原忠次1605-1665(姫路藩主)
┃┃┃ ┣池田輝澄1604-1662 ┗榊原政房1641-1667(姫路藩2代) 母は寺沢広高娘
┃┃┣━池田輝政1565-1613(姫路城主) ┣榊原政倫1665-1683(姫路藩3代)
┃┃┃ ┣池田利隆1584-1616 ┏富幾 ┣榊原政邦1675-1726
┃┃┃中川清秀娘・糸姫┣池田光政1609-1682 鍋島娘┗榊原政祐1705-1732(養子)
┃┃┃ ┃┣池田政言1645-1700 ┗榊原政岑1713-1743(養子)
┃┃┃ ┃┣池田綱政1638-1714(岡山藩主 後楽園を造営)
┃┃┃ ┃┃┣池田吉政1678-1695
┃┃┃ ┃┃千子(丹羽光重娘)
┃┃┃ ┃┣奈阿姫
┃┃┃ ┃勝姫(本多忠刻娘)
┃┃┃ 柳原康政 ┣池田恒元1611-1671
┃┃┃ ┣鶴姫(徳川秀忠養女)
┃┃┃ ┗大須賀忠政1581-1607
┃┃┃ ┣榊原忠次1605-1665(姫路藩主)
┃┃┃ 松平康元娘
┃┃┣━池田長吉1570-1614
┃┃┃ ┣池田長幸1587-1632(備中松山初代城主)
┃┃┃ 伊木忠次娘 ┣長常,長信
┃┃┃ 松子,宮子(森忠政娘)
┃┃┣━池田元助1559
┃┃┃ 片桐半右衛門娘
┃┃┃ ┣-
┃┃┣━池田長政1575-1607(母:荒尾善次娘 犬山城にて生)
┃┃┃ ┣池田長明1606-1678(伊賀守)
┃┃┃加藤嘉明娘┣長重
┃┃┃ ┣長久1645-1697
┃┃┃ 妾 ┣長喬1676-1723
┃┃┃ 香昌院 ┣長處1696-1754
┃┃┃ 峯松院 ┣長仍1725-1796
┃┃┃ 妾 ┗長玄1741-1814
┃┃┃ ┗-
┃┃┃
┃┃┣━━若御前 菊亭晴季(越後流罪)1539-1617娘
┃┃┃日秀┣- ┣
┃┃┃ ┣豊臣秀次1568-1595(高野山で切腹)
┃┃┃ ┣豊臣秀勝1569-1592小吉(妻は淀の妹お江与 朝鮮で病死)
┃┃┃ ┣豊臣秀保1579-1595
┃┃┃三好吉房1522-1600
┃┃池田恒興1536-1584(信長の乳兄弟)清洲会議の宿老 小牧・長久手の戦で討死
┃┃ ↑
┃┣森蘭丸1565-1582(長利)本能寺の変で討死 【小牧長久手戦】
┃┗森忠政1570-1634
┗━━━━━━┓ ↓
┣2織田信雄1558-1630(本能寺の変時に伊勢に撤退 宇陀松山藩初代)
┃ ┃┣高長1590-1674(宇陀松山藩2代藩主)
┃ ┃┃ ┣長頼1620-1689(宇陀松山藩3代藩主)
┃ ┃┃富田氏 ┣信武1655-1694(宇陀松山藩3代藩主)
┃ ┃久保三右衛門娘 津川氏
┃ ┣秀雄1583-1610(亀山城主 関ヶ原合戦で西軍)
┏織田信広-1574┃北畠具教娘(千代御前)
織田信秀 ┣徳姫(見星院)1559-1636
1510-1551 ┃ ┣登久姫 毛利輝元娘
┃ ┃ ┣熊姫┏━━5勝長-1582岩村城主 二条御所で討死┣-
┃ ┃徳川信康┃┏━4羽柴秀勝1568-1586(母不祥)丹波亀山城で病死
┃ ┃ ┃┃┏3信孝1558-1583(母坂氏)伊勢神戸氏継ぐ 四国征伐
┗織田信長 1534-1582
高野山・鳥取池田家墓所には初代藩主・池田光仲が眠る。光仲は池田輝政の孫にあたり祖母は徳川家康の娘・督姫である。従って池田家の本流ともいえる。池田輝政といえば姫路城の城主であったことから息子・利隆、孫・光政の系統が姫路城主を継ぎ、姫路藩主、岡山藩主を輩出していることから、こちらのほうが有名であるが、徳川秀忠の養女・鶴姫系統なので本来は主流ではなかった。従って池田光政の事績は大きい。ところで鳥取藩池田家は坂本龍馬とも縁がある。龍馬が剣術指南を受けたのが幕末の三剣客のひとりで北辰一刀流を編み出した千葉周作である。ほかの弟子には清川八郎、山岡鉄舟、また新撰組の山南敬助、藤堂平助らがいる。龍馬が土佐からでてきて久しく修行をしたのは、千葉周作の弟・千葉定吉の道場「小千葉道場」である。弟・定吉は、兄周作の玄武館道場の隆盛に貢献した後、自らも付近に「小千葉道場」や「桶町千葉道場」などと通称される道場を開き、剣術修行のために江戸へ出てきた土佐藩士坂本龍馬は、定吉の門に入ったのである。この時定吉は、鳥取藩池田家の江戸屋敷に仕官していたため、龍馬は定吉の息子・千葉重太郎のもとで修行に励んでいる。
土田弥平次
┣
生駒吉乃1528-1566
┣1織田信忠1557-1582(岐阜城主)二条御所(本能寺の近く)で討死
┃ ┣秀信1580-1605(三法師)本能寺の変時に清洲城へ非難
┃ ┣秀則1581-1625(秀信と共に関ヶ原合戦で西軍)
┃┏森可成(祖は河内源氏・源義家)娘(徳寿院)
┃┣森可隆1552-1570
┃┣森長可1558-1584小牧・長久手の戦で討死
┃┃ ┣- 督姫1565-1615(家康次女)
┃┃┏━娘 ┣池田忠雄1602-1632(鳥取藩祖)
┃┃┃ ┃┣池田光仲1630-1693(初代鳥取藩主)
┃┃┃ ┃三保姫┣池田綱清1648-1711(2代)
┃┃┃ ┃茶々姫(徳川頼宣娘)┃┣池田吉泰1687-1739(3代)
┃┃┃ ┃ 式姫┃┃ ┣池田宗泰1717-1747(4代)
┃┃┃ ┃ 菊子(側室)敬姫 中村氏┣池田重寛1746-1783(5代)
┃┃┃ ┃ (徳川綱紀娘) 久姫 ┃ ┣池田治道1768-1798(6代)
┃┃┃ ┃ (徳川宗直娘) 律姫┃ ┃┣池田斉邦
┃┃┃ ┃ 上氏(側室)┃於三保
┃┃┃ ┃ 生姫(伊達重村娘)
┃┃┃ ┃ 松平広忠1526-1549
┃┃┃ ┃ ┣徳川家康1543-1616
┃┃┃ ┃ 於大の方1528-1602(水野忠政娘)
┃┃┃ ┃ ┗松平康元 黒田長政娘(正室)
┃┃┃ ┃ ┗娘 ┣-
┃┃┃ ┣池田忠継1599-1615 ┗榊原忠次1605-1665(姫路藩主)
┃┃┃ ┣池田輝澄1604-1662 ┗榊原政房1641-1667(姫路藩2代) 母は寺沢広高娘
┃┃┣━池田輝政1565-1613(姫路城主) ┣榊原政倫1665-1683(姫路藩3代)
┃┃┃ ┣池田利隆1584-1616 ┏富幾 ┣榊原政邦1675-1726
┃┃┃中川清秀娘・糸姫┣池田光政1609-1682 鍋島娘┗榊原政祐1705-1732(養子)
┃┃┃ ┃┣池田政言1645-1700 ┗榊原政岑1713-1743(養子)
┃┃┃ ┃┣池田綱政1638-1714(岡山藩主 後楽園を造営)
┃┃┃ ┃┃┣池田吉政1678-1695
┃┃┃ ┃┃千子(丹羽光重娘)
┃┃┃ ┃┣奈阿姫
┃┃┃ ┃勝姫(本多忠刻娘)
┃┃┃ 柳原康政 ┣池田恒元1611-1671
┃┃┃ ┣鶴姫(徳川秀忠養女)
┃┃┃ ┗大須賀忠政1581-1607
┃┃┃ ┣榊原忠次1605-1665(姫路藩主)
┃┃┃ 松平康元娘
┃┃┣━池田長吉1570-1614
┃┃┃ ┣池田長幸1587-1632(備中松山初代城主)
┃┃┃ 伊木忠次娘 ┣長常,長信
┃┃┃ 松子,宮子(森忠政娘)
┃┃┣━池田元助1559
┃┃┃ 片桐半右衛門娘
┃┃┃ ┣-
┃┃┣━池田長政1575-1607(母:荒尾善次娘 犬山城にて生)
┃┃┃ ┣池田長明1606-1678(伊賀守)
┃┃┃加藤嘉明娘┣長重
┃┃┃ ┣長久1645-1697
┃┃┃ 妾 ┣長喬1676-1723
┃┃┃ 香昌院 ┣長處1696-1754
┃┃┃ 峯松院 ┣長仍1725-1796
┃┃┃ 妾 ┗長玄1741-1814
┃┃┃ ┗-
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┃┃┣━━若御前 菊亭晴季(越後流罪)1539-1617娘
┃┃┃日秀┣- ┣
┃┃┃ ┣豊臣秀次1568-1595(高野山で切腹)
┃┃┃ ┣豊臣秀勝1569-1592小吉(妻は淀の妹お江与 朝鮮で病死)
┃┃┃ ┣豊臣秀保1579-1595
┃┃┃三好吉房1522-1600
┃┃池田恒興1536-1584(信長の乳兄弟)清洲会議の宿老 小牧・長久手の戦で討死
┃┃ ↑
┃┣森蘭丸1565-1582(長利)本能寺の変で討死 【小牧長久手戦】
┃┗森忠政1570-1634
┗━━━━━━┓ ↓
┣2織田信雄1558-1630(本能寺の変時に伊勢に撤退 宇陀松山藩初代)
┃ ┃┣高長1590-1674(宇陀松山藩2代藩主)
┃ ┃┃ ┣長頼1620-1689(宇陀松山藩3代藩主)
┃ ┃┃富田氏 ┣信武1655-1694(宇陀松山藩3代藩主)
┃ ┃久保三右衛門娘 津川氏
┃ ┣秀雄1583-1610(亀山城主 関ヶ原合戦で西軍)
┏織田信広-1574┃北畠具教娘(千代御前)
織田信秀 ┣徳姫(見星院)1559-1636
1510-1551 ┃ ┣登久姫 毛利輝元娘
┃ ┃ ┣熊姫┏━━5勝長-1582岩村城主 二条御所で討死┣-
┃ ┃徳川信康┃┏━4羽柴秀勝1568-1586(母不祥)丹波亀山城で病死
┃ ┃ ┃┃┏3信孝1558-1583(母坂氏)伊勢神戸氏継ぐ 四国征伐
┗織田信長 1534-1582
奈良大宇陀には織田家松山藩の菩提寺・徳源寺がある。織田信長の次男・信雄の戒名が徳源院であることから命名され、信雄の五男・織田高長(宇陀松山2代藩主で出雲守)が父の菩提のために創建したという。実は奈良・大宇陀には柿本人麻呂に縁のある 「かぎろひの丘」があり、その近くに徳源院があり、織田家墓所が境内奥にある。徳源寺縁起によると本尊は釈迦如来坐像で、千手観音像、開山像、円照禅師像なども納められている。
ここはクイーンエリザベスが入港している長崎湾、2014/3/21昨日のことです。目的はエリザベスではなく幕末めぐりin 長崎だったのですが、偶然の入港はラッキーでした。クイーンエリザベスの巨漢には驚きました。全長295m、高さ63m、総排出量90000トンです。戦艦大和が全長263m、高さ41m、総排出量64000トンですから、その一回り以上も巨大です。今回のクイーンエリザベス横浜経由で神戸港に3/19に寄航したのは初めてのことで、神戸港から長崎に寄航したのと私が長崎にいたのが偶然同じだったということです。おかげさまで、グラバー園からの景色に彩を添えることになってよかったのですが、グラバー園は外人でいっぱいでした。
黒田官兵衛の子孫はいるそうです。パネルになっているのが本人の黒田長高氏である。現在如水興産のCEOであるとの話を聞いた。実は6代継高氏で黒田家の血筋は途絶えており、一ツ橋家などから養子を迎え入れている。したがって16代目長高氏は黒田官兵衛との血縁関係はないのである。
黒田重隆1508-1564(龍野城主・赤松政秀→小寺政職に仕える)
┗黒田職隆1522-1585(姫路城代)⇔赤松政秀
┃┣娘 蜂須賀正勝1526-1586
┃┃┣- ┣蜂須賀家政1558-1639
┃┃浦上清宗-1564 ┗イト
┃┣黒田官兵衛孝高1546-1604 ┣-
┃┃ ┣①黒田長政1568-1623
┃┃幸園(櫛橋伊定娘) ┃
┃┃ ┣黒田高政1612-1639東蓮寺藩初代
┃┣黒田利高1554-1596 ┣黒田長興1610-1665秋月藩初代
┃明石宗和娘(小寺養女) ┣②黒田忠之1602-1654
┣黒田利則1561-1612 栄姫 ┗③光之
┣黒田直之1564-1609 ┗④綱政
神吉氏 ┗⑤宣政
┗⑥継高
┗⑦治之
┗⑧治高
┗⑨斉隆
┗⑩斉清
┗⑪長薄
┗⑫長知
┗⑬長成
┗⑭長礼
┗⑮長久
┗黒田長高
黒田家系図を所蔵するのは黒田家の菩提寺・心光寺である。このお寺、元々は御着城主・小寺家の菩提寺であったが黒田官兵衛の母・明石氏が熱心な浄土宗の信者であったことから、母の死去を契機に黒田家の菩提寺としたという。黒田官兵衛の父・職隆が御着から姫路に移り、1608年池田輝政の町割りの際に移されている。ここには黒田重隆夫妻、職隆夫妻、官兵衛の位牌が長政の時代に納められたという。
兵庫県立図書館に行けば黒田家秘書を見ることができるが、その古文書は1824年に模写されたものであり、ここに紹介するものも甲申中秋との記載があることから1824年の写しとの注釈があった。播州明石の人で、黒田家帰依した高僧・空誉上人が朝鮮出兵の際も黒田家の秘書役として従軍していることから、この古文書の著者は空誉上人と思われているようです。これ以上のことはわからない。黒田家譜などの古文書に関する勉強会が不定期ではあるがあるらしいので是非その機会には参加したい。ところで著者・空誉上人は黒田官兵衛二十四騎の一人であり、キリシタンである後藤又兵衛と仲が良かった。これが災いして、黒田家3代藩主・黒田忠之により惨殺されている。ここでは詳細については割愛させていただく。