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2代龍野藩主・脇坂安照の御涼所

2009年11月26日 | 戦国時代

 龍野公園内には脇坂公の上屋敷跡がある。 この屋敷跡には聚遠亭といって、江戸時代に後の播磨龍野9代城主・脇坂安宅(京都所司代時代には龍野でうすくち醤油の販路拡大を行い、老中となったあとに起きた桜田門外の変では井伊直弼の閣内にいた老中とともに辞任する)が孝明天皇から拝領し京から移築されたお茶室もあります。 毎年紅葉の季節になると、小京都とも言われている聚遠亭には多くの人で賑わいます。 さて、上屋敷の主である脇坂安照は、播磨龍野藩の初代藩主である脇坂安政の五男として江戸で生まれ、1672年に将軍・徳川家綱に拝謁し、長兄の安村が病弱だったことから父の隠居後は後を継ぎ、藩主となります。 1701年、浅野長矩が吉良義央を傷付けてしまうという刃傷事件が江戸城中で起こり、「赤穂事件」に発展していきます。 このとき、脇坂安照は浅野氏の居城である赤穂城受け取りの正使を務め、その後1年半の間、長矩に代わって永井直敬が赤穂藩主として赴任してくるまで、赤穂城の在番を務めています。 1709年には幽水と号し、長男・安清に家督を譲って隠居し、1722年安清の後を追うように65歳で龍野で死去します。 

脇坂安政1633-1694 
 ┣安村1656-1706(松平康映娘) 
 ┃┣京極高之室
 ┃┣娘
 ┃高木正盛娘
 ┣2安照1658-1722 
 ┃┣3安清1685-1722  
 ┃┣安利 ┗4安興-5安弘-6安実-7安親-8安童-9安宅
 ┃岡部直好娘
今井総十郎娘

 

 

 

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ライトアップ紅葉

2009年11月25日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

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瑠璃光庭にある往生極楽院

2009年11月24日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 往生極楽院は、寺伝では986年に恵心僧都源信(942年-1017年往生要集の著者)が父母の菩提のために姉の安養尼とともに建てたものと伝えられています。 お堂に比べて大きい阿弥陀三尊像を納める工夫として天井を船底型に折上げています。 その天井には極楽浄土に舞う天女や諸菩薩の姿が極彩色で画かれています。 中尊の阿弥陀如来は来迎印を結び、右の観世音菩薩は往生者を蓮台に乗せる姿で、左の勢至菩薩は合掌し、両菩薩ともに前かがみに跪く大和座りをしています。 

瑠璃光庭と呼ばれる杉苔でおおわれた庭園の中に建つ往生極楽院 

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あだしの念仏寺

2009年11月24日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

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新田部親王邸宅にあった最古の校倉造の経蔵

2009年11月24日 | 奈良・飛鳥時代

 新田部親王の邸宅は現在の唐招提寺境内にあった。 その邸宅跡に現存する宝蔵と経蔵はともに遺存例少ない天平校倉造りで、殊に経蔵については創始以前に新田部親王邸宅があったころからの遺構であり、その歴史は756年成立の正倉院よりも古い。 

 ところで、新田部親王は天武天皇(大海人皇子)と大原大刀自(藤原五百重娘)との間に生まれた。 唐招提寺の完成に尽力した智努王の父である長親王とは異母兄弟にあたり、700年に冠位48階でいうところの浄広弐(大宝律令官位の従四位下)を授けられ、707年文武天皇の葬儀に際し造御竈司(火葬設備造営を担当)とされた際には二品であったという。 719年元正天皇は、舎人・新田部の両親王に皇太子首親王(後の聖武天皇)の補佐を命じるとともに、封戸を加増し1,500戸としている。 720年に右大臣藤原不比等が死去すると、舎人の知太政官事任命と並行して、知五衛及授刀舎人事に任命され、中央政府直属の軍隊の全指揮権を掌握する任務を与えられている。 729年2月、長屋王の変では、六衛府の軍隊が長屋王屋敷を包囲するなか、藤原武智麻呂・多治比池守らとともにその罪の糾問に当たっている。

左は宝蔵 右が経蔵(日本最古の校倉造)

 

                                  阿部倉梯麻呂
仏教賛成派             ┏ 吉備姫王  ┗ 小足媛624-
蘇我稲目-579            ┃   ┣ 軽大郎女 ┣ 有間皇子639-   ┓
 ┣ 蘇我堅塩媛?-?        ┃   ┣ 36孝徳天皇(軽皇子)594-654 ┓┛
 ┃ ┃     ┏━━━━━━━━━┛  ┃  飛鳥宮 ┏漢皇子     ┃
 ┃ ┣ 桜井皇子            ┣ 35皇極天皇(宝皇女)594-661 ┃
 ┃  ┣ 炊屋姫(33推古天皇) -628   ┃  ┃板葺宮 (37斉明)       ┃
 ┃  ┃       ┃      大俣女王┃  ┣ 間人ハシヒト皇女628-665  ┛  ┓
 ┃ ┃      ┣ 田眼皇女  ┣ 茅渟王   ┣ 40天武(大海人皇子)630-686┃
 ┃ ┃       ┣ 竹田皇子 ┃     ┃   ┃┣ 十市皇女648-678   ┃┓ 
 ┃ ┃           ┣ 尾張皇子  ┃          ┃  ┃額田王631-689     ┃┃
 ┃ ┃       ┃      ┃     ┃  ┣新田部親王?-735   ┃┃
 ┃ ┃       ┃      ┃     ┃  ┃┣塩焼王?-764    ┃┃
 ┃ ┃       ┃      ┃     ┃  ┃┃┣氷上川継?-?   ┃┃
 ┃ ┃       ┃      ┃     ┃  ┃┃不破内親王?-?   ┃┃
 ┃ ┃       ┃      ┃     ┃  ┃┗道祖王?-757    ┃┃
 ┃ ┃       ┃      ┃     ┃ 大原大刀自(五百重娘)?-? ┃┃
 ┃ ┃       ┃      ┃     ┣ 38天智(中大兄皇子)626-671┛┃
 ┃ ┃       ┃息長真手王 ┃     ┃乳母は蘇我,葛城で育つ ┃┃  ┃
 ┃ ┃       ┃  ┗広姫 ┃     ┃   ┣ 大友皇子648-    ┃┃  ┛  
 ┃ ┃       ┃    ┣押坂彦人皇子  ┃ 宅子娘┣葛野王669-705┃┃
 ┃ ┃       ┃┏━━┛  ┃     ┃      十市皇女648-678 ┃┃
 ┃ ┃       ┃┃小熊子女?┣ 34舒明天皇(田村皇子)593-641      ┃┃
 ┃ ┃       ┃┃┃    ┃    ┃ ┣ 古人大兄皇子  622-   ┃┃
 ┃ ┃       ┃┃┣ 糠手姫皇女-664 ┃法提郎女         ┗ 倭姫王┃
 ┃ ┣ 31用明天皇┃┃┃ ━━┓      ┣ 蚊屋皇子                 ┃
 ┃ ┃宣化     ┃┃┃   ┃     蚊屋采女            ┃
 ┃ ┃ ┗┓    ┃┃┃     ┣ 来目皇子                             ┃
 ┃ ┃石姫皇后   ┃┃┃     ┣ 殖栗皇子 ┏━━━━━━━━━━━━━┛
 ┃ ┃ ┣ 30敏達天皇538-585┣ 茨田皇子 ┣大田皇女644-667 石川郎女
 ┃ ┃ ┃          ┃      ┃┣大伯皇女661-701┣-
 ┃29欽明天皇509-571        ┣ 厩戸皇子 ┃┣大津皇子 662-686 
 ┃ ┣穴穂部間人皇女-621  ━┛     ┃┃ ┣-     長娥子(不比等娘)
 ┃ ┣穴穂部皇子                   ┃┃山辺皇女663-686(天智娘)  ┃
 ┃ ┣宅部皇子             ┃┃    御名部皇女(天智娘) ┃
 ┃ ┃                 ┃┃          ┣ 長屋王
 ┃ ┃                 ┃┃尼子娘(胸形君徳善娘)┣鈴鹿王 
 ┃ ┣泊瀬部皇子(32代崇峻天皇)      ┃┃  ┣ 高市皇子654-696   ┓ 
 ┣ 小姉君                     ┃天武天皇631-686        ┃
 ┣ 石寸名郎女                      ┃┃┃┃┗ 刑部皇子665-705(忍壁)┃ 
 ┣ 境部臣摩理勢(蝦夷が滅す)        ┃┃┃┣但馬皇女-708      ┛
 ┃  ┗ 蘇我倉麻呂            孝徳┃┃┃氷上娘-682(鎌足娘)
 ┃     ┃              ┃ ┃┃┣長皇子-715
 ┃     ┃              ┃ ┃┃┃┣智努王693-770(文屋真人)
 ┃     ┃              ┃ ┃┃┃┃┗三諸大原-806
 ┃     ┣ 蘇我倉山田石川麻呂━━━┓ ┃ ┃┃┃┗大市王704-780
  ┃     ┣ 蘇我日向                ┣乳姫┃┃┣弓削皇子-699
  ┃     ┣ 蘇我赤兄623-            ┃  ┃┃大江皇女-699(天智皇女 川島妹) 
  ┃     ┃ ┣常陸娘              ┃  ┃┃         長屋王
 ┃   ┃ ┃  ┣山辺皇女         ┃  ┃┃         ┣膳夫王-729
 ┃   ┃ ┃天智天皇          ┃  ┃┣ 草壁皇子662-689 ┣葛木王
 ┃   ┃ ┗大蕤娘669-724     ┃   ┃┃ ┣ 吉備皇女683-707
 ┃   ┃    ┣紀皇女       ┃    ┃┃ ┣ 軽皇子683-707(42文武)
 ┃   ┃    ┣田形皇女      ┃   ┃┃ ┣ 氷高皇女  (44元正)
 ┃   ┃    ┣穂積親王          ┃   ┃┃ 阿閉皇女661-721(43元明)
 ┃   ┃    ┃  ┃┗但馬皇女  ┃   ┃┃        聖武天皇
 ┃   ┃  天武天皇┣大嬢 二嬢   ┃   ┣41持統天皇645-703  ┗井上内親王
 ┃   ┗ 蘇我連子  大伴坂上郎女  ┃   ┣健皇子649-658
 ┗ 蘇我馬子(嶋大臣)551-626        ┣蘇我遠智娘-649
      ┣ 蘇我蝦夷587-645          ┗姪娘
   ┃  ┣ 蘇我入鹿605?-645豊浦宮
   ┃  ┗ 蘇我畝傍 
   ┣ 河上娘(崇峻天皇妃)
   ┣ 法提郎女
      ┣ 刀自古朗女-623
   ┗━━━━━┓
阿佐姫(弓削氏)  ┃
 ┣物部守屋-587 ┃
 ┣布都姫    ┃
 ┃  ┣物部鎌足姫大刀自
 ┣石上贄古大連(物部守屋の同母弟)
物部尾興?-?(安閑・欽明朝の大連で中臣鎌足と廃仏主張)

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梶井宮とも呼ばれた勝林院

2009年11月23日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 勝林院は大原三千院をさらに北へほどなく行ったところにあります。 以前は「梶井御所」「梶井宮」と呼ばれた地域で、835年に円仁によって開かれたと伝えられています。 1186年に顕真と法然との間で行われた大原問答はよくしられており、現在は宝泉院・実光院の2院が残っています。 また境内には後陽成天皇皇子・承快親王、後水尾天皇皇子・盛胤親王、霊元天皇皇曾孫・承真親王などの墓があるのですが、このときは参拝するには遅すぎる時間になってしまい、見ることはできませんでした。

 

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唐招提寺・金堂

2009年11月22日 | 奈良・飛鳥時代

 唐招提寺があるのは奈良・五条市、現在では奈良の郊外に位置するが、1200年前奈良に都があったときには中心街区であった。 759年に天武天皇の皇子・新田部親王の旧邸地を賜って唐招提寺はたてられた。 唐招提寺には、唐の国から来た鑑真和上の招提(修行する人たちの場)のための寺という意味がある。 鑑真和上は聖武天皇の招きに応え、受戒の師として来朝することになったが、754年に東大寺に到着するまでに12年の歳月をかけて、幾たびもの難航海にも拘らず初志を貫いた。 かくして大仏殿の前に戒壇を設け、聖武天皇・孝謙天皇をはじめ、多くの高僧たちに授戒することにより、画竜点晴の実を成し遂げ、広く天平文化にも計り知れない影響を与えたのである。  東大寺戒壇院を退いた後は唐招提寺を建立し、4年の在ののち76歳で寺内にて没している。 弟子たちが師の大往生を予知して造った和上像は開山御影堂に安置され、その東側には和上の御廟が隣接する。 

 わが国最大の天平建築物である金堂は、唯一の遺構としても君臨し、平成大修理を経て今年秋に再び見事な雄姿を現した。 本尊乾漆毘盧遮那仏・千手観音・薬師如来など、創建以来の天平の仏います内陣は厳粛で圧倒的な芸術性を見せている。 毎年中秋の月夜には、この金堂を開扉して諸尊に献灯される観月讃仏会などの行事があり、秋露とともに法悦に浸ることとなる。

金堂の中央には脱活乾漆造の毘盧遮那仏が安置されている

 

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唐招提寺・鑑真廟庭

2009年11月22日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

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秋本茉菜ちゃん・

2009年11月22日 | 秋本茉菜 綾瀬里緒 Ayuchi あまね 雨宮椿

 

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上矢りせさん

2009年11月22日 | 上矢りせ 神原みお 華純 きょん

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上矢りせさん スタジオで

2009年11月21日 | 上矢りせ 神原みお 華純 きょん

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上矢りせさん

2009年11月21日 | 上矢りせ 神原みお 華純 きょん

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秋本茉菜ちゃん中ノ島で

2009年11月21日 | 秋本茉菜 綾瀬里緒 Ayuchi あまね 雨宮椿

 

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秋本茉菜さん

2009年11月21日 | 秋本茉菜 綾瀬里緒 Ayuchi あまね 雨宮椿

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あだしの念仏寺

2009年11月21日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 化野念仏寺とも書くあだしの念仏寺は嵯峨野の北にあります。 この日は二尊院から、祇王寺・滝口寺を通り過ぎてしばらく歩くとあだしの念仏寺への参道があります。 「あだし」 とは、はかない・むなしいという意味があり、また化の字には「この世に再び生まれ化すことや極楽浄土に往生する願い」 などを意図しているということです。 この地は古来より葬送の地で、初めは風葬であったが後世には土葬となり、人々が石仏を奉り、永遠の別離を悲しんだ所である。 境内には8000体を超える石仏・石塔があり、あだしの一帯に葬られたお墓である。 何百年という歳月を経て無縁仏と化し、この山野に散乱していた石仏を明治中期に地元の人々が、釈尊法塔説法を聞く人々になぞらえて配置しているそうです。 地蔵盆の夕刻にはこの無縁仏の霊にロウソクを供える千灯供養は有名である。 古今和歌集随一の女流歌人・式子内親王は、「暮るる間も 待つべき世かはあだし野の 松葉の露に 嵐たつなり」 と詠んでいます。

 式子内親王は後白河天皇と藤原成子の皇女1149-1201で、彼女の同母弟には以仁王、異母兄弟としては二条天皇、高倉天皇がいます。 1159年に賀茂斎院に卜定されて、約3年間の潔斎の後、斎院御所に移り、1169年に病気を理由に退下します。 俗世に戻った式子内親王は四条殿で暮らしますが、後に母方の屋敷(高倉殿)に移り、1177年に成子が死去、翌1178年には成子の弟・藤原公光も亡くなったことから1181年藤原定家が式子内親王の家司として仕える事になります。

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