平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

嵯峨野・常寂光院 2009/11/16

2009年11月21日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

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上矢りせさん

2009年11月21日 | 上矢りせ 神原みお 華純 きょん

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秋本茉菜さん

2009年11月20日 | 秋本茉菜 綾瀬里緒 Ayuchi あまね 雨宮椿

 

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秋本茉菜さん

2009年11月20日 | 秋本茉菜 綾瀬里緒 Ayuchi あまね 雨宮椿

 

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秋本茉菜さん

2009年11月20日 | 秋本茉菜 綾瀬里緒 Ayuchi あまね 雨宮椿

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正子内親王陵墓参考地

2009年11月20日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 嵯峨大覚寺の東南の台地に、四つの円墳・大覚寺古墳群がある。 1号墳を圓山古墳、2号墳を入道塚古墳、3号墳を南天塚古墳、4号墳を狐塚古墳と称し、大覚寺古墳群は嵯峨野を支配した有力家族の墓といわれている。 その中の圓山古墳については淳和天皇皇后・正子内親王の陵墓参考地とされ、周濠をめぐらした両袖式の横穴式石室を持つ。 実はこの陵墓参考地は前々から探していたところで、今回大覚寺の南の住宅地奥にあるのを偶然見つけたものです。 正子内親王810-879は第52代嵯峨天皇の皇女で、母は皇后橘嘉智子(壇林皇后)であり、淳和天皇の皇后となっている。 同母兄弟に仁明天皇が、異母兄弟には源融、源信、有智子内親王などがいる。 叔父にあたる淳和天皇に入内し、833年に淳和天皇退位とともに皇太后となると、長男・恒貞親王が仁明天皇皇太子に立てられた。 しかし、淳和上皇崩御後の842年に、恒貞親王が承和の変で廃太子となり、正子内親王も出家している。 承和の変は母嘉智子の陰謀とも云われており、正子内親王は激しく怒り恨んだと云う。 正子内親王は父・嵯峨上皇の旧宮嵯峨院を大覚寺に改めて、仏教に篤く帰依した。

 承和の変は平安時代初期に起きた藤原氏による最初の他氏排斥事件である。 823年、嵯峨天皇の弟・淳和天皇の即位後、皇位は833年嵯峨上皇の皇子・仁明天皇となる。 このときの皇太子に立てられたのが淳和上皇・皇子恒貞親王(母は正子内親王)である。 嵯峨上皇による長期に渡る安定の間に藤原北家の藤原良房が上皇、橘嘉智子(檀林皇太后)の信任を得て台頭し始めていた。 藤原良房の妹・順子が仁明天皇の中宮となり道康親王が生まれると、良房は道康親王の皇位継承を目論むこととなる。 これに不安を感じた恒貞親王と淳和上皇は皇太子辞退表意するが嵯峨上皇に慰留されていた。 840年淳和上皇が崩御し842年の嵯峨上皇の病をきっかけに、恒貞親王の立場に危機感を持ったのが皇太子に仕える伴健岑と橘逸勢である。 二人による皇太子の東国逃亡計画は阿保親王(平城天皇の皇子)の密書により、逸勢の従姉妹でもある檀林皇太后の知るところとなり、中納言・藤原良房に漏れたのである。

 嵯峨上皇崩御直後に仁明天皇は伴健岑と橘逸勢を逮捕し、皇太子は直ちに皇位辞表を奉ったが、少尉・藤原良相(良房の弟)は近衛府兵を率いて皇太子の座所を包囲する。 仁明天皇は伴健岑・橘逸勢らを謀反人とし、恒貞親王は皇太子を廃された。 このとき、伴健岑は隠岐へ、橘逸勢は伊豆に流罪となり恒貞親王に仕える東宮役人の多くが処分を受けている。 その後、藤原良房は大納言に昇進し、道康親王が皇太子に立てられた。 この承和の変により藤原良房の望みどおりに妹・順子の子・道康親王は皇太子に立てられ、伴氏と橘氏に打撃を与えることにより藤原氏を磐石のものとした。  『日本三代実録』ではこの事件の背後には、仁明天皇あるいは橘嘉智子による廃太子の企てがあったとされている。 後に、藤原良房は人臣最初の摂政・太政大臣にのぼりつめ、藤原氏繁栄の基礎を築くこととなった。

 

              伊都内親王(桓武皇女)
       是公娘・吉子-807       ┣ 在原行平818-893
    ┣ 伊予親王     伊勢継子┣ 在原業平825-880
      ┃乙牟漏皇后 760-790  ┣阿保親王792-842
      ┃┣ 高志内親王789-809 ┣高岳親王799-865
      ┃┣ 安殿親王  774-824(51平城天皇)
和新笠 ┃┣ 賀美能親王784-842(52嵯峨天皇)
 ┃   ┃┃   ┃┃┏藤原乙春842-866
 ┣山部王(桓武)┃┃┗藤原沢子   -839     藤原元善
 ┃ 737-806   ┃┃  ┃ ┗藤原佳美子-898  ┃平等子
 ┃           ┃┃  ┃    ┣-      ┃┣-
 ┃           ┃┃  ┣58光孝天皇830-887時康親王
 ┃           ┃┃  ┃┃  ┃       ┏藤原時平871-909
白壁王709-781 ┃┃  ┃┃   ┣源旧鑑    ┗藤原穏子885-954中宮(時平・妹)
(49代光仁天皇) ┃┃  ┃┃   ┣源和子-947(女御)┣康子内親王919-957(師輔妻)
         ┃┃  ┃┃   ┣忠子┣慶子内親王┃ 藤原安子(師輔娘)
         ┃┃  ┃┃-899┗周子┣常明親王 ┃   ┣63冷泉天皇
          ┃┃  ┃┣為子内親王┃藤原淑姫 ┃-948┣64円融天皇 壮子女王
 ┏━━━━━━┛┃  ┃┃高藤    ┃┃┃藤原桑子┃    ┣為平親王  ┣具平親王
 ┣有智子内親王 ┃  ┃┃┣定方  ┃┃┃┃和香子┣成明親王(62村上)926-967
 ┃母交野女王斎院┃  ┃┃┃┗能子┃┃┃┃┃-935┣寛明親王(61朱雀)923-952 
 ┃         ┃  ┃┃┗胤子┃┃┃┃┃┃  ┃藤原時平871-909 ┣昌子内親王950-1000
 ┃         ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┃┣保志890-936  ┃(和泉式部┣-
 ┃         ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┃┣褒子(宇多女御)┃  奉仕)┣-
 ┣源貞姫810-880 ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┃┣仁善子-946  ┃  冷泉天皇
 ┃(布勢氏)   ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┃廉子女王┣煕子女王-950
 ┃       ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┃    ┣慶頼王920-925
 ┃       ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┣保明親王903-923(第二皇子 醍醐皇太子)
 ┣源潔姫809-856 ┃  ┃┃   ┣60代醍醐天皇885-930延喜帝   
 ┃(当麻)┣明子 ┃  ┃┃   ┃ ┃┃┃┣克明親王903-927(第一皇子),宣子内親王(斎院)
 ┃藤原良房┗文徳┃  ┃┃   ┃ ┃┃┃源封子(更衣 源旧鑑娘)
 ┣源信810-869  ┃  ┃┃  ┃ ┃┃┣代明親王904-937(邸宅は伊尹,行成の邸とす)
 ┃(広井氏)   ┃  ┃┃   ┃ ┃┃藤原鮮子-915┣源重光 923-998
 ┣源弘812-863  ┃  ┃┃   ┃ ┃┃       ┣恵子女王925-992(伊尹妻 義孝母)     
 ┃(上毛野氏)  ┃  ┃┃   ┃ ┃┣重明親王-954┣壮子女王930-1008(村上帝妃具平母)
 ┣源融823-895  ┃  ┃┃   ┃ ┃源昇娘      ┣厳子女王(頼忠妻 公任母)
 ┣源勤824-┣源昇┃  ┃┃   ┃ ┣勤子内親王 定方娘
 ┃(大原氏)┗源湛┃  ┃┃   ┃ ┣源高明914-982
 ┣源定816-863  ┃  ┃┃   ┃源周子 ┣俊賢959-1027
 ┣源鎮824-881  ┃  ┃┃    ┃-935  ┣明子965-1049
 ┣基子内親王-831┃  ┃┃   ┃   愛宮  ┣頼宗、能信、寛子
 ┣基良親王-831 ┃  ┃┃   ┣敦実親王  藤原道長966-1028
 ┣忠良親王-876 ┃  ┃┃   ┃ ┣源雅信  ┣彰子、頼通、教通
 ┃(百済系)    ┃  ┃┃   ┃ ┃ ┣源倫子964-1053  
 ┣仁子内親王-889┃  ┃┃   ┃ ┃穆子 藤原温子 菅原衍子 橘義子 源貞子 
 ┃(大原氏)    ┃  ┃┃   ┃時平娘    ┃
 ┣源常812-854  ┃  ┃┣ 源定省(59宇多天皇)867-931
 ┣源明814-853  ┃  ┃┣ 簡子内親王-914  ┣雅明親王,行明親王,載明親王
 ┃(飯高氏)    ┃  ┃┣ 綏子内親王-925 藤原褒子?-?(時平娘 元良親王と恋愛)
 ┣源清(秋篠氏) ┃  ┃斑子女王    ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┣宗子内親王-854┃  ┃                      藤原長良802-856┣-
 ┃(高階氏)    ┣正良親王(54仁明天皇)810-850            ┣藤原淑子┃
 ┣源寛813-876  ┃               ┃ ┣ -       836-891┣藤原基経┃
 ┃(安部氏)   ┣正子内親王810-879┃小野吉子(更衣)   842-910┗藤原高子┃姣子女王?-?
 ┣源生821-872   ┃┣恒世親王805-826┃紀名虎娘・静子 良房┓在原行平娘┃  ┃┃
 ┃(笠氏)  橘嘉智子┣恒貞親王825-884┃ ┣ 紀有常女*5   藤原明子 ┃ ┣陽成天皇876-884
 ┣源安822-853  淳和天皇786-840    ┃ ┣ 惟喬親王(第1皇子)┣清和天皇850-881┣元良親王890-943
 ┃(粟田氏)                       ┣ 道康親王(55文徳天皇)836-858 ┣   ┣元平親王
 ┣純子内親王-863              藤原順子(良房・妹)     ┣源能有 ┃  藤原遠良娘?-?
 ┗斉子内親王-853                    伴氏娘 ┗源厳子
  (文屋氏)

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唐招提寺境内

2009年11月20日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

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秋本茉菜ちゃん 肥後橋にて

2009年11月20日 | 秋本茉菜 綾瀬里緒 Ayuchi あまね 雨宮椿

 

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上矢りせさん中ノ島にて

2009年11月20日 | 上矢りせ 神原みお 華純 きょん

 

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常寂光院・多宝塔

2009年11月19日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 多宝塔は1620年の建立で辻藤兵衛尉直信なる京都町衆が大檀那として献じしものにて、当時の京都町衆の財力をしのばせるとともに、その秀麗さは鎌倉時代の名作石山寺多宝塔とも比肩せらるることしばしばなり。後に霊元天皇より宸筆並尊閣なる三字額の下賜を受け、爾来これを掲げたり。(パンフレットより抜粋)

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三千院への津川沿い山道にて

2009年11月18日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 三千院の起こりは最澄の時代に遡る。 「三千院門跡」という寺名は約130年前に使われるようになったもので、以前は「梶井門跡」と呼ばれ、境内にある往生極楽院は平安時代末期にあった阿弥陀堂を云い、国宝の阿弥陀三尊像を安置している。1118年、堀河天皇第二皇子・最雲法親王が入寺したのが最初で、後醍醐天皇皇子・護良親王も入寺したことがある。 ところで、三千院へは車ですぐ近くまでいくよりも、376号線沿いの駐車場から大原陵前の未明橋への山道を津川沿いにしばらく散歩しながら緑紅・明暗を愉しむのも手である。 

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藤原定家が愛した常寂光寺

2009年11月17日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 常寂光土、それは仏教でいう理想郷を意味します。 ここ常寂光寺は百人一首で詠まれる小倉山の中腹にあり、境内からは嵯峨野を一望でき、秋になると山々が紅葉に包まれます。 その様がまるで常寂光土のような風情をかもしだすことからこの寺号がつけられたと云います。 平安時代に藤原定家の山荘「時雨亭」 (二尊院からも散策することができます) があったと伝わる地で、1596年に日蓮宗・日禎が隠棲の地として当山を開きます。 歌人でもある日禎に小倉山の麓の土地を寄進したのが角倉了以です。 また、本殿は伏見城の客殿を移築し、多宝塔は京都町衆の寄進によって建てられているそうです。 その寺名の通り紅葉の絶景ポイントであることは名景100選などでもお馴染みであることは知っていたのですが、実はここ常寂光寺を訪れるのは初めてのことで、感動を覚えました。 丁度2009/11/16は絶好のタイミングであったようですが、どうやら12月にはいっても散り紅葉を楽しめるのだそうです。

藤原経輔女  
  ┣藤原俊忠1073-1123 堀河院歌壇で活躍
 忠家 ┃
    ┃    六条院宣旨
    ┃     ┣八条院坊門局
    ┣藤原俊成1114-1204 崇徳天皇に親近し藤原基俊に入門
  藤原敦家娘  ┃  ┣後白河院京極局
             ┃ 為忠娘
       ┣八条院三条(鳥羽院皇女八条院に出仕)
       ┃    ┣隆季(四条家の祖) 
       ┃    ┣俊成卿女1171-(後鳥羽上皇に出仕)
       ┃    ┃    ┣具定
       ┃    ┃源通親┓┣女
       ┃    ┃   源通具
       ┃    ┃    ┣
       ┃家成┓ ┃   土御門天皇の乳母
       ┃  ┣藤原盛頼
       ┃  ┗藤原成親(平家討伐を陰議)
       ┃  
       ┣高松院新大納言(祗王御前)
       ┣八条院按察(朱雀尼上)
       ┣八条院中納言(建御前)
           ┣前斎院大納言(竜寿御前)
          ┣藤原定家1162-1241
         ┃    ┣因子(後鳥羽院に出仕 民部卿典侍)
      藤原親忠女      ┣定長(寂蓮)後鳥羽院歌壇 
    (美福門院加賀)   ┣為家
         藤原実宗女┃┣為氏(二条家の祖) 
              ┃┣為教(京極家の祖)
              ┃┣為子(九条道良室)
              ┃宇都宮頼綱娘 
              ┣為守(冷泉) 
               ┣為相(冷泉家の祖)
  阿仏尼(安嘉門院四条:十六夜日記) ┃
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━┛          ┏為賢
 ┣為秀┳為尹┳上冷泉為之┳為富━為広━7為和━8為益━9為満━10為頼 ━━┓
 ┗為成┗為邦┗下冷泉持為┗政為┳為孝┳為豊┳為純━━┳為勝━為将━為景┃
                ┗堯淵┗寿信┣大徳寺僧┣教勝      ┃ 
                      ┗相国寺僧┣惺窩━為景   ┃
                           ┗為将      ┃
  ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
  ┗□━□━23為臣━24為任
            ┣貴実子
             富美子┣
            25為人(兵庫県加古川市出身)

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嵯峨野・落柿舎あたり

2009年11月17日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 嵯峨野はもちろん嵯峨天皇が愛した地であり二尊院、祇王寺、滝口寺など趣のある場所が密集しています。今回は二尊院前の駐車場を本拠地として紅葉の散策をしてみました。 例年よりも一足早い紅葉だったようで、早い目に参上して丁度のタイミングでした。 ここは落柿舎近辺。 落柿舎は向井去来と松尾芭蕉で有名な場所で、向井去来が古家を購入して庵としたもので、1691年に松尾芭蕉が滞在して「嵯峨日記」を残したという。芭蕉が滞在したときは庵は荒れていて蚊帳に上下して5人で雑魚寝をしたらしい。 四畳半の狭い部屋で5人はなかなか寝ることができずに、菓子と杯で話し明かしたと日記にはかいているらしい。 この滞在期間中に嵐山、松尾などを訪れ ほかはずっと落柿舎に篭っていた。というのは落柿舎にいた芭蕉を訪れた客が多くて、芭蕉は人の訪問を愉しんでいたのである。 芭蕉が奥の細道の旅行を終えた1689年から2年後に、ここに滞在しその3年後に、臨終を見届けた向井去来は芭蕉の遺骸を遺言によって木曾義仲の墓がある義仲寺に葬った。 向井去来は長崎でうまれ医者の家業は兄にまかせて、8歳のときに京都に移った。生涯定職にはつかず芭蕉の弟子となって俳諧に人生を投入した。 芭蕉の死後去来が詠んだ句がつぎである。

放すかと とはるる家や 冬ごもり

やがて散る 柿の紅葉の 寝間の跡

 前回落柿舎を訪れたときには改修中でしたが、現在は向井去来庵をゆっくりと見学をすることができます。 そして是非見ておきたいところがすぐ 隣にある有智子 の墓です。 平安時代807-847年に生きた有智子内親王は嵯峨天皇の第八皇女として、母を交野女王に持ち、生まれます。 810年4歳で賀茂の斎院となり、41歳で崩じます。 平安朝随一の女流詩人としてだけではなく、歴史的には「賀茂斎王の初代」として務めを果たしたお方です。 810年、薬子の変を平定した嵯峨天皇は、戦勝の礼と、平安京の安泰を願って、賀茂社に、4才の皇女、有智子内親王を捧げます。 そして伊勢神宮の斎宮にならって賀茂斎院を設立し、伊勢斎宮と同様に、賀茂斎院に入る前には「野宮」と呼ばれる潔斎所で禊ぎを行い、3年間の潔斎を経て斎院へ移ったのです。  「延喜式」巻五・斎宮によれば、卜定によって選ばれた斎王は、まず宮城内の初斎院にて1年間を過ごし、翌年8月上旬に初斎院から野宮に入り、野宮でさらに1年間、翌年9月の伊勢群行/賀茂斎院入院までの期間を精進潔斎します。 天皇が在位している間、斎院は賀茂神社で居住し、退下は天皇の譲位か肉親の喪による時なのは、伊勢斎王と同じである。 野宮は斎王が選ばれる毎に占定によって造られ、伊勢斎宮の場合は嵯峨野に、賀茂斎院の場合は紫野・有栖川に作られたが、必ずしも一定した場所が定まっていたわけではないようである。 賀茂斎院の場所は、一条大路の北方、紫野に所在したため紫野斎院とか、略して紫野院とも呼ばれ単に野宮とも称していた。 今日の京都市上京区の七野(ななの)神社がその跡といわれている。斎院にも伊勢斎宮同様に斎院司という役所があり、長官以下の官人や多くの女官たちが働いていました。 有智子内親王が斎院を退いた後は、嵯峨西荘に住み、生涯を通して独身のまま、847年に41才で没しました。 斎院は嵯峨天皇から順徳天皇まで4百年ばかり続いたが、それは神祇史の上ばかりでなく、平安文学にとっても欠くこ とのできない役割を果たしました。 初代斎王の有智子内親王にはじまり、選子(のぶこ)内 親王、祐子(みわこ)内親王、式子(のりこ)内親王等は錚々たる閨秀歌人であった。式子内親王彼女は、「新古今和 歌集」随一の女流歌人である。

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秋本茉菜さん 天神橋スタジオで

2009年11月16日 | 秋本茉菜 綾瀬里緒 Ayuchi あまね 雨宮椿

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文徳天皇の第一皇子・惟喬親王

2009年11月16日 | 平安時代

 惟喬親王は844年、第55代文徳天皇の第1皇子として誕生します。母は、紀名虎の娘・静子です。また、第4皇子として850年に誕生したのが惟仁親王で、時の太政大臣藤原良房の娘・明子を母に持ちます。 文徳帝は第一皇子の惟喬親王を皇太子にたてようとしますが、藤原良房は自己の地位を利用して外孫である惟仁親王に皇位を継がせ、権勢をほしいままにしよう企て、惟喬親王の存在を秘かに亡きものにしようと企てます。 文徳天皇は、このことを知ると惟喬親王に都落ちを揶揄し、惟喬親王も東宮の安泰を願って弟・惟仁親王に皇位を譲るべく都を後に隠遁の旅に出ます。 藤原良房は数名の刺客を惟喬親王に差し向けたため、親王は山から山へと数年彷徨った末に小椋谷に逃れ込みようやくこの地にご幽棲されることになったと云います。 幽棲後の親王は、民人の貧しい生活に日夜心を痛め、膳・盆・椀など民業の開発に力を注いだ。 親王は、859年に小椋庄に入山し、865年蛭谷に筒井八幡宮を建立します。

 ところで、惟喬親王といえば『伊勢物語』が有名で、『源氏物語』にも影響を与えた歌物語であり、『伊勢物語』の主人公と云われる在原業平が仕えていたのが惟喬親王です。 在原業平は、「薬子の変」を起こした平城天皇の第一皇子・阿保親王の第五子として825年に生まれます。 惟喬親王よりは19歳年上で、業平の義父(紀有常)と惟喬親王の母(紀静子)が ともに紀名虎を親に持つ兄妹の関係にあったことなどから、藤原氏の圧倒的な勢力のもと、同じく不遇を託っていた業平は、紀有常らとともに 惟喬親王に仕え、和歌に親しむこととなります。

京都・大原にある惟喬親王の墓に辿りついたときにはほぼ真っ暗でした

 


               伊都内親王(桓武皇女)
       是公娘・吉子-807       ┣ 在原行平818-893
    ┣ 伊予親王     伊勢継子┣ 在原業平825-880
      ┃乙牟漏皇后 760-790  ┣阿保親王792-842 
      ┃┣ 高志内親王789-809 ┣高岳親王799-865 
      ┃┣ 安殿親王  774-824(51平城天皇)
和新笠 ┃┣ 賀美能親王784-842(52嵯峨天皇)
 ┃   ┃┃   ┃┃┏藤原乙春842-866
 ┣山部王(桓武)┃┃┗藤原沢子   -839     藤原元善
 ┃ 737-806   ┃┃  ┃ ┗藤原佳美子-898  ┃平等子
 ┃           ┃┃  ┃    ┣-      ┃┣-
 ┃           ┃┃  ┣58光孝天皇830-887時康親王
 ┃           ┃┃  ┃┃  ┃       ┏藤原時平871-909
白壁王709-781 ┃┃  ┃┃   ┣源旧鑑    ┗藤原穏子885-954中宮(時平・妹)
(49代光仁天皇) ┃┃  ┃┃   ┣源和子-947(女御)┣康子内親王919-957(師輔妻)
         ┃┃  ┃┃   ┣忠子┣慶子内親王┃ 藤原安子(師輔娘)
         ┃┃  ┃┃-899┗周子┣常明親王 ┃   ┣63冷泉天皇
          ┃┃  ┃┣為子内親王┃藤原淑姫 ┃-948┣64円融天皇 壮子女王
 ┏━━━━━━┛┃  ┃┃高藤    ┃┃┃藤原桑子┃    ┣為平親王  ┣具平親王
 ┣有智子内親王 ┃  ┃┃┣定方  ┃┃┃┃和香子┣成明親王(62村上)926-967
 ┃母交野女王斎院┃  ┃┃┃┗能子┃┃┃┃┃-935┣寛明親王(61朱雀)923-952 
 ┃         ┃  ┃┃┗胤子┃┃┃┃┃┃  ┃藤原時平871-909 ┣昌子内親王950-1000
 ┃         ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┃┣保志890-936  ┃(和泉式部┣-
 ┃         ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┃┣褒子(宇多女御)┃  奉仕)┣-
 ┣源貞姫810-880 ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┃┣仁善子-946  ┃  冷泉天皇
 ┃(布勢氏)   ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┃廉子女王┣煕子女王-950
 ┃       ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┃    ┣慶頼王920-925
 ┃       ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┣保明親王903-923(第二皇子 醍醐皇太子)
 ┣源潔姫809-856 ┃  ┃┃   ┣60代醍醐天皇885-930延喜帝   
 ┃(当麻)┣明子 ┃  ┃┃   ┃ ┃┃┃┣克明親王903-927(第一皇子),宣子内親王(斎院)
 ┃藤原良房┗文徳┃  ┃┃   ┃ ┃┃┃源封子(更衣 源旧鑑娘)
 ┣源信810-869  ┃  ┃┃  ┃ ┃┃┣代明親王904-937(邸宅は伊尹,行成の邸とす)
 ┃(広井氏)   ┃  ┃┃   ┃ ┃┃藤原鮮子-915┣源重光 923-998
 ┣源弘812-863  ┃  ┃┃   ┃ ┃┃       ┣恵子女王925-992(伊尹妻 義孝母)     
 ┃(上毛野氏)  ┃  ┃┃   ┃ ┃┣重明親王-954┣壮子女王930-1008(村上帝妃具平母)
 ┣源融823-895  ┃  ┃┃   ┃ ┃源昇娘      ┣厳子女王(頼忠妻 公任母)
 ┣源勤824-┣源昇┃  ┃┃   ┃ ┣勤子内親王 定方娘
 ┃(大原氏)┗源湛┃  ┃┃   ┃ ┣源高明914-982
 ┣源定816-863  ┃  ┃┃   ┃源周子 ┣俊賢959-1027
 ┣源鎮824-881  ┃  ┃┃    ┃-935  ┣明子965-1049
 ┣基子内親王-831┃  ┃┃   ┃   愛宮  ┣頼宗、能信、寛子
 ┣基良親王-831 ┃  ┃┃   ┣敦実親王  藤原道長966-1028
 ┣忠良親王-876 ┃  ┃┃   ┃ ┣源雅信  ┣彰子、頼通、教通
 ┃(百済系)    ┃  ┃┃   ┃ ┃ ┣源倫子964-1053  
 ┣仁子内親王-889┃  ┃┃   ┃ ┃穆子 藤原温子 菅原衍子 橘義子 源貞子 
 ┃(大原氏)    ┃  ┃┃   ┃時平娘    ┃
 ┣源常812-854  ┃  ┃┣ 源定省(59宇多天皇)867-931
 ┣源明814-853  ┃  ┃┣ 簡子内親王-914  ┣雅明親王,行明親王,載明親王
 ┃(飯高氏)    ┃  ┃┣ 綏子内親王-925 藤原褒子?-?(時平娘 元良親王と恋愛)
 ┣源清(秋篠氏) ┃  ┃斑子女王   ┗━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┣宗子内親王-854┃  ┃               藤原長良802-856┣-
 ┃(高階氏)    ┣正良親王(54仁明天皇)810-850     ┣藤原淑子┃
 ┣源寛813-876  ┃        ┃ ┣ -       836-891┣藤原基経┃
 ┃(安部氏)   ┣正子内親王┃小野吉子(更衣)   842-910┗藤原高子┃姣子女王?-?
 ┣源生821-872 橘嘉智子┣恒世┃紀名虎娘・静子 良房┓在原行平娘┃  ┃┃
 ┃(笠氏)           ┣恒貞┃ ┣ 紀有常女*5   藤原明子 ┃ ┣陽成天皇876-884
 ┣源安822-853   淳和天皇  ┃ ┣ 惟喬親王(第1皇子)┣清和天皇850-881┣元良親王890-943
 ┃(粟田氏)                ┣ 道康親王(55文徳天皇)836-858 ┣   ┣元平親王
 ┣純子内親王-863       藤原順子(冬嗣・妹)     ┣源能有 ┃  藤原遠良娘?-?
 ┗斉子内親王-853                伴氏娘 ┗源厳子
  (文屋氏)

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