平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

静御前生誕の地

2009年09月24日 | 平家物語

 京丹後市網野町磯は源義経の愛妾として知られる静御前1167-1190(平安末期の白拍子の舞姫) の生誕の地です。 磯禅師の娘として(拾われて育てられた)1167年に生まれた静は6歳で父を亡くし、故郷を後に母・禅師と京都に上ります。 巧みな舞と美しさで静は指折りの白拍子に成長すると、1182年7月、後白河上皇の前、京の神泉苑で雨乞いの神事を行った時、日本一の舞を披露します。 後に、堺の住吉神社の舞会で平家追討に来ていた源義経に見初められて側室になります。 静18歳、義経27歳でした。 義経は平家滅亡後、兄頼朝と不仲になり、1185年、11月6日静を連れて吉野山に逃げましたが、別れ別れとなった身重の静は11月17日捕らわれて1186年3月1日磯禅師とともに鎌倉に送られました。 1186年4月8日、鶴岡八幡宮で頼朝をはじめ並みいる武士たちの前で、

吉野山峰の白雪ふみわけて 入りにし人の跡ぞ恋しき

しづやしづ賤のをだまき くり返し 昔を今になすよしもがな

と義経を慕って歌いますが、頼朝の怒りにふれ、幽閉されます。 1185年7月29日に男子を生むが、頼朝の手により由比ヶ浜に棄てられ、逃亡中の義経の安否を祈っての死を覚悟した舞でした。  後に1186年9月16日に母と故郷の磯に帰った静は、生家跡に小さな庵をつくり、義経の無事と愛児の冥福を祈りますが、1189年文治5年静22歳の春に、義経を求めて奥州に向かうが、途中で息絶えたといわれています。 1190年4月28日静御前23歳でした。 供として同行した侍女が尼となり静の墓を守り、その後北条政子が勢力を増した時に静のことを哀れに思い庵を造り静を供養したそうです。 白拍子は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて一世を風靡した歌舞の一種で、白い直垂・水干に立烏帽子、白鞘巻の刀をさすという男装姿で、女性が歌や舞を披露するものですが、これを歌い舞う遊女を指すようにもなりました。 起こりは神に踊りをささげる巫女のようなものだったらしいが、当時衣装が一世を風靡し、神前だけではなく、貴族や武士の家にも招かれたようである。 当然のことながら、個人的に貴族のお目に留まり・・・を期待し自ら呼ばれもしないのに出張披露する場合も多かったものと想像します。祇王・仏御前などはそういう例だったそうです。

 

 

----- 新平家物語より -----

 元服前の義経・遮那王が鞍馬山で暮らし、15歳になったとき天狗こと源氏の落ち武者の助けを借りて逃亡を図った。 そのときに実は平清盛の寵愛を受けた祇王庵に立ち寄っている。金売吉次を伴って奥州藤原氏のもとへ参じる計画があったわけであるが、その吉次と密会するために祇王庵で落ち合ったのである。 そのとき祇王は25歳。もちろん妹の祇女、仏御前にも会ったと思われる。 15歳の遮那王は小柄であったため、たいそういたいけな少年にみえたようで、「かわいいわね・・」などとからかわれている。 さて、吉次の計画で後に奥州に旅するのであるが、時はまだ早々であるとして、しばらく洛中に身を潜めることとなる。 平家一族が、遮那王をやっきになって探していたからである。 そして、遮那王は追っ手から逃れるために、化粧を施し髪も女風にし、袴も艶やかな女童姿となった。眉白粉にべにをつけ、可憐な白拍子の雛となる。 そして名を龍胆(りんどう)とかえて呼ぶこととした。 実はこのとき多くの白拍子とであっているのであるが、後に結ばれる静御前とも出会い、ともに一条で遊び暮れ車の中で抱き合って寝てしまったことがあったのである。 遮那王は奥州へ旅立つ前に一度、母・常盤に会いたかった。鞍馬では金王丸(遮那王の父・義朝の家臣)から母の知らせは受けており、僧として立派に16歳の剃髪の儀を望まれていたが、遮那王にはその意思はなかった。 当時母・常盤は清盛の寵愛を受けた後、一条長成に嫁いで、三十路の半ばになっていた。  常盤はもちろん昼夜を問わず平家の囮となって見張り役がついていたため、金王丸でさえ近づくことは難しく、遮那王を説得する。 こうして平家を討つことにより母・常盤御前との再会を果たそうと思うのである。 そうこうして奥州への期をうかがっていた翌年の16歳のとき、白拍子の雛妓姿の遮那王、龍胆は五条橋の欄干にもたれていた。彼が身を寄せていた家の姉妹とともに五条の市へ雛祭りの買い物の帰りである。 父・義朝の思いにふけっていたその時、「牛若!」と女衒の朽縄が迫ってくる。 いよいよ都の生活も潮時がやってきたのである。

 一の谷の戦いの洛へ凱旋した後、あわただしく警護などをこなしていた義経である。 しばらくして鎌倉頼朝から褒美の沙汰が伝えられた。 蒲冠者範頼の官位も上がり、そのた頼朝の郎党なども漏れなく褒美に預かった。 しかし何故か義経には何の沙汰もなかった。 弁慶、伊勢三郎などの恨みは静まる気配がないのである。 しかし義経は兄・頼朝の意であるからと、家臣をなだめる始末である。 とりわけ義経は後白河法皇の信任は厚かったため、院の臣・高階泰経なども義経を気遣うのである。 なにしろ無位無官では警護の指揮ひとつやりにくい。  後白河法皇の思し召しにより、義経は左衛門少将に任じ、検非違使を兼任させるべく宣旨があった。 ところが義経は頼朝の御意にそむくものと固く辞退するのである。 ところが再三当日だけでもと官位の受諾を進めた。 高階泰経や、源行家もである。 そして後鳥羽天皇の即位の儀が盛大に執り行われた。 この時沿道の群集のなかの多くの白拍子のなかに、義経がとらえた白い顔があった。 義経は官位というものよりも平家打倒のみが頭の中にある。 すべては兄・頼朝のためである。 官位は仕方なく受けたが、その仔細を鎌倉・ 頼朝へ送った。 しばらくして、頼朝から、西国への下向の宣旨の取りやめの文書が届く。 摂政・松殿こと藤原基房の邸への招きなども取りやめになった。  兄 頼朝は知らないところで 左衛門少将、検非違使を兼任という宣旨に怒っているに違いないと察せられた。 その夜、ある白拍子が義経を訪ね、小さな紙片を託して帰ったと那須大八郎がゆうのであった。 「松殿の邸に白拍子として馳せ参じた際、松殿以上にがっかりしたのは私でございました」 との言葉でしたと。  義経は紙片にかかれた文字にうっとりして、10年前の龍胆の頃を思い出していた。 鞍馬山から脱走して、一時龍胆と名を変え、磯の禅師の家に匿われていた。 その愛娘が静である。 義経16歳のとき静は9歳であった。 いつかお互い遊び暮れて遠くの町外れから車で帰る途中、ひとつに抱き合って寝てしまったことがあった。 そして5年前、平時忠の邸での再会をした。 堅田の仲間と引き換えに義経ひとりで時忠に赴き、囚われの身となったときである。 宴の席で舞った白拍子のなかに15歳の静がいたのである。 そのときに静が舞いつつ歌ったものと同じ歌が、紙片に書かれていた。 やはり那須大八郎へ言伝たのは静であった。 「白糸や しずのおだまき いとし白糸 色もやと 云うなれ人は・・・・ 染めもせば 染む身ならねど 龍胆の濃いむらさき・・・」  さまざまな浮かれ男たちのうるささを厭って、身を染めるならば龍胆の紫に染まりたい・・・。しかし、しずのおだまきに等しい身の上、せめて龍胆のそばで露となりたい・・・。  静が神泉苑で雨乞いの舞を披露して喝采を得たのが15歳のとき、そして翌年、平時忠の舘に招かれて偶然義経に再会したが、それ以降、木曾義仲の暴挙に怯えた静親子は淡路の里へ帰っていた。 そして先ごろ木曾が東国源氏に破られたと聞いて、上洛した静は密かに義経にめぐり合えるかもしれないと胸をときめかせていたのである。 しかし初めてであったといの龍胆とは、違う。 源氏の大将として名を馳せた義経である。 身分の卑しい静が思い悩むのはそれであった。  そしてしばらくして、磯禅師の家に義経の家来・伊豆有綱と佐藤忠信が訪れたのである。 挨拶の後、中へ通されると、ふたりは云った。 「娘御の静殿を我が主の下へくださるまいか。それがおいやなら黙って目をつぶってもらいたい。われら両名が静殿をさらって行こう。大江山の鬼にでもさらわれたと思ってもらいたい。」 と、東国武者らしく、切り出したのである。 五日後には静親子は白川の鼓小屋にはいなかった。 義経のいる堀川の邸の庭伝いにある六条で義経とひとつ屋根の下にいる・・・と思うと夢心地なのである。

 義経判官は静、弁慶、佐藤忠信、堀弥太郎とともに吉野山へはいっていくが、途中で静と別れ、静には幾人かの雑色を伴わせて都へ帰るようにいっている。 女人禁制の結界とあれば、仕方がなく別れるのである。 静は後に僧侶に捕われ、一方義経は、佐藤忠信、堀弥太郎を殿軍として、姿を消すことになる。 頼朝は、義経都落ちのあと、嵐に遭遇後行方不明になると知るが、相変わらず冷静である。 側近の因幡前司・大江広元、舅の北条時政、千葉介常胤らを従え、院の出方を伺っているようでもある。 伊豆に配流になっらころから平家の監視のもとに育った頼朝であるだけに、人を疑い冷酷な見方ができる御方になったが、側近の大江広元というひとも、冷徹さで人に知られていた。 恐らく、その大江広元の後ろ盾もあったと思うが、大和守重弘、一品房昌寛に入洛を命じて、先の朝廷の処置に対する陳述を求めている。 つまり、義経、行家に対する頼朝追討の宣旨である。 そして両名に九州・四国を支配する権限を与えたことに対する説明を求めたのである、 なかば脅迫ともいえるものであったらしい。 そのときの院の言い訳とも思える陳述に対して、日本一の大天狗と評したのは有名である。 富士の裾野の黄瀬川で、義経の行方不明を知った頼朝は、上洛を取りやめ鎌倉へ帰った。 そして、そのときに和田義盛に軍事を緩めず命令すると、直後に義経の側室となった、百合野の父・河越重頼から領地の没収を行っている。 義経に縁のある輩はことごとく許さないという意思表示である。 もともと、河越重頼は、頼朝・政子の命令で義経の監視役として、娘の百合野を提供させているのであるから、 考えてみれば、非道極まりないのであるが、 これも大江広元の冷酷さが裏で糸をひいているように思える。 大江広元の底知れない不気味な妖気は、後年までその定評を鎌倉に残したのである。 そして洛の大天狗は今度は、うってかわって義経の伊予守の職を剥奪し、身柄を拘束せよ、と布令し、頼朝は都に土肥実平、北条時政の大軍を差し向け、不気味な様相と化していた。 ところが義経という相手がいないのである。 何ゆえにこのような大軍を都へ差し向けたのであろうか。 平家の所領はいまとなっては頼朝の意のままであるが、朝廷の所領には頼朝といえども手をだすことはできない。つまり、仰々しい威嚇は、院を手の内に入れることにより、朝廷の領地を思いのままにせんとの意図があったに違いない。 こうして、源頼朝、北条時政、大江広元の要請は朝廷に奉じられ、初めて日本の全土に守護地頭の制が布かれ武家政治が始まることになるのである。 守護には幕府の武将が任ぜられ、警察権を握る。 そして地頭は公卿・寺社の田領を管轄する。 また、義経方の大蔵卿泰経などは流罪となり、摂政には九条兼実がつき、その他の官職には全て、鎌倉の推挙による人々が任官した。 義経主従は吉野山を徘徊し、多武ノ峰の南院 藤室の十字坊にたどりついていた。十字坊は鞍馬の学問所にいたことがあり、牛若を見覚えている人である。 吉野山を落ちて、そこから辿った行き先は不明であるが、十字坊の弟子8人に囲まれて逃げ延びたことは確かである。 彼らは特殊な旅法師に化け、離れてはいながら常に環をなしている。 故に頼朝追捕の兵が躍起になっても捕まることはなかった。 そして月日を重ねるにしたがって義経への見えない同情が彼への庇護にかわっていったのだろう。 義経一向は奈良興福寺の勧修房聖光やら鞍馬、叡山などから 匿い申しあらん との誘いがあった。 そして奈良へ足を向けようとしていたやさきに、静御前が鎌倉送りになるという情報が藤室八僧のうちのひとり拾禅からもたらされた。 彼らは奈良を頼る義経、弁慶などと 静を奪取する伊豆有綱、鎌田正近らにわかれた。  後に三河遠江近辺で静御前護衛の役人が襲撃をうけている。 ところがその輿に乗っていたのは静母子とは似ても似つかない偽者であった。 そして無数の矢が襲撃者めがけて射られた。 真の静母子はさりげない行装の下に鎌倉へ送られ、安達新三郎清経の宅へ預けられた。 

 洛中では、鎌倉の命により義経を躍起になって探している。東国武者幾千騎である。 静と別れた義経一向は、藤室の八僧に護衛されながら吉野から伊勢、奈良と転々とし、その居所は全くわからない。 洛と奈良近辺で神出鬼没な土佐の君という屈強な僧兵らしき者が義経の居場所を知っているという。 しかしその者を、千光坊七郎とも叡山の俊章とも武蔵坊弁慶ともいわれ、全く実態がつかめないでいた。  実は、義経主従は堅田三家に匿われてたのである。 三家とは、堅田家、刀禰家、居初家をいい、義経が奥州平泉から熊野へ上った頃から縁があった。 平家全盛の頃、洛内にて群盗騒ぎ、放火沙汰が相次いだが、あれは叡山の党衆と堅田党が起こしたものであったが、平時忠に一網打尽にされたことがあった。 その時に全員の身柄が放たれたのである。 それは義経が自ら人質となって平時忠を訪れ開放を願い出たからである。 もちろん条件つきである。 今、堅田党はそのときの恩に報いるべく結束し、 匿っていたのである。 今や、頼朝の所領の追尾も堅田に及ぶことも考えられ、頼朝追討の意さえも表していたのである。 一方、阿部麻鳥は静御前から預かった義経への文を携えて、あてもなく義経を探そうと放浪の旅医者をしていた。 そして刀禰弾正介の北の方の手当てをする偶然に出会ったのである。 北の方を診るために訪れたのは、刀禰家であった。 そして仔細を聞いた麻鳥は、まもなく義経主従に会うこととなる。 そこで知ったことであるが、土佐の君とは刀禰弾正介の嫡子・左金吾、千光坊七郎とは居初権五郎、叡山の俊章とは堅田帯刀であった。 義経主従が匿われていた場所とは、琵琶湖の北の磯遠くに浮かぶ小さな島、竹生島であった。 そして今からは、奥州へ落ち延びる覚悟でいた。 そして義経は刀禰弾正介から手渡された静からの文を読んだ。 「今朝鎌倉へひかれて下りまする。君はいずこに。また、身はどこへひかれましょうとも・・・・。吉野山のおことば、日夜、忘れませぬ。今更の、おこたえとて、重ねませぬ。 ただただひとつ、すぐにでも告げまいらせたいうれしい兆しが、身のうちに宿りました。詳しいことは薬師の麻鳥からお聞き取り賜りませ。 もう、迎えの獄卒が門にきております。 ごきげんよう。」 義経は静が身篭っていることは知らなかった。 身重でありながら鎌倉へ詮議を受けにいく辛さを思うと涙がでてとまらない。 かつて、ここ竹生島は木曾義仲が洛入し、平家の大軍が北陸へ下る時に、平皇后宮亮経正が立ち寄り阿部麻鳥と対面し清盛公の臨終の際世話になったと琵琶の音を披露した。 そして経正は一の谷で見事に果てたのである。 老禰宜から、そのようなことも聞くと義経の胸は尚一層痛むのである。 義経は奥州へ下る前に是非ともあっておきたい人がいた。 仁和寺の門主守覚法親王である。覚性入道親王の後を継いだ、後白河法皇の第四王子である。洛入りは至難の業であったと思われる。よほど宮に会って話を望んだのだろう。宮の著書、御室左右記に、このときの出来事が見聞随想として書いておられるのである。 

 西行法師も今は70歳になろうとしていたが、ある目的があって奥州平泉を目指して旅をしていた。 俗名は佐藤義清とい若かりし頃には、平清盛とともに兵衛尉に任ぜられ、鳥羽上皇の北面として奉仕していたが23歳の時に出家し、のちに西行と称した。 袈裟御前と縁多い文覚(俗名 遠藤盛遠)も北面時代の仲間である。 出家の動機は諸説あるが、一説に白川院の愛妾にして鳥羽院の中宮であった待賢門院璋子への恋着のゆえであったとも言われている。 出家後はしばしば旅に出て多くの和歌を残した。 讃岐国では崇徳院の陵墓白峰を訪ねてその霊を慰めたと伝えられている。 先日鎌倉の頼朝に面会したあと、静御前を慰めていた安達新三郎清経と話を交わしたあの貧乏法師が、西行でもある。 この旅では、途中病に倒れ木賃の者から芋粥などを乞いながら、やっとの思いで奥州にたどり着いていた。次のような歌からも伺える。「捨て果てて 身はなきものと おもひしも 雪の降る日は 寒くこそあれ」 鎌倉を出たのが八月であったが思わぬ病気などで奥州に着いたのは雪深い真冬である。 奥州藤原秀衡は西行の到着を心から歓迎し、いたわった。 実は秀衡と西行は遠い親戚にあたり、会うのも今回が二回目である。 西行は東大寺重源上人の切なる依頼から、ぜひなく下ってきたこと、 そして大仏殿造営の寄進を乞うのが目的であることを告げた。 西行はしばらくこの平泉に逗留していたがいろいろなことが耳に入ってくる。 秀衡には長兄・国衡のほか、正妻の嫡子・泰衡、高衡、忠衡、通衡、頼衡と六男がいたが、父秀衡を受け継ぐ器量の持ち主がいないとか、 義経の奥州入りがまじかとみえて、館拵えの造作で忙しいとか。 何故か悪い予感に憂いを抱く西行である。 いつか頼朝の命で夜襲を行った土佐坊昌俊が義経の返り討ちに会ったときには、頼朝は、頼もしい弟になったことよと喜んでいる。 また、今回の義経奥州くだりも、頼朝にとっては奥州攻めの大義名分ができて、喜んでいるのではないかとさえ、思う西行であった。 春になると西行は奥州を後にした。 かつては門脇殿の所領とか小松殿の所領とか、いずこの地でもみられた門が、今や鎌倉の地頭にいれかえられている。 守護地頭の兵がなだれ込んだ際に、平家の末の末という人々は皆山の奥地へ逃げ込んだ様をみると尚一層憂う西行である。

コメント

石鎚山・標高1982mは西日本一

2009年09月24日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

コメント

宮津・魚っ知館にて

2009年09月23日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

フエヤッコダイ                      アミメキンチャクダイ?

 

コメント

街角案内人

2009年09月23日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

  

コメント

小野小町終焉の地

2009年09月23日 | 平安時代

 小野小町終焉の地である丹後本町・五十河には小野氏の所領があったため小野小町は終焉の地に選び、小野山妙性寺にはその伝説にちなんだ貴重な資料「小野小町姫」と書かれた巻物が残されています。

 平安の歌人・小野小町は、出羽の国福富の荘桐木田の地で、郡司の小野良真の娘として生まれました。 たいそう美しい娘で13歳にして都へのぼり 都の風習や教養を身につけ、 その後20年程宮中に仕えたといいます。 容姿の美しさや才能の優れていることなど、 多くの女官中並ぶものがないといわれ、 数々の逸話や伝説を残し、晩年は、世を避け、 香を焚きながら自像を刻み92歳で世を去りました。 「小町」というのは天皇の妻のうち更衣に与えられた名であったと考えられ、小野小町という名は当時の有力貴族小野氏出身の更衣だったことを示しています。このことから9世紀中頃に小野氏から宮仕えし活躍していた「小野吉子」が小町の本名ではないかと推測されています。 小野小町は当時、仁明天皇に仕えていました。そして思い焦がれていたと推測されています。しかし、小町は更衣という身分ではありながら天皇の寵愛はそれほど受けていなかったようです。 850年、仁明天皇は41歳でこの世を去りました。その後、小町は宮仕えを辞し里に戻り、再婚などもしなかったようです。小町の歌には他の男のプロポーズの歌への返答歌もあるのですがどれもやんわりと断っています。それなのに、浮名の噂を流されたりして、その時の嘆きの歌が次です。

うきことを 忍ぶるあめの 下にして 我が濡れ衣は ほせど乾かず

花の色は うつりにけりな いたづらに 我身世にふる ながめせしまに

 これは、日本初の勅撰「古今集」に挿入された詠歌で、時代の思潮をしっかり残します。 また。古今集の巻頭を飾った夢の歌三首が次のものです。

思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせばさめざらましを

うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものはたのみそめてき

いとせめて恋しき時はむば玉の夜の衣を返してぞ着る

 全部で18首が入る「古今集」は醍醐天皇の勅命によって905年に奏覧されたもので、小野小町はその100年ほど前に生きた女性です。 600年に聖徳太子が遣わした遣隋使以来、中国が隋から唐に変遷するなかで、日本の唐文化の輸入に政策に大改革が起こります。 その発端は、醍醐天皇と父・宇多上皇が登用していた菅原道真が時の摂関家・藤原時平の政略により大宰府に左遷されることに始まります。右大臣にまで登りつめた唐国派の道真が失脚することにより政府方針に大変革を及ぼしたのです。 それは894年の遣唐使の廃止です。 これを機に歴史に顕れたのが紀貫之で、「古今集」を編纂し漢文学にかわって仮名文学「土佐日記」を著したのです。そしてこの歴史の転換期に六歌仙(僧正遍昭・在原業平・文屋康秀・喜撰法師・大友黒主)の唯一の女性として登場した歌人こそ小野小町でした。 小町は小野篁の子・良真を父に持つと云われており、小町と贈答歌を交わしたのは仁明天皇に出仕していた安倍清行・小野真樹・文屋康秀らで、830年頃に生まれ850年頃宮廷にかかわったと思われます。 そして仁明天皇の更衣・小野吉子が小町であったのではないかという説が自然となっているそうです。 

               伊都内親王(桓武皇女)
       是公娘・吉子-807       ┣ 在原行平818-893
    ┣ 伊予親王     伊勢継子┣ 在原業平825-880
      ┃乙牟漏皇后 760-790  ┣阿保親王792-842 ┃
      ┃┣ 高志内親王789-809 ┣高岳親王799-865 *5
      ┃┣ 安殿親王  774-824(51平城天皇)
和新笠 ┃┣ 賀美能親王784-842(52嵯峨天皇)
 ┃   ┃┃   ┃┃┏藤原乙春842-866
 ┣山部王(桓武)┃┃┗藤原沢子   -839     藤原元善
 ┃ 737-806   ┃┃  ┃ ┗藤原佳美子-898  ┃平等子
 ┃           ┃┃  ┃    ┣-      ┃┣-
 ┃           ┃┃  ┣58光孝天皇830-887時康親王
 ┃           ┃┃  ┃┃  ┃       ┏藤原時平871-909
白壁王709-781 ┃┃  ┃┃   ┣源旧鑑    ┗藤原穏子885-954中宮(時平・妹)
(49代光仁天皇) ┃┃  ┃┃   ┣源和子-947(女御)┣康子内親王919-957(師輔妻)
         ┃┃  ┃┃   ┣忠子┣慶子内親王┃ 藤原安子(師輔娘)
         ┃┃  ┃┃-899┗周子┣常明親王 ┃   ┣63冷泉天皇
          ┃┃  ┃┣為子内親王┃藤原淑姫 ┃-948┣64円融天皇 壮子女王
 ┏━━━━━━┛┃  ┃┃高藤    ┃┃┃藤原桑子┃    ┣為平親王  ┣具平親王
 ┣有智子内親王 ┃  ┃┃┣定方  ┃┃┃┃和香子┣成明親王(62村上)926-967
 ┃母交野女王斎院┃  ┃┃┃┗能子┃┃┃┃┃-935┣寛明親王(61朱雀)923-952 
 ┃         ┃  ┃┃┗胤子┃┃┃┃┃┃  ┃藤原時平871-909 ┣昌子内親王950-1000
 ┃         ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┃┣保志890-936  ┃(和泉式部┣-
 ┃         ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┃┣褒子(宇多女御)┃  奉仕)┣-
 ┣源貞姫810-880 ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┃┣仁善子-946  ┃  冷泉天皇
 ┃(布勢氏)   ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┃廉子女王┣煕子女王-950
 ┃       ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┃    ┣慶頼王920-925
 ┃       ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┣保明親王903-923(第二皇子 醍醐皇太子)
 ┣源潔姫809-856 ┃  ┃┃   ┣60代醍醐天皇885-930延喜帝   
 ┃(当麻)┣明子 ┃  ┃┃   ┃ ┃┃┃┣克明親王903-927(第一皇子),宣子内親王(斎院)
 ┃藤原良房┗文徳┃  ┃┃   ┃ ┃┃┃源封子(更衣 源旧鑑娘)
 ┣源信810-869  ┃  ┃┃  ┃ ┃┃┣代明親王904-937(邸宅は伊尹,行成の邸とす)
 ┃(広井氏)   ┃  ┃┃   ┃ ┃┃藤原鮮子-915┣源重光 923-998
 ┣源弘812-863  ┃  ┃┃   ┃ ┃┃       ┣恵子女王925-992(伊尹妻 義孝母)     
 ┃(上毛野氏)  ┃  ┃┃   ┃ ┃┣重明親王-954┣壮子女王930-1008(村上帝妃具平母)
 ┣源融823-895  ┃  ┃┃   ┃ ┃源昇娘      ┣厳子女王(頼忠妻 公任母)
 ┣源勤824-┣源昇┃  ┃┃   ┃ ┣勤子内親王 定方娘
 ┃(大原氏)┗源湛┃  ┃┃   ┃ ┣源高明914-982
 ┣源定816-863  ┃  ┃┃   ┃源周子 ┣俊賢959-1027
 ┣源鎮824-881  ┃  ┃┃    ┃-935  ┣明子965-1049
 ┣基子内親王-831┃  ┃┃   ┃   愛宮  ┣頼宗、能信、寛子
 ┣基良親王-831 ┃  ┃┃   ┣敦実親王  藤原道長966-1028
 ┣忠良親王-876 ┃  ┃┃   ┃ ┣源雅信  ┣彰子、頼通、教通
 ┃(百済系)    ┃  ┃┃   ┃ ┃ ┣源倫子964-1053  
 ┣仁子内親王-889┃  ┃┃   ┃ ┃穆子 藤原温子 菅原衍子 橘義子 源貞子 
 ┃(大原氏)    ┃  ┃┃   ┃時平娘    ┃
 ┣源常812-854  ┃  ┃┣ 源定省(59宇多天皇)867-931
 ┣源明814-853  ┃  ┃┣ 簡子内親王-914  ┣雅明親王,行明親王,載明親王
 ┃(飯高氏)    ┃  ┃┣ 綏子内親王-925 藤原褒子?-?(時平娘 元良親王と恋愛)
 ┣源清(秋篠氏) ┃  ┃斑子女王   ┗━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┣宗子内親王-854┃  ┃               藤原長良802-856┣-
 ┃(高階氏)    ┣正良親王(54仁明天皇)810-850     ┣藤原淑子┃
 ┣源寛813-876  ┃        ┃ ┣ -       836-891┣藤原基経┃
 ┃(安部氏)   ┣正子内親王┃小野吉子(更衣)   842-910┗藤原高子┃姣子女王?-?
 ┣源生821-872 橘嘉智子┣恒世┃紀名虎娘・静子 良房┓在原行平娘┃  ┃┃
 ┃(笠氏)           ┣恒貞┃ ┣ 紀有常女*5   藤原明子 ┃ ┣陽成天皇876-884
 ┣源安822-853   淳和天皇  ┃ ┣ 惟喬親王(第1皇子)┣清和天皇850-881┣元良親王890-943
 ┃(粟田氏)                ┣ 道康親王(55文徳天皇)836-858 ┣   ┣元平親王
 ┣純子内親王-863       藤原順子(冬嗣・妹)     ┣源能有 ┃  藤原遠良娘?-?
 ┗斉子内親王-853                伴氏娘 ┗源厳子
  (文屋氏)

 

コメント

・・・

2009年09月23日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

コメント

大国主命伝承舞

2009年09月23日 | 記紀創世紀

コメント

紀伊徳川家の祖・頼宣

2009年09月21日 | 池波正太郎 江戸時代

 徳川家康が孫のような側室・お万の方に生ませた十男が頼宣、徳川御三家の紀伊徳川家の祖である。 お万の方は家康との間にもうひとり頼房・徳川水戸家の祖を設けている。 関ヶ原の戦いで勝利して西軍の大名の所領を大量に没収した徳川家康は、武田家の名跡を継いでいた武田信吉が若くしてなくなったことで宙に浮いていた遺領をわずか2歳の頼宣に与えたが、結局頼宣が一度も水戸入りしないうちにその領土は駿河、遠江50万石に加増転封され、紀伊伊勢55万石が与えられることとなった。 頼宣が元服すると領主として紀伊国和歌山へ入部する。 このとき本家からの付家老として安藤直次が紀伊田辺城、水野重央が紀伊新宮城をあたえられ、監視役を担った。   1614年大坂冬の陣で初陣を飾り、翌年の大坂夏の陣では天王寺・岡山の戦いで後詰として活躍し、1617年に加藤清正の第五女・八十姫(瑤林院)を正室としている。 紀州徳川家の家祖となったのは1619年紀伊国紀州藩55万5千石に転封したときで、入国後は、和歌山城の改築、城下町の整備や、地元の国人を懐柔する地士制度を実施した。1651年の慶安の変において、由井正雪が頼宣の印章文書を偽造していたため幕府に謀反の疑いをかけられ、10年間紀州へ帰国できなかったが、その後、疑いは晴れて無事帰国する。

  松平広忠 ━━ 徳川家康 1543-1616年 ┓幼名:竹千代
(八代当主) ┏ 松平忠政       ┃
  ┃    ┣ 徳川家元       ┃
 於大の方  ┣ 樵臆恵最       ┃ 
(伝通院)  ┣ 内藤信成       ┃
       ┗ 市場姫  矢田姫   ┃
   ┏━━━━━━━━━━━━━━━━┛
   ┃ 
正室・篠山殿━┳ 長男・松平信康(1559年 - 1579年)(母:築山殿)       
正室・朝日姫 ┣ 長女・盛徳院 (1560年 - 1625年)(母:築山殿)
側室・お津摩 ┃ 
側室・お万  ┣ 次女・督姫  (1565年 - 1615年)(母:西郷局)池田輝政室
側室・小督局 ┣ 次男・結城秀康(1574年 - 1607年)(母:小督局)
側室・西郷局 ┣ 三男・徳川秀忠(1579年 - 1632年)(母:西郷局)━━┓幼名:長松
       ┣ 四男・松平忠吉(1580年 - 1607年)(母:西郷局)  ┃
       ┣ 次女・良正院 (1565年 - 1615年)(母:西郡局)  ┃
       ┣ 三女・振姫   (1580年 - 1617年)(母:お竹 )    ┃ 
       ┣ 徳川義直1601-1650(初代徳川尾張藩主)(母:お亀)  ┃
       ┃ ┣光友1625-1700(2代藩主)             ┃
       ┃ ┣京姫┣綱誠1652-1699(3代藩主)          ┃
       ┃ 歓喜院┃    ┣吉通1689-1713(4代藩主母本寿院) ┃
       ┃    ┃    ┃ ┣五郎太1711-1713(5代)    ┃
        ┃     ┣松平義行┃九条輔姫            ┃
        ┃     ┣松平義昌┣継友1692-1732(6代藩主 母は和泉)┃
        ┃     ┣松平友著┣義孝1694-1732(母は唐橋)    ┃
       ┃  千代姫(家光娘)┣宗春1696-1764(7代藩主 母は梅津)┃   
        ┃         ┗松姫(綱吉養女)           ┃
       ┣ 徳川頼宣1602-1671(初代徳川紀伊藩主)(母:お万)    ┃
        ┃  ┣徳川光貞1627-1705(生母 中川氏)         ┃
        ┃  ┃ ┣徳川綱教1665-1705(3代尾張藩主)      ┃
        ┃  ┃ ┃ ┣徳川頼職1680-1705(養子)        ┃
        ┃  ┃ ┃鶴姫1677-1704(徳川綱吉娘)         ┃
        ┃  ┃ ┣徳川頼職1680-1705(4代尾張藩主 母真如院) ┃
        ┃  ┃ ┣徳川吉宗1684-1751(5代藩主8代将軍 母浄円院┃
        ┃  ┃瑞応院                      ┃
        ┃  ┣因幡姫1631-1709(鳥取藩主池田光仲正室)     ┃
        ┃ 八十姫1601-1666(加藤清正娘)              ┃
       ┗ 十一男・徳川頼房(1603年 - 1661年)(母:お万)    ┃
                                    ┃
     ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ 
正室・於江与の方━┳ 千姫(天樹院):豊臣秀頼室、のちに本多忠刻室
母は信長の妹お市 ┣ 徳川家光 三代将軍 福・春日局に養育 幼名:竹千代 
         ┣ 徳川忠長                         
側室・お静の方  ┣ 徳川和子(東福門院):後水尾天皇中宮           
         ┣ 珠姫  (天徳院) :前田利常室             
         ┣ 勝姫  (天崇院) :松平忠直室             
         ┗ 初姫  (興安院) :京極忠高室

コメント

悲劇の北白川宮家・智成親王

2009年09月19日 | 天皇・皇后陵

 北白川宮智成親王1856-1872は明治時代初期の北白川宮初代で、伏見宮邦家親王第13王子である。1860年に孝明天皇の養子となり、聖護院門跡雄仁法親王弟となる。 1866年聖護院に入り、信仁入道親王を称するが、明治維新に際し、照高院宮を称し、還俗し、再び智成親王を称すると聖護院宮を繼承する。 1870年北白川宮に改称する。 1872年に没すると遺言で兄に当たる能久親王が北白川宮を相続した。 初代智成親王が若くして亡くなったことで、北白川宮は後世に「悲劇の宮家」と呼ばれます。 能久親王(1847~95)は戦病死し、三男の成久王1887~1923は自動車事故により三十七歳で死去。さらに、その子の永久王1910~40も軍事演習中に事故死します。 子の道久王が宮家を継承しますが、1947年の十一宮家の皇籍離脱により北白川宮家は消滅します。 この北白川には、江戸時代に照高院(桃山時代初め、豊臣秀吉の信任厚い天台宗の道証上人が、東山妙法院に創建した寺院)があったが、方広寺鐘銘事件に関連して東福寺・天得院が廃されたのに連座して廃寺となった。

 

コメント

相国寺塔頭

2009年09月19日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 

コメント

尾張徳川家祖・義直

2009年09月18日 | 池波正太郎 江戸時代

 徳川義直は徳川家康の九男で御三家筆頭の尾張徳川家の祖である。 家康は晩年は正妻を置かずに孫のような若い側室ばかりを寵愛し、お亀の方との間に生まれた子・義直を尾張の当主として御三家筆頭とした。 家康の優れているのは血統の維持のために分家制度を取り入れ徳川家の繁栄の基礎を築いている。 後継がいないということはお家が潰れるということを意味し、子供のいない正妻は率先して夫に側室を世話したりもする。家が潰れては正妻自身も路頭に迷うことになり、嫉妬している場合ではないのである。 血統維持のために天皇家は宮家というシステムを取り入れ、本家に何かあれば宮家から後継者が入る。源氏や平家ももともとは天皇の子孫であるが、いったん離れてしまえば後継者にはなれないという欠点を補っているのが宮家の制度であり、徳川御三家もこれと同じような制度である。 御三家制度が機能したのは、7代将軍の後継者が絶えたときに紀伊徳川家から8代将軍吉宗が継いだときである。 徳川義直は最初甲斐甲府の所領を与えられ、兄・松平忠吉が若くして亡くなったことから尾張清洲に転封となった。東海道の要塞である尾張に腰を据えた義直は従二位権大納言となり学問にも武芸にも励み、3代将軍家光の前で舞ったこともある風流の人でもあった。尾張の首都を清洲から名古屋に移して現在の発展の基礎を築いたことも功績のひとつである。 

  松平広忠 ━━ 徳川家康 1543-1616年 ┓幼名:竹千代
(八代当主) ┏ 松平忠政       ┃
  ┃    ┣ 徳川家元       ┃
 於大の方  ┣ 樵臆恵最       ┃ 
(伝通院)  ┣ 内藤信成       ┃
       ┗ 市場姫  矢田姫   ┃
   ┏━━━━━━━━━━━━━━━━┛
   ┃ 
正室・篠山殿━┳ 長男・松平信康(1559年 - 1579年)(母:築山殿)       
正室・朝日姫 ┣ 長女・盛徳院 (1560年 - 1625年)(母:築山殿)
側室・お津摩 ┃ 
側室・お万  ┣ 次女・督姫  (1565年 - 1615年)(母:西郷局)池田輝政室
側室・小督局 ┣ 次男・結城秀康(1574年 - 1607年)(母:小督局)
側室・西郷局 ┣ 三男・徳川秀忠(1579年 - 1632年)(母:西郷局)━━┓幼名:長松
       ┣ 四男・松平忠吉(1580年 - 1607年)(母:西郷局)  ┃
       ┣ 次女・良正院 (1565年 - 1615年)(母:西郡局)  ┃
       ┣ 三女・振姫   (1580年 - 1617年)(母:お竹 )    ┃ 
       ┣ 義直1601-1650 (初代徳川尾張藩主)(母:お亀 )  ┃
       ┃ ┣光友1625-1700(2代藩主)             ┃
       ┃ ┣京姫┣綱誠1652-1699(3代藩主)          ┃
       ┃ 歓喜院┃    ┣吉通1689-1713(4代藩主母本寿院) ┃
       ┃    ┃    ┃ ┣五郎太1711-1713(5代)    ┃
        ┃     ┣松平義行┃九条輔姫            ┃
        ┃     ┣松平義昌┣継友1692-1732(6代藩主 母は和泉)┃
        ┃     ┣松平友著┣義孝1694-1732(母は唐橋)    ┃
       ┃  千代姫(家光娘)┣宗春1696-1764(7代藩主 母は梅津)┃   
        ┃         ┗松姫(綱吉養女)           ┃
       ┣ 十男・徳川頼宣 (1602年 - 1671年)(母:お万)    ┃
       ┗ 十一男・徳川頼房(1603年 - 1661年)(母:お万)    ┃ 
                                    ┃
     ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ 
正室・於江与の方━┳ 千姫(天樹院):豊臣秀頼室、のちに本多忠刻室
母は信長の妹お市 ┣ 徳川家光 三代将軍 福・春日局に養育 幼名:竹千代 
         ┣ 徳川忠長                         
側室・お静の方  ┣ 徳川和子(東福門院):後水尾天皇中宮           
         ┣ 珠姫  (天徳院) :前田利常室             
         ┣ 勝姫  (天崇院) :松平忠直室             
         ┗ 初姫  (興安院) :京極忠高室

コメント

道真の祟りで早世したという慶頼王墓

2009年09月17日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 最近では御陵を訪れるのも困難を極めるようになってきました。 訪問し易いところはほとんど行ってしまったということです。 今回の慶頼王が眠るという御陵は京都の住宅地の中の狭い一角にありました。 慶頼王921-925は、醍醐天皇の皇太子・保明親王の王子で母は左大臣藤原時平娘・藤原仁善子、同母姉妹には朱雀天皇女御の煕子女王がいます。 923年、醍醐天皇の皇太子だった父保明親王の死を受けて3歳で皇太孫に立てられますがその2年後、わずか5歳で死去すると、彼の母・藤原仁善子が藤原時平の娘だったために、時平が失脚させた菅原道真の祟りだと噂されたといいます。 藤原仁善子-946は、保明親王の御息所で本院御息所と呼ばれ、左大臣藤原時平の娘で、母は廉子女王(仁明天皇皇孫)、叔母にあたる藤原穏子(醍醐天皇中宮)の後押しによって東宮保明親王に入内しました。 保明親王903-923(朱雀天皇、村上天皇の同母兄)は醍醐天皇の第二皇子で、母は藤原時平の妹・藤原穏子にあたる。 醍醐天皇の皇太子となるが僅か21歳で死去したことから菅原道真の祟りとの風評も立ったという。 2歳で立太子、東宮となったのには叔父藤原時平の思惑があり、保明親王を即位させることで政治の実権を握ろうとしていたが、909年親王の即位を見ることなく時平が没し、親王も即位することなく21歳にて早世します。 このため第一王子の慶頼王が皇太子に立てられるが、2年後に死去したために、慶頼王の代わりに親王の弟、寛明親王(朱雀天皇)が皇太子となった。 寛明親王は母が藤原時平の妹・藤原穏子、妃が娘であったため時平と繋がりが深く、人々は親王と慶頼王の死去は時平が追いやった菅原道真の祟りとする風評が立ったのです。 これを怖れた醍醐天皇は菅原道真を右大臣に戻し正二位を追贈するとともに、道真追放の詔を破棄するのですが、台風・洪水・疫病と災厄は収まらず、930年6月内裏の清涼殿に落雷し複数の死者が出たことで醍醐天皇は病に臥し、3ヵ月後寛明親王に譲位した直後に崩御した。

               伊都内親王(桓武皇女)
       是公娘・吉子-807       ┣ 在原行平818-893
    ┣ 伊予親王     伊勢継子┣ 在原業平825-880
      ┃乙牟漏皇后 760-790  ┣阿保親王792-842 ┃
      ┃┣ 高志内親王789-809 ┣高岳親王799-865 *5
      ┃┣ 安殿親王  774-824(51平城天皇)
和新笠 ┃┣ 賀美能親王784-842(52嵯峨天皇)
 ┃   ┃┃   ┃┃┏藤原乙春842-866
 ┣山部王(桓武)┃┃┗藤原沢子   -839     藤原元善
 ┃ 737-806   ┃┃  ┃ ┗藤原佳美子-898  ┃平等子
 ┃           ┃┃  ┃    ┣-      ┃┣-
 ┃           ┃┃  ┣58光孝天皇830-887時康親王 
 ┃           ┃┃  ┃┃  ┃       ┏藤原時平871-909
白壁王709-781 ┃┃  ┃┃   ┣源旧鑑    ┗藤原穏子885-954中宮(時平・妹)
(49代光仁天皇) ┃┃  ┃┃   ┣源和子-947(女御)┣康子内親王919-957(師輔妻)
         ┃┃  ┃┃   ┣忠子┣慶子内親王┃ 藤原安子(師輔娘)
         ┃┃  ┃┃-899┗周子┣常明親王 ┃   ┣63冷泉天皇
          ┃┃  ┃┣為子内親王┃藤原淑姫 ┃-948┣64円融天皇 壮子女王
 ┏━━━━━━┛┃  ┃┃高藤    ┃┃┃藤原桑子┃    ┣為平親王  ┣具平親王
 ┣有智子内親王 ┃  ┃┃┣定方  ┃┃┃┃和香子┣成明親王(62村上)926-967
 ┃母交野女王斎院┃  ┃┃┃┗能子┃┃┃┃┃-935┣寛明親王(61朱雀)923-952 
 ┃         ┃  ┃┃┗胤子┃┃┃┃┃┃  ┃藤原時平871-909 ┣昌子内親王950-1000
 ┃         ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┃┣保志890-936  ┃(和泉式部┣-
 ┃         ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┃┣褒子(宇多女御)┃  奉仕)┣-
 ┣源貞姫810-880 ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┃┣仁善子-946  ┃  冷泉天皇
 ┃(布勢氏)   ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┃廉子女王┣煕子女王-950
 ┃       ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┃    ┣慶頼王920-925
 ┃       ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┣保明親王903-923(第二皇子 醍醐皇太子)
 ┣源潔姫809-856 ┃  ┃┃   ┣60代醍醐天皇885-930延喜帝   
 ┃(当麻)┣明子 ┃  ┃┃   ┃ ┃┃┃┣克明親王903-927(第一皇子),宣子内親王(斎院)
 ┃藤原良房┗文徳┃  ┃┃   ┃ ┃┃┃源封子(更衣 源旧鑑娘)
 ┣源信810-869  ┃  ┃┃  ┃ ┃┃┣代明親王904-937(邸宅は伊尹,行成の邸とす)
 ┃(広井氏)   ┃  ┃┃   ┃ ┃┃藤原鮮子-915┣源重光 923-998
 ┣源弘812-863  ┃  ┃┃   ┃ ┃┃       ┣恵子女王925-992(伊尹妻 義孝母)     
 ┃(上毛野氏)  ┃  ┃┃   ┃ ┃┣重明親王-954┣壮子女王930-1008(村上帝妃具平母)
 ┣源融823-895  ┃  ┃┃   ┃ ┃源昇娘      ┣厳子女王(頼忠妻 公任母)
 ┣源勤824-┣源昇┃  ┃┃   ┃ ┣勤子内親王 定方娘
 ┃(大原氏)┗源湛┃  ┃┃   ┃ ┣源高明914-982
 ┣源定816-863  ┃  ┃┃   ┃源周子 ┣俊賢959-1027
 ┣源鎮824-881  ┃  ┃┃    ┃-935  ┣明子965-1049
 ┣基子内親王-831┃  ┃┃   ┃   愛宮  ┣頼宗、能信、寛子
 ┣基良親王-831 ┃  ┃┃   ┣敦実親王  藤原道長966-1028
 ┣忠良親王-876 ┃  ┃┃   ┃ ┣源雅信  ┣彰子、頼通、教通
 ┃(百済系)    ┃  ┃┃   ┃ ┃ ┣源倫子964-1053   
 ┣仁子内親王-889┃  ┃┃   ┃ ┃穆子 藤原温子 菅原衍子 橘義子 源貞子 
 ┃(大原氏)    ┃  ┃┃   ┃時平娘    ┃
 ┣源常812-854  ┃  ┃┣ 源定省(59宇多天皇)867-931
 ┣源明814-853  ┃  ┃┣ 簡子内親王-914  ┣雅明親王,行明親王,載明親王
 ┃(飯高氏)    ┃  ┃┣ 綏子内親王-925 藤原褒子?-?(時平娘 元良親王と恋愛)
 ┣源清(秋篠氏) ┃  ┃斑子女王   ┗━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┣宗子内親王-854┃  ┃               藤原長良802-856┣-
 ┃(高階氏)    ┣正良親王(54仁明天皇)810-850     ┣藤原淑子┃
 ┣源寛813-876  ┃        ┃ ┣ -       836-891┣藤原基経┃
 ┃(安部氏)   ┣正子内親王┃小野吉子(更衣)   842-910┗藤原高子┃姣子女王?-?
 ┣源生821-872 橘嘉智子┣恒世┃紀名虎娘・静子 良房┓在原行平娘┃  ┃┃
 ┃(笠氏)           ┣恒貞┃ ┣ 紀有常女*5   藤原明子 ┃ ┣陽成天皇876-884
 ┣源安822-853   淳和天皇  ┃ ┣ 惟喬親王(第1皇子)┣清和天皇850-881┣元良親王890-943
 ┃(粟田氏)                ┣ 道康親王(55文徳天皇)836-858 ┣   ┣元平親王
 ┣純子内親王-863       藤原順子(冬嗣・妹)     ┣源能有 ┃  藤原遠良娘?-?
 ┗斉子内親王-853                伴氏娘 ┗源厳子
  (文屋氏)

 

コメント

尊良親王の墓

2009年09月16日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 元弘の乱は、天皇親政を目指した後醍醐天皇による鎌倉幕府執権北条氏討滅の戦いである。未然に発覚した正中の変(1324)の後も、天皇と北条氏の軋轢は日増しに強まり、たび重なる討幕計画に憤激した北条氏は武力で天皇を威圧する。これ耐えかねた天皇は元弘元年(1331)八月、京都を脱出して笠置山に向かう。元弘の乱の始まりである。この乱を契機にして、正成の名が頻繁に歴史に登場するようになる。 楠木氏は河内地方の土豪にすぎないにも拘らず笠置山に避難した天皇が頻りに正成を頼るようになるのである。 この笠置山での出合いの時、天皇の眼にとまったであろう正成の軍旗が観心寺に保存されている。 正成勢の参集にも拘らず、笠置山の攻防は幕府軍の勝利に終わり、天皇は捕われ隠岐に、同道した尊良親王は土佐、尊澄法親王は讃岐にとそれぞれ配流される。正成は護良親王と共に赤坂城を抜け出し、捲土重来を期して幕府軍の前から姿を消す。 結果的に幕府軍の勝利に終わった笠置山の攻防であったが、それまで態度を保留し、形勢を観望していた、本来天皇方につくべき武士達に決起を促すことになった。  1332年、正成と共に赤坂城を抜け出していた護良親王の吉野での挙兵に呼応して正成も挙兵し赤坂城を奪還、その奥に千早城を構築する。 翌年二月、三十万騎近い兵を西上させた幕府軍は吉野攻撃を開始、頑強に抵抗する親王軍を攻略すると、親王は千早城へと向かう。(千早城は現在の大阪と奈良の県境、金剛山の中腹から西に走る尾根の末端に位置する) 正成はわずか一千余人の手兵で、数万の幕府軍を悩ました。 その間、天皇方の武士の蜂起が続出し天皇が隠岐を脱出したこともそれにはずみをつけた。 当初は幕府方であった足利尊氏も天皇方に帰順し、東国では新田義貞が挙兵、鎌倉に進撃を開始し、鎌倉幕府は滅亡した。  翌年建武新政が成立する。最高の功労者は正成である。後醍醐天皇自ら正成に向かい、その功労を称えている。 正成は検非違使、左衛門尉として従五位に叙せられ、河内、摂津の両国を賜わる。 新田義貞は、上野、播磨の両国、尊氏は、武蔵、常陸、下総の三ヶ国を賜わり、それぞれ従四位、左兵衛督と従二位参議に任ぜられた。 

 護良親王との対立を契機として尊氏は反朝廷の旗色を鮮明にしてゆき、事態は尊氏の弟直義による親王殺害にまでエスカレートし、正成は天皇と尊氏の和解を真剣に考える。 都に押し寄せた尊氏勢が、正成、義貞の連合軍に破れて船で九州へ敗走した時にも、両者の和解を上奏している。 九州へ敗走した尊氏は逆賊であったが、新政の失策を目の当たりにした正成には、全国の武士の動向が手に取るようにわかったのであろう。これは天皇を思えば最善の方法ではあったが、到底公家達が納得できる案ではなかったのである。  正成の予測通り尊氏は、新政に失望した全国の大小名を味方につけ東上を開始した。これを阻止せんとした義貞勢が、兵庫湊川に弧立してしまう。 天皇は義貞救援を正成に諮問する。この時、正成は史上有名な献策をする。 結局、この献策は坊門宰相清忠によって一蹴され、正成は勅命により兵庫へと出陣し、尼ヶ崎で最後の上奏を行う。 もはや戦いの帰趨は正成にとって明らかであり、死を決意しての悲愴な出陣だったのである。 湊川に出陣した正成は義貞に会い、その任務は君を守護し聖慮を安んずべきであることを説き、身を挺して脱出を助けることを進言する。 総勢七百騎余の正成勢は七十三騎になり、正成は壮絶な自害を遂げる。  天皇への忠勤を果たすため、自ら肉壁となって兵庫湊川に散華したのは、桜井の駅で正行と別れてから十日後の延元元年(1336)五月二十五日。正成四十三歳の男盛りであった。その首級は、敵将尊氏の命によって観心寺に送り届けられ、大楠公首塚として今に残る。戒名「忠徳院殿大圓義龍大居士」は後醍醐天皇より賜わったものである。

 後醍醐天皇の討幕は2回行われた。 その一回目は1324年の正中の変は後醍醐天皇の無礼講メンバー多治見国長、土岐頼兼、日野資朝、日野俊基らによって実行された。 この行動の直接のきっかけは大覚寺統の後宇多法皇の死去である。 後宇多は後二条、 後醍醐天皇兄弟の父であり、大覚寺統では後醍醐天皇の次の天皇は後二条の子・邦良親王と決められていた。 本来なら兄の後二条が後を継ぐ予定であったが、早くに死んだために次男の後醍醐天皇がつなぎとして即位した。 ところが後宇多が死んでしまったから皇太子の邦良親王の立場は微妙なものとなる。 そこで、邦良親王は幕府を動かして後醍醐天皇を退位させ、一刻も早く天皇になろうと考えたのである。 鎌倉武士に強要され実権のない上皇になることに抵抗を覚えた後醍醐天皇は決行した。 幕府の京の拠点である六波羅探題を襲撃して北条範貞を殺害すると、奈良興福寺の僧侶に挙兵させ、機内の武士を呼びかけた。 一気に鎌倉に圧力をかけようというのである。 ところがこの計画が土岐頼兼の舅にあたる斉藤利行という六波羅の御家人の耳にはいり漏れたのである。 これにより先手を打った六波羅は多治見国長、土岐頼兼を滅ぼして、日野資朝、日野俊基を生け捕りにされ、 資朝は佐渡に流罪、俊基は放免という寛大な処置であった。 後醍醐天皇はこれに懲りずに六波羅の要人・伊賀兼光を寝返らせ、楠木正成、足利尊氏、新田義貞といった有力御家人を味方につけていく。 楠木正成は河内の出身であるが、その家系、身分は不明である。 ただ楠木正成が幼少の頃朱子学を学んだという河内の観心寺は後醍醐天皇の属する大覚寺統の寺であり、後醍醐天皇の側近・万里小路藤房を通して繋がったらしい。

 二回目の討幕計画・元弘の変は1331年起こった。 しかしまたもや側近の吉田定房によって鎌倉にしらされ計画は失敗し、後醍醐天皇は隠岐に流された。 しかし後醍醐天皇は笠置山に脱出すると、ここで挙兵し、楠木正成は本拠地で呼応した。 このとき幕府は本格的に笠置山を攻めて落城させている。 この時の幕府側の大将が足利尊氏である。 後醍醐天皇は捕獲され京に連行されると、二条為子との間にできた尊良親王は京で捉えられ、護良親王は吉野にはいった。 護良親王はもともと延暦寺の僧・尊雲法親王として押し込められていたが、還俗して護良親王と改名していた。 このとき楠木正成は河内の赤坂で孤立状態で奮闘していたが、とうとう夜陰に乗じて逃げてしまった。 百倍もの敵を相手にまんまと逃げおおせたというのは勝利に等しい。 後醍醐天皇は隠岐へ流罪、宗良親王は讃岐、尊良親王は土佐に流され、持明寺統の量仁親王(後伏見天皇と西園寺寧子との間の親王)が即位して光厳天皇となった。 このとき護良親王と楠木正成は俄かに体力を回復させていた。 幕府はこれをみて、再び大軍を動員して二人の征伐を決意する。 しかし楠木正成の奮闘中に、後醍醐天皇は隠岐を脱出し、名和長年という豪族の支援を受けて船上山で挙兵し全国の武士に討幕の綸旨をばらまいた。楠木正成らの奮闘に全国の武士は勢いづくと、幕府は再び足利尊氏を投入する。 ところがここで足利尊氏は後醍醐天皇の綸旨を受けて幕府討伐側に寝返ったのである。  足利尊氏は諸国に呼びかけて軍勢を加え京に進撃し六波羅を陥落させた。 このとき幕府の本拠地である鎌倉を攻撃して陥落させたのは尊氏ではなく新田義貞である。 両者の家系は源氏の本流に遡る。 八幡太郎義家の子・義親の系統が源頼朝の本系統であるが、義国には兄・義重と弟・義康がいて、義重が新田を名乗り、義康が足利を名乗った。 尊氏が攻めた六波羅探題はあっけなく陥落し、探題の北条仲時は北朝の光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇をつれて鎌倉へ逃げようとしたが、近江で完全に阻まれ、絶望した仲時は伊吹山の蓮華寺にはいり一族全員430人余りが自害した。 一方関東では新田義貞を大将軍とする軍勢は鎌倉を目指し、北条高時以下一門は菩提寺の東勝寺にはいり六波羅と同様に自刀した。 これにより150年続いた鎌倉幕府は1333年に滅亡したのである。 ところで、京で捉えられた尊良親王は脱出して翌年には九州に移り、その後、京都に帰還した。1335年、足利尊氏が後醍醐天皇に反逆したときに、上将軍として新田義貞と共に討伐軍を率いたが敗退し、翌年、九州に落ちた尊氏が力を盛り返して上洛してくると、義貞と共に北陸に逃れた。 1337年、尊良親王が拠った越前国金ヶ崎城に足利軍が攻めて来ると尊良親王は義貞の子・新田義顕と共に懸命に防戦したが、遂に力尽き自害した。

 後醍醐天皇が政権に復帰すると、光厳天皇を廃して建武の新政を始めた。つまり律令政の復活と天皇親政である。 後醍醐天皇は土地所有に対する習慣、既得権を白紙にもどした。また、知行国制を取りやめた。 これは特定の家系が国司の任免権を独占し世襲させる制度であり、多くの貴族が私物化していた土地を取り上げられることになる。また、関白職そのものも廃止し、征夷大将軍には尊氏ではなく、護良親王を任命した。 当然足利尊氏は激怒し、後醍醐天皇と対立する持明寺統の公家達は知行国を召し取られて対立していく。 そして後醍醐天皇の夢であった大内裏の建設を始めたのであるが、その費用は全国の地頭、御家人からの税金によりまかなおうとした。 これでは武士たちが不満を持つのは当然である。 そして新政の崩壊は旧幕府系の人々の反乱によって始まるのである。 北条高時の遺児・時行が反乱の首謀者である。 また後醍醐天皇に解任された大納言・西園寺公宗は各地の北条氏の残党を集めて、再び持明寺統を立てようと画策した。 この時、密告により公宗は逮捕され持明寺統の後伏見、花園、光厳上皇は幽閉されたが、北条時行の軍勢は諏訪の豪族・諏訪氏に庇護されながら1335年に兵を挙げた。 公宗を密告したのは弟の公重で、西園寺の家督を得たうえに知行国の返還という恩賞を後醍醐天皇から与えられている。  後醍醐天皇の新政崩壊の前兆は北条時行の反乱に始まる。北条氏が代々守護として統治していた国で北条氏譜代の家臣が多く、諏訪神社の神官でもある諏訪氏は密かに高時の遺児である時行を匿っていたのである。また、公家の中ではかつて最も幕府とつながりを持っていた西園寺の当主・公宗がこの反乱の首謀者であった。 公宗は高時の弟・泰家を匿い、全国の北条残党を一斉発起させる予定であった。 ところが公宗の反乱は弟・公重の密告により失敗するが、1335年時行は鎌倉奪回を目指して兵を挙げた。 そして時行は尊氏の弟・直義を破って朝廷軍を追撃し鎌倉攻略に成功する。 この時直義は兄・尊氏から預かっていた護良親王を暗殺している。都では鎌倉陥落により北条の残党が集結する報がもたらされた。 足利尊氏は征夷大将軍として弟・直義の取り戻すべく軍を率いる許可を後醍醐天皇に求めたが、後醍醐天皇は拒否した。阿野廉子との間にもうけた三河の成良親王を征夷大将軍にすると、足利尊氏は無許可で鎌倉に向かった。後醍醐天皇に不満を持つ武士が尊氏を支援するとは限らない。北条時行への支持武士が多ければ尊氏の前には破滅が待っていることになるが、尊氏は勝利し、後醍醐天皇は折れた。

                     三条治子(西御方)
              足利尊氏1305-1358    ┣治仁王1370-1417 
               ┣足利頼子 源資子 ┣貞成親王1372-1456
                赤橋登子┃   ┣栄仁親王(伏見宮)1351-1416    
                 三条秀子┃   ┣興信法親王    藤原資子
  藤原公子1232-1304         ┣興仁親王( 3崇光天皇 )  三条厳子┣101称光天皇
   ┣貴子内親王 西園寺寧子   ┣弥仁親王( 4後光厳天皇 ) ┣6後小松天皇1377-1433
   ┣姈子内親王 ┣量仁親王(1光厳天皇)1313-1364  ┣緒仁親王(5後円融天皇) 1359-1393
   ┃   藤原経子┣豊仁親王(2光明天皇)1321-1380  ┣熈永親王
 ┏89後深草天皇 ┣胤仁親王(93後伏見天皇)1288-1336  ┣尭仁法親王
 ┃  ┣熈仁親王(92伏見天皇)1265-1317 ┃    藤原仲子1339-1427
 ┃  ┃  ┃┣尊園親王1298-1356   ┣尊道親王1332-1403
 ┃  ┃  ┃三善衡子     正親町実明女
 ┃  ┃  ┗━━━━┓
 ┃藤原愔子1246-1329 ┣富仁親王(95花園天皇)1297-1348
 ┃        藤原(洞院)季子 ┣直仁親王1335-1398
 ┃              藤原(正親町)実子
 ┗━(持明院統:足利氏が京都に擁立 北朝)━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
                                                          ┃
                  伊岐致遠女                               ┃
    源懿子1116-1143   ┣79六条天皇1164-1176                       ┃
       ┣78二条天皇1143-1165                               ┃
 ┏77後白河1127-1192      更衣尾張局                            ┃
74鳥羽    ┃                    ┣道覚親王1204-1250 藤原立子(東一条院)  ┃
 ┣覚快法┃親王1134-1181        ┃   修明門院藤原重子┣85仲恭天皇1218-1234┃
  紀家子 ┣80代高倉天皇1161-1181┃     ┣84順徳天皇1197-1242     ┃
   平滋子┃ ┣高成親王(82代後鳥羽天皇)1180-1239             ┃     
         ┃ ┣守貞親王(後高倉院)1179-1223 ┣83土御門天皇1196-1231    ┃ 
       ┃ ┃  ┣86後堀河天皇1212-1234 ┃  ┣88後嵯峨天皇1220-1272 ┃
       ┃ ┃  ┃┣87四条天皇1231-1242 ┃  源通子  ┃┣89後深草天皇┛
       ┃ ┃  ┃藤原竴子1209-1233   ┃      ┃┣90亀山天皇━┓
         ┃ ┃北白河院・藤原陳子     承明門院源在子 ┃西園寺姞子  ┃
      ┃ ┃ ┃持明院基家┛                       ┣宗尊親王    ┃
         ┃藤原殖子(七条院)               ┃1242-1274   ┃
          ┣言仁親王トキヒト(81代安徳天皇1178-1185)     平棟子       ┃
       徳子1155-1214(建礼門院)                       ┃
 ┏━(大覚寺統:吉野朝廷 南朝)━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 ┃平時仲女 
 ┃┣慈道親王1282-1341 
 ┃┃藤原嬉子1252-1318(今出河院)                  不明 
 ┃┃ ┣-   姈子内親王(1270-1307)後深草皇女(遊義門院)        ┣海門承朝
90亀山天皇1249-1305┣-         阿野廉子1301-1359  藤原勝子 ┣世泰親王
  ┣世仁親王(後宇多天皇)1267-1324       ┣成良親王  ┣98長慶天皇1343-1394
 洞院(藤原)佶子┃┣邦治親王(後二条天皇)1285-1308┣恒良親王  ┣99後亀山天皇1347-1424       
 1245-1272   ┃堀河(源)基子┃┣-        ┣義良親王(後村上)1328-1368      
 (京極院)   ┃(西華門院) ┃藤原(徳大寺)忻子 ┣祥子内親王
            ┃      ┣邦良親王1300-1326┃
            ┃      ┣邦省親王1302-1375┃
            ┃     藤原(五辻)宗子    ┃
        ┣尊治親王 (96後醍醐天皇) 1288-1339
            ┃ ┃             ┃┃┣恒性皇子
     藤原忠子 ┣懽子内親王1315-1362   ┃┃┣護良親王1308-1335         
               ┃(光厳上皇妃、宣政門院) ┃┃源師親娘 
 ┏西園寺禧子1303-13333(礼成門院 後醍醐中宮) ┃┣尊良親王1310-1337
 ┣左大臣公衡1264-1315            ┃┣宗良親王1311-1385  
 ┣太政大臣兼季1281-1339            ┃二条為子
 ┣西園寺金章子1271-1342伏見天皇中宮)藤原実俊┣世良親王-1330
 ┣西園寺瑛子1273-1336(亀山天皇後宮)     ┃┣静尊法親王?-?
西園寺実兼1249-1322              ┗遊義院一条局

 

 

コメント

南禅寺

2009年09月16日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

コメント

南禅寺

2009年09月15日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 紅葉の時期の南禅寺を待ちきれずに、行ってまいりました。 南禅寺は東西一直線に配置された勅使門、三門、法堂、方丈の規模は大きく塔頭も立派で五山の筆頭である。 五山という制は鎌倉幕府が始めた禅宗寺院の格付けで、後醍醐天皇の建武の新政下では南禅寺と大徳寺を五山の第一位とし、建仁寺、東福寺、建長寺、円覚寺の順位を定めた。南北朝では足利尊氏が後醍醐天皇の冥福を祈るために嵯峨に天竜寺を建立し、足利義満が室町幕府に隣接して相国寺を建立すると五山の制に変化がおこった。 南禅寺を五山の上におき、京五山として天竜、相国、建仁、東福、万寿の各寺を位置づけたのである。 万寿寺はもともと六条御堂ともいい後に東福寺の三聖寺のあった地に移っている。 南禅寺塔頭の金地院の境内は大きく以心崇伝が南禅寺の住持になってから鷹峰より移し、規模を拡大したといわれるが本来の名称は以心崇伝である。 崇伝は1608年から徳川家康の諮問をうけ公家諸法度や武家諸法度の作成にも関与し、黒衣の宰相とよばれて権勢をふるった。 開山堂の前をとおって伏見城の遺構と伝える方丈は崇伝が徳川家光からもらったものである。 方丈の前にある鶴亀の庭は東山を借景にした枯山水庭園は江戸初期に大名茶人として知られる小堀遠州の代表作である。 14世紀に五山派寺院の統制のため僧録が任命され僧録司という役所で管理されたが、金閣寺(鹿苑寺)がその任を務めていたのである。崇伝がこれに任命されてから代々の金寺院の塔主が任じられ江戸時代末まで続いている。

 

コメント