京丹後市網野町磯は源義経の愛妾として知られる静御前1167-1190(平安末期の白拍子の舞姫) の生誕の地です。 磯禅師の娘として(拾われて育てられた)1167年に生まれた静は6歳で父を亡くし、故郷を後に母・禅師と京都に上ります。 巧みな舞と美しさで静は指折りの白拍子に成長すると、1182年7月、後白河上皇の前、京の神泉苑で雨乞いの神事を行った時、日本一の舞を披露します。 後に、堺の住吉神社の舞会で平家追討に来ていた源義経に見初められて側室になります。 静18歳、義経27歳でした。 義経は平家滅亡後、兄頼朝と不仲になり、1185年、11月6日静を連れて吉野山に逃げましたが、別れ別れとなった身重の静は11月17日捕らわれて1186年3月1日磯禅師とともに鎌倉に送られました。 1186年4月8日、鶴岡八幡宮で頼朝をはじめ並みいる武士たちの前で、
吉野山峰の白雪ふみわけて 入りにし人の跡ぞ恋しき
しづやしづ賤のをだまき くり返し 昔を今になすよしもがな
と義経を慕って歌いますが、頼朝の怒りにふれ、幽閉されます。 1185年7月29日に男子を生むが、頼朝の手により由比ヶ浜に棄てられ、逃亡中の義経の安否を祈っての死を覚悟した舞でした。 後に1186年9月16日に母と故郷の磯に帰った静は、生家跡に小さな庵をつくり、義経の無事と愛児の冥福を祈りますが、1189年文治5年静22歳の春に、義経を求めて奥州に向かうが、途中で息絶えたといわれています。 1190年4月28日静御前23歳でした。 供として同行した侍女が尼となり静の墓を守り、その後北条政子が勢力を増した時に静のことを哀れに思い庵を造り静を供養したそうです。 白拍子は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて一世を風靡した歌舞の一種で、白い直垂・水干に立烏帽子、白鞘巻の刀をさすという男装姿で、女性が歌や舞を披露するものですが、これを歌い舞う遊女を指すようにもなりました。 起こりは神に踊りをささげる巫女のようなものだったらしいが、当時衣装が一世を風靡し、神前だけではなく、貴族や武士の家にも招かれたようである。 当然のことながら、個人的に貴族のお目に留まり・・・を期待し自ら呼ばれもしないのに出張披露する場合も多かったものと想像します。祇王・仏御前などはそういう例だったそうです。
----- 新平家物語より -----
元服前の義経・遮那王が鞍馬山で暮らし、15歳になったとき天狗こと源氏の落ち武者の助けを借りて逃亡を図った。 そのときに実は平清盛の寵愛を受けた祇王庵に立ち寄っている。金売吉次を伴って奥州藤原氏のもとへ参じる計画があったわけであるが、その吉次と密会するために祇王庵で落ち合ったのである。 そのとき祇王は25歳。もちろん妹の祇女、仏御前にも会ったと思われる。 15歳の遮那王は小柄であったため、たいそういたいけな少年にみえたようで、「かわいいわね・・」などとからかわれている。 さて、吉次の計画で後に奥州に旅するのであるが、時はまだ早々であるとして、しばらく洛中に身を潜めることとなる。 平家一族が、遮那王をやっきになって探していたからである。 そして、遮那王は追っ手から逃れるために、化粧を施し髪も女風にし、袴も艶やかな女童姿となった。眉白粉にべにをつけ、可憐な白拍子の雛となる。 そして名を龍胆(りんどう)とかえて呼ぶこととした。 実はこのとき多くの白拍子とであっているのであるが、後に結ばれる静御前とも出会い、ともに一条で遊び暮れ車の中で抱き合って寝てしまったことがあったのである。 遮那王は奥州へ旅立つ前に一度、母・常盤に会いたかった。鞍馬では金王丸(遮那王の父・義朝の家臣)から母の知らせは受けており、僧として立派に16歳の剃髪の儀を望まれていたが、遮那王にはその意思はなかった。 当時母・常盤は清盛の寵愛を受けた後、一条長成に嫁いで、三十路の半ばになっていた。 常盤はもちろん昼夜を問わず平家の囮となって見張り役がついていたため、金王丸でさえ近づくことは難しく、遮那王を説得する。 こうして平家を討つことにより母・常盤御前との再会を果たそうと思うのである。 そうこうして奥州への期をうかがっていた翌年の16歳のとき、白拍子の雛妓姿の遮那王、龍胆は五条橋の欄干にもたれていた。彼が身を寄せていた家の姉妹とともに五条の市へ雛祭りの買い物の帰りである。 父・義朝の思いにふけっていたその時、「牛若!」と女衒の朽縄が迫ってくる。 いよいよ都の生活も潮時がやってきたのである。
一の谷の戦いの洛へ凱旋した後、あわただしく警護などをこなしていた義経である。 しばらくして鎌倉頼朝から褒美の沙汰が伝えられた。 蒲冠者範頼の官位も上がり、そのた頼朝の郎党なども漏れなく褒美に預かった。 しかし何故か義経には何の沙汰もなかった。 弁慶、伊勢三郎などの恨みは静まる気配がないのである。 しかし義経は兄・頼朝の意であるからと、家臣をなだめる始末である。 とりわけ義経は後白河法皇の信任は厚かったため、院の臣・高階泰経なども義経を気遣うのである。 なにしろ無位無官では警護の指揮ひとつやりにくい。 後白河法皇の思し召しにより、義経は左衛門少将に任じ、検非違使を兼任させるべく宣旨があった。 ところが義経は頼朝の御意にそむくものと固く辞退するのである。 ところが再三当日だけでもと官位の受諾を進めた。 高階泰経や、源行家もである。 そして後鳥羽天皇の即位の儀が盛大に執り行われた。 この時沿道の群集のなかの多くの白拍子のなかに、義経がとらえた白い顔があった。 義経は官位というものよりも平家打倒のみが頭の中にある。 すべては兄・頼朝のためである。 官位は仕方なく受けたが、その仔細を鎌倉・ 頼朝へ送った。 しばらくして、頼朝から、西国への下向の宣旨の取りやめの文書が届く。 摂政・松殿こと藤原基房の邸への招きなども取りやめになった。 兄 頼朝は知らないところで 左衛門少将、検非違使を兼任という宣旨に怒っているに違いないと察せられた。 その夜、ある白拍子が義経を訪ね、小さな紙片を託して帰ったと那須大八郎がゆうのであった。 「松殿の邸に白拍子として馳せ参じた際、松殿以上にがっかりしたのは私でございました」 との言葉でしたと。 義経は紙片にかかれた文字にうっとりして、10年前の龍胆の頃を思い出していた。 鞍馬山から脱走して、一時龍胆と名を変え、磯の禅師の家に匿われていた。 その愛娘が静である。 義経16歳のとき静は9歳であった。 いつかお互い遊び暮れて遠くの町外れから車で帰る途中、ひとつに抱き合って寝てしまったことがあった。 そして5年前、平時忠の邸での再会をした。 堅田の仲間と引き換えに義経ひとりで時忠に赴き、囚われの身となったときである。 宴の席で舞った白拍子のなかに15歳の静がいたのである。 そのときに静が舞いつつ歌ったものと同じ歌が、紙片に書かれていた。 やはり那須大八郎へ言伝たのは静であった。 「白糸や しずのおだまき いとし白糸 色もやと 云うなれ人は・・・・ 染めもせば 染む身ならねど 龍胆の濃いむらさき・・・」 さまざまな浮かれ男たちのうるささを厭って、身を染めるならば龍胆の紫に染まりたい・・・。しかし、しずのおだまきに等しい身の上、せめて龍胆のそばで露となりたい・・・。 静が神泉苑で雨乞いの舞を披露して喝采を得たのが15歳のとき、そして翌年、平時忠の舘に招かれて偶然義経に再会したが、それ以降、木曾義仲の暴挙に怯えた静親子は淡路の里へ帰っていた。 そして先ごろ木曾が東国源氏に破られたと聞いて、上洛した静は密かに義経にめぐり合えるかもしれないと胸をときめかせていたのである。 しかし初めてであったといの龍胆とは、違う。 源氏の大将として名を馳せた義経である。 身分の卑しい静が思い悩むのはそれであった。 そしてしばらくして、磯禅師の家に義経の家来・伊豆有綱と佐藤忠信が訪れたのである。 挨拶の後、中へ通されると、ふたりは云った。 「娘御の静殿を我が主の下へくださるまいか。それがおいやなら黙って目をつぶってもらいたい。われら両名が静殿をさらって行こう。大江山の鬼にでもさらわれたと思ってもらいたい。」 と、東国武者らしく、切り出したのである。 五日後には静親子は白川の鼓小屋にはいなかった。 義経のいる堀川の邸の庭伝いにある六条で義経とひとつ屋根の下にいる・・・と思うと夢心地なのである。
義経判官は静、弁慶、佐藤忠信、堀弥太郎とともに吉野山へはいっていくが、途中で静と別れ、静には幾人かの雑色を伴わせて都へ帰るようにいっている。 女人禁制の結界とあれば、仕方がなく別れるのである。 静は後に僧侶に捕われ、一方義経は、佐藤忠信、堀弥太郎を殿軍として、姿を消すことになる。 頼朝は、義経都落ちのあと、嵐に遭遇後行方不明になると知るが、相変わらず冷静である。 側近の因幡前司・大江広元、舅の北条時政、千葉介常胤らを従え、院の出方を伺っているようでもある。 伊豆に配流になっらころから平家の監視のもとに育った頼朝であるだけに、人を疑い冷酷な見方ができる御方になったが、側近の大江広元というひとも、冷徹さで人に知られていた。 恐らく、その大江広元の後ろ盾もあったと思うが、大和守重弘、一品房昌寛に入洛を命じて、先の朝廷の処置に対する陳述を求めている。 つまり、義経、行家に対する頼朝追討の宣旨である。 そして両名に九州・四国を支配する権限を与えたことに対する説明を求めたのである、 なかば脅迫ともいえるものであったらしい。 そのときの院の言い訳とも思える陳述に対して、日本一の大天狗と評したのは有名である。 富士の裾野の黄瀬川で、義経の行方不明を知った頼朝は、上洛を取りやめ鎌倉へ帰った。 そして、そのときに和田義盛に軍事を緩めず命令すると、直後に義経の側室となった、百合野の父・河越重頼から領地の没収を行っている。 義経に縁のある輩はことごとく許さないという意思表示である。 もともと、河越重頼は、頼朝・政子の命令で義経の監視役として、娘の百合野を提供させているのであるから、 考えてみれば、非道極まりないのであるが、 これも大江広元の冷酷さが裏で糸をひいているように思える。 大江広元の底知れない不気味な妖気は、後年までその定評を鎌倉に残したのである。 そして洛の大天狗は今度は、うってかわって義経の伊予守の職を剥奪し、身柄を拘束せよ、と布令し、頼朝は都に土肥実平、北条時政の大軍を差し向け、不気味な様相と化していた。 ところが義経という相手がいないのである。 何ゆえにこのような大軍を都へ差し向けたのであろうか。 平家の所領はいまとなっては頼朝の意のままであるが、朝廷の所領には頼朝といえども手をだすことはできない。つまり、仰々しい威嚇は、院を手の内に入れることにより、朝廷の領地を思いのままにせんとの意図があったに違いない。 こうして、源頼朝、北条時政、大江広元の要請は朝廷に奉じられ、初めて日本の全土に守護地頭の制が布かれ武家政治が始まることになるのである。 守護には幕府の武将が任ぜられ、警察権を握る。 そして地頭は公卿・寺社の田領を管轄する。 また、義経方の大蔵卿泰経などは流罪となり、摂政には九条兼実がつき、その他の官職には全て、鎌倉の推挙による人々が任官した。 義経主従は吉野山を徘徊し、多武ノ峰の南院 藤室の十字坊にたどりついていた。十字坊は鞍馬の学問所にいたことがあり、牛若を見覚えている人である。 吉野山を落ちて、そこから辿った行き先は不明であるが、十字坊の弟子8人に囲まれて逃げ延びたことは確かである。 彼らは特殊な旅法師に化け、離れてはいながら常に環をなしている。 故に頼朝追捕の兵が躍起になっても捕まることはなかった。 そして月日を重ねるにしたがって義経への見えない同情が彼への庇護にかわっていったのだろう。 義経一向は奈良興福寺の勧修房聖光やら鞍馬、叡山などから 匿い申しあらん との誘いがあった。 そして奈良へ足を向けようとしていたやさきに、静御前が鎌倉送りになるという情報が藤室八僧のうちのひとり拾禅からもたらされた。 彼らは奈良を頼る義経、弁慶などと 静を奪取する伊豆有綱、鎌田正近らにわかれた。 後に三河遠江近辺で静御前護衛の役人が襲撃をうけている。 ところがその輿に乗っていたのは静母子とは似ても似つかない偽者であった。 そして無数の矢が襲撃者めがけて射られた。 真の静母子はさりげない行装の下に鎌倉へ送られ、安達新三郎清経の宅へ預けられた。
洛中では、鎌倉の命により義経を躍起になって探している。東国武者幾千騎である。 静と別れた義経一向は、藤室の八僧に護衛されながら吉野から伊勢、奈良と転々とし、その居所は全くわからない。 洛と奈良近辺で神出鬼没な土佐の君という屈強な僧兵らしき者が義経の居場所を知っているという。 しかしその者を、千光坊七郎とも叡山の俊章とも武蔵坊弁慶ともいわれ、全く実態がつかめないでいた。 実は、義経主従は堅田三家に匿われてたのである。 三家とは、堅田家、刀禰家、居初家をいい、義経が奥州平泉から熊野へ上った頃から縁があった。 平家全盛の頃、洛内にて群盗騒ぎ、放火沙汰が相次いだが、あれは叡山の党衆と堅田党が起こしたものであったが、平時忠に一網打尽にされたことがあった。 その時に全員の身柄が放たれたのである。 それは義経が自ら人質となって平時忠を訪れ開放を願い出たからである。 もちろん条件つきである。 今、堅田党はそのときの恩に報いるべく結束し、 匿っていたのである。 今や、頼朝の所領の追尾も堅田に及ぶことも考えられ、頼朝追討の意さえも表していたのである。 一方、阿部麻鳥は静御前から預かった義経への文を携えて、あてもなく義経を探そうと放浪の旅医者をしていた。 そして刀禰弾正介の北の方の手当てをする偶然に出会ったのである。 北の方を診るために訪れたのは、刀禰家であった。 そして仔細を聞いた麻鳥は、まもなく義経主従に会うこととなる。 そこで知ったことであるが、土佐の君とは刀禰弾正介の嫡子・左金吾、千光坊七郎とは居初権五郎、叡山の俊章とは堅田帯刀であった。 義経主従が匿われていた場所とは、琵琶湖の北の磯遠くに浮かぶ小さな島、竹生島であった。 そして今からは、奥州へ落ち延びる覚悟でいた。 そして義経は刀禰弾正介から手渡された静からの文を読んだ。 「今朝鎌倉へひかれて下りまする。君はいずこに。また、身はどこへひかれましょうとも・・・・。吉野山のおことば、日夜、忘れませぬ。今更の、おこたえとて、重ねませぬ。 ただただひとつ、すぐにでも告げまいらせたいうれしい兆しが、身のうちに宿りました。詳しいことは薬師の麻鳥からお聞き取り賜りませ。 もう、迎えの獄卒が門にきております。 ごきげんよう。」 義経は静が身篭っていることは知らなかった。 身重でありながら鎌倉へ詮議を受けにいく辛さを思うと涙がでてとまらない。 かつて、ここ竹生島は木曾義仲が洛入し、平家の大軍が北陸へ下る時に、平皇后宮亮経正が立ち寄り阿部麻鳥と対面し清盛公の臨終の際世話になったと琵琶の音を披露した。 そして経正は一の谷で見事に果てたのである。 老禰宜から、そのようなことも聞くと義経の胸は尚一層痛むのである。 義経は奥州へ下る前に是非ともあっておきたい人がいた。 仁和寺の門主守覚法親王である。覚性入道親王の後を継いだ、後白河法皇の第四王子である。洛入りは至難の業であったと思われる。よほど宮に会って話を望んだのだろう。宮の著書、御室左右記に、このときの出来事が見聞随想として書いておられるのである。
西行法師も今は70歳になろうとしていたが、ある目的があって奥州平泉を目指して旅をしていた。 俗名は佐藤義清とい若かりし頃には、平清盛とともに兵衛尉に任ぜられ、鳥羽上皇の北面として奉仕していたが23歳の時に出家し、のちに西行と称した。 袈裟御前と縁多い文覚(俗名 遠藤盛遠)も北面時代の仲間である。 出家の動機は諸説あるが、一説に白川院の愛妾にして鳥羽院の中宮であった待賢門院璋子への恋着のゆえであったとも言われている。 出家後はしばしば旅に出て多くの和歌を残した。 讃岐国では崇徳院の陵墓白峰を訪ねてその霊を慰めたと伝えられている。 先日鎌倉の頼朝に面会したあと、静御前を慰めていた安達新三郎清経と話を交わしたあの貧乏法師が、西行でもある。 この旅では、途中病に倒れ木賃の者から芋粥などを乞いながら、やっとの思いで奥州にたどり着いていた。次のような歌からも伺える。「捨て果てて 身はなきものと おもひしも 雪の降る日は 寒くこそあれ」 鎌倉を出たのが八月であったが思わぬ病気などで奥州に着いたのは雪深い真冬である。 奥州藤原秀衡は西行の到着を心から歓迎し、いたわった。 実は秀衡と西行は遠い親戚にあたり、会うのも今回が二回目である。 西行は東大寺重源上人の切なる依頼から、ぜひなく下ってきたこと、 そして大仏殿造営の寄進を乞うのが目的であることを告げた。 西行はしばらくこの平泉に逗留していたがいろいろなことが耳に入ってくる。 秀衡には長兄・国衡のほか、正妻の嫡子・泰衡、高衡、忠衡、通衡、頼衡と六男がいたが、父秀衡を受け継ぐ器量の持ち主がいないとか、 義経の奥州入りがまじかとみえて、館拵えの造作で忙しいとか。 何故か悪い予感に憂いを抱く西行である。 いつか頼朝の命で夜襲を行った土佐坊昌俊が義経の返り討ちに会ったときには、頼朝は、頼もしい弟になったことよと喜んでいる。 また、今回の義経奥州くだりも、頼朝にとっては奥州攻めの大義名分ができて、喜んでいるのではないかとさえ、思う西行であった。 春になると西行は奥州を後にした。 かつては門脇殿の所領とか小松殿の所領とか、いずこの地でもみられた門が、今や鎌倉の地頭にいれかえられている。 守護地頭の兵がなだれ込んだ際に、平家の末の末という人々は皆山の奥地へ逃げ込んだ様をみると尚一層憂う西行である。