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白川郷

2009年09月27日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

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白川郷

2009年09月27日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

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安寿姫・厨子王伝承の地

2009年09月27日 | 平安時代

 ここ宮津市由良は安寿姫・厨子王の伝承地である。 奥州日の本の将軍・岩城判官正氏殿は、帝のご勘気を蒙って、筑紫の安楽寺に流されることとなった。後に残った御台所は、父恋しと嘆く安寿姫・厨子王を連れ、乳母を供として、夫の赦免を乞うべく国を出立して都に向かった。半月ばかりで一行は、越後の国直江の浦にたどり着いたが、ここで宿を貸そうという人買いの山岡太夫に騙され、御台所と乳母は蝦夷ヶ島、安寿姫・厨子王の姉弟は丹後に売り分けられる。その別れに絶望した乳母は、自から身を投げて果ててしまうが、同じく投身しようとする御台所は、舟梁に縛り付けられ、蝦夷ヶ島の商人に売られ、やがて足手の筋を断ち切られ、涙の雨に失明して、明け暮れ粟の鳥を追う身となったという。

 一方、丹後の山椒太夫のもとに売り飛ばされた安寿姫・厨子王の姉弟は、あるいは潮汲みに、あるいは柴刈りの労役をしいられ、その過酷さに命も危うく思われたが、太夫次男の二郎の慈悲や村人の柴勧進によって、かろうじて命をつなぐ。しかし、太夫のあまりに過酷な労役から逃れようと、姉弟が逃亡の相談をするところを太夫三男の三郎に立ち聞きされ、二人はそれぞれ額に焼き金を当てられる。無残な姿となった二人は、年の暮れには浜路の松の木湯船の下に追いやられ、正月十六日には半死半生のまま山仕事に責め立てられる。が、宍道の岩の洞に、安寿姫が膚の守りの地蔵尊を取り出だして拝むとき、二人の焼き金の傷は忽ち消え、地蔵菩薩の白毫どころに焼き金のそれが現れたという。そこで姉の安寿姫は、その地蔵尊を弟の厨子王に託し、寺を頼めとあえて説得してその場から逃げさせる。ひとり屋形に戻った安寿姫は、太夫の三郎に迫め立てられ、湯責め水責めのはて、炭火に焼かれて、十六歳の一期を終える。山を逃れた厨子王は、太夫の追手が迫るのに気づき、国分寺の毘沙門堂に助けを乞うと、そこの聖は、古い皮龍のなかに厨子王を入れ、縄で結んで棟の垂木に吊って、素知らぬ体で日中の勤めをいとなむ。やがて太夫を先頭に、毘沙門堂に駈け込んだ追手たちは、聖を迫め立て寺中を探し回るが、厨子王を見出せない。しかし、ついに三郎は棟木の皮籠を見とがめ、兄の太郎の慈悲のことばを退けて、それを降ろして縄を切り、その皮龍の中を見ると、そこには姉から託された厨子王の膚の守りの地蔵菩薩が金色の光を放っていたという。

 追手が去った後、毘沙門堂の聖は、厨子王の入った皮龍を背負い、はるばる都へ上り、西の七条朱雀の権現堂まで送ってくれる。その権現堂からは、厨子王は人々に土車に乗せられ、宿送り村送りされて、難波の四天王寺にたどり着く。たまたま天王寺の阿闍梨さまに見出され、茶汲みの稚児として仕えるが、清水観音に申し子をして子どもを求めていた梅津の院と邂逅、その養子に迎えられる。しかも、梅津の院に代って、帝の大番を勤めた厨子王は、求められて素姓を名乗り、帝から許されて、父の元の所領・奥州五十四郡を賜わり、丹後の国まで添えられたという。 厨子王は、早速に安楽寺に父を迎えの輿を出す。次いで丹後に入って、国分寺に詣でて聖を探し出す。聖は、その後に安寿姫の死骸を弔うたとて、その死骨・剃り髪をさし出して見せる。さらに厨子王は、由良の港に使を出し、山椒太夫親子を国分寺に呼び寄せた上で、太郎と二郎の二人を許し、太夫を三郎に鋸引きさせ、三郎を浜に引き出し往来の山人に鋸引きさせる。やがて慈悲の心を寄せた人々に恩賞を送った厨子王は、直江の浦で山岡太夫を引き出して、これを柴漬けの刑に処し、はるばると蝦夷ヶ島に赴いて、鳥追いに身を落とした母を探し出す。しかも、その母の盲目は、かの膚の守りの地蔵菩薩を取り出して、その両眼に当てるとき、たちまちに元のごとくに開いたという。 最後に厨子王は、姉の安寿姫の菩提を弔うため、かの膚の守りの地蔵菩薩を丹後の国に安置して、一宇の御堂を建立するが、今の世に残る金焼地蔵のことである。

宮津市由良にある安寿姫の墓

 

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大国主命伝舞

2009年09月27日 | 記紀創世紀

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