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南禅寺

2009年09月15日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 紅葉の時期の南禅寺を待ちきれずに、行ってまいりました。 南禅寺は東西一直線に配置された勅使門、三門、法堂、方丈の規模は大きく塔頭も立派で五山の筆頭である。 五山という制は鎌倉幕府が始めた禅宗寺院の格付けで、後醍醐天皇の建武の新政下では南禅寺と大徳寺を五山の第一位とし、建仁寺、東福寺、建長寺、円覚寺の順位を定めた。南北朝では足利尊氏が後醍醐天皇の冥福を祈るために嵯峨に天竜寺を建立し、足利義満が室町幕府に隣接して相国寺を建立すると五山の制に変化がおこった。 南禅寺を五山の上におき、京五山として天竜、相国、建仁、東福、万寿の各寺を位置づけたのである。 万寿寺はもともと六条御堂ともいい後に東福寺の三聖寺のあった地に移っている。 南禅寺塔頭の金地院の境内は大きく以心崇伝が南禅寺の住持になってから鷹峰より移し、規模を拡大したといわれるが本来の名称は以心崇伝である。 崇伝は1608年から徳川家康の諮問をうけ公家諸法度や武家諸法度の作成にも関与し、黒衣の宰相とよばれて権勢をふるった。 開山堂の前をとおって伏見城の遺構と伝える方丈は崇伝が徳川家光からもらったものである。 方丈の前にある鶴亀の庭は東山を借景にした枯山水庭園は江戸初期に大名茶人として知られる小堀遠州の代表作である。 14世紀に五山派寺院の統制のため僧録が任命され僧録司という役所で管理されたが、金閣寺(鹿苑寺)がその任を務めていたのである。崇伝がこれに任命されてから代々の金寺院の塔主が任じられ江戸時代末まで続いている。

 

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