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相国寺・足利義政墓

2009年09月26日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 京都御所の真北にある相国寺は足利義満が時の権力を誇って建立したものである。時の権力者のことを「相国さん」と云ったから、今風で言えば「権力者寺」といったところでしょうか。相国寺内にある塔頭寺院・大光明寺内にあったのが足利義政の墓でした。 大光明寺の開基は広義門院・西園寺寧子で、左大臣・西園寺公衡の長女として1292年にうまれ、第93代後伏見天皇(1288-1336)の皇后となり、光厳天皇・光明天皇の母です。 門院は、深く仏教に帰依され、また夢窓国師によって禅学を修し、1336年に後伏見天皇が薨去されると落飾、尼となり、伏見離宮の傍らに一寺を建立もって帝の菩提を弔い、ご自身の法号をもって大光明寺と称しました。 伏見宮始祖栄仁親王(門院の御孫)薨じ、寺内に葬り、以来当寺は伏見宮家歴代の菩提寺となっています。 

 【嘉吉の乱、土一揆、徳政令】

 足利6第将軍義教が1441年、赤松満祐に暗殺されると後継者には、管領細川持之以下有力守護大名により嫡男・義勝が選ばれ、赤松満祐の追討が決まり、後花園天皇より追討の綸旨がでた。満祐は播磨・備前・美作の兵により体制を整えたが、但馬守護の山名持豊を総司令官とする幕府軍にはかなわず播磨坂本城から木山城に後退し1441年落城する。将軍義教が暗殺された3ヵ月後のことである。ところでこの時徳政(借金を全て無かったことにするというもの)を求める人々が京の都を占領し主要な神社仏閣を焼き払うと言う風に脅迫する徳政一揆が起こった。山名持豊などの有力守護大名の軍勢が赤松満祐討伐に向かった留守を狙ったのである。徳政一揆の鎮圧に動いたのは将軍代行の管領細川持之であるが、逆に武力鎮圧に反対してのが畠山持国(河内、紀伊、越中の三国守護)である。赤松満祐征伐の山名持豊は満祐亡き後播磨守護の地位を狙って居座り、京への帰還が遅かったため、責任者である管領細川持之にとっての痛手は大きかった。嘉吉元年、京都・東福寺は3万に膨れ上がった一揆勢に襲われ、主要な寺社など16カ所を占拠された。同時に一揆勢は京都七口と言われる流通経路を遮断して都を完全に包囲したのである。北野天満宮も一揆勢の攻撃を受けたことが天満宮に残された「足利義持下知状」から伺える。かくして畠山持国の擁護のもとに一揆勢は勝利を収め徳政(借金棒引きという農民救済政策:格差是正)を認めさせた。寺社に対しても寄付を取り戻すことができる徳政に怒った比叡山延暦寺は強訴により幕府を圧倒すると、徳政は寺社に対しては例外であるとし、徳政の対象から外したのである。寺側は酒などをふるまうことによる一揆勢への急場対応を行った。これによって延暦寺などの寺社勢力は力を貯え、日本の社会に大きな影響力を持つようになる。またこの時に馬借と呼ばれる馬を使って農産物を年に運ぶ流通に関わる人々が台頭する。 七代将軍義勝が早くに亡くなり義教が八第将軍になったのはこのように世の中が混沌としていた時である。 

 八第将軍足利義政というと銀閣寺(慈照寺)それも書院造の書斎・東求堂同仁斎が有名である。 当時は東山山荘という義政の隠居所で銀閣寺は正式には観音殿という。義政は多くの側室の中でも今参局を溺愛し二人の女児をもうけ、20歳の時に日野富子という正室を向かえた。この頃お今の力も頂点に達し、斯波家の相続争いに口を出すほどであったが義政の叔母・日野重子は一族の日野富子を義政の正室として嫁がせた。そのうち日野富子との間に男児が生まれるが死産となり、原因はお今の呪詛であると訴えたことによりお今は琵琶湖の沖島に流される途中で自ら自害する。この頃日本有数の大飢饉により鴨川の河原には8万を越す死体が積み重ねられたという。こんなときでも足利義政は花の御所を造営していたというから世の混乱が収まるはずはない。関東公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺し享徳の乱を引き起こしたのもそのひとつである。こうしたなか、義政は弟・義尋に還俗させてまで将軍の座を譲ろうとする。還俗し義視と名乗り管領細川勝元を後見人として今出川に屋敷を構えたところ、義政と日野富子の間に男児・義尚が生まれ義視との後継人争いなど益々混乱は拡大していくのである。

 足利義政の正妻・日野富子が名家日野家に生まれたのは1440年、嘉吉の乱の前年である。嘉吉の乱というのは、悪政の限りを尽くした六代将軍足利義教が家臣の赤松満祐に暗殺された事件のことである。 その2年後に嫡男・義勝が僅か九歳で七代将軍になるが、間もなく死亡すると、弟の義政が十四歳で将軍となった。 日野富子が16歳の時に義政の正室となったのは叔母・日野重子の働きかけによる。重子は義勝、義政の実母で義教の正室である。  富子が義政の正室になった頃、義政には寵妾・今参局がおり、佐子という若い女性をも閨へ送っていた。お今はもともと義政の乳母であるが、いつの間にやら・・・。義政の好色は三代将軍義満から受け継がれている。義満は姉妹とも通じていたらしいし、父・義教は日野康子・宗子姉妹、女官の三条伊子姉妹の4人を閨に招いて乱交を行っていたほどである。 お今は1455年に女児を出産すると同年、日野富子が義政の正室となったが16歳の富子に通うことは少なかった。お今が佐子をはじめ、多くの侍女を義政に送り込んで、富子を排除しようとした為でもある。 富子は4年目の1459年に男子を出産する。重子、勝光が喜んだのは言うまでもないが、男子はあっけなく死亡。そして「今参局呪詛のため若君早世」の噂が広まったが、これはもちろん重子の陰謀である。島流しから死刑へと処罰が変わると、お今は切腹自殺をはかった。 義政の悪政ぶりは並大抵ではない。室町殿を改装し、花の御所といわれた贅沢三昧の邸を1464年完成させたのおかげで、世の中が飢え苦しみ動乱がはじまった。 つまり、悪政を正すための、徳政一揆(土一揆)が京都を中心に頻発した。 この頃、京都の人口30万人のうち、8万人以上が飢えなどで死んだという。 政治のことは何もしないわりには、政治に嫌気がさした義政は 弟の天台宗浄土寺の門主義尋に将軍就任を持ちかけている。義尋は俗還を拒んだが義政の説得も強硬で、この説得にあわてたのが日野重子、勝光親子である。義尋が俗環し義視と名を改め義政の養子となって将軍になるのだから、日野家の存続が危ないのである。 義視が次期将軍の準備を終えた頃、富子が妊娠をしたから、重子は驚いた。この頃、側室の宮内卿局が男子を出産すると富子に御所から追い出され、同じ頃、男子を出産した侍女は暇をだされた。要らないところに男子がポコポコ生まれるから世の中うまくいかない・・・。 富子は無事に出産した子は男子であった。 富子が義尚を産むと乳母と伊勢貞親邸へ移され、義視追い落とし計画が始まった。 当時三管領の斯波家当主義廉と義敏は抗争しており、義廉の横暴に業を煮やした伊勢貞親は義政に働きかけ、義廉を排して義敏を当主とした。これにより義廉は側室の父・山名宗全に援護を求め、両者の兵により京都は騒然となる。このどさくさのとき、義視が山名宗全の後押しで兵を都へいれ、義政追討を狙っているという陰謀を伊勢貞親は企てた。恐らく富子に生まれた嫡男・義尚を将軍にするために、義視を追い落とすために日野重子、勝光も共謀したのだろう。陰謀の情報が漏れて、義視の潔白がわかると、山名宗全は伊勢貞親の追放を義政に迫り、貞親、季瓊真蘂、斯波義敏なども京都から逃げ出した。 こうして山名宗全は京都に大きな権力を打ち立てる。義視が細川勝元を後見としたように、富子はさらに大きな義尚の後見として、山名宗全を選んだ。足利義視を推す細川勝元と義尚を押す山名宗全が真っ向から対することとなった。 結果、この対立抗争は富子の予想に反して11年もの長い期間にわたって続いた。これが応仁の乱である。義視勢は16万、義尚勢は9万と細川勝元が有利であったが、途中で山名宗全は大大名大内政弘を迎え入れ、形勢は逆転し、義視は伊勢へ逃げて北畠氏を頼った。花の御所のすぐ近くに相国寺があり東軍義視側の本拠地であったが義視逃亡のあとに優勢となった西軍は一気に東軍を攻めた。これを相国寺合戦というらしい。 義政は自分の室町殿へ降りかかる火の粉を眺めて宴会をしていたという・・・。 応仁の乱勃発6年後に義政の御父・伊勢貞親が死亡し、その数ヵ月後に山名宗全、細川勝元と相次いで死亡している。 動揺する義視をしりめに、義尚が征夷大将軍に任命された。 翌年の1474年にいよいよ富子は義尚の後見人として政治の舞台に登場するのである。そして小河の新邸が完成すると義政は政治を放棄して、移っていく。 その頃、山名宗全の後継者としての政豊が西軍の大将として、細川勝元の後継者の政元が東軍の大将として室町殿で会見し、講和を成立させた。ただ、東軍の赤松政則、畠山政長 西軍の大内政弘、畠山義就などは講和を認めていない。 世の中落ち着いたようには見えたが、幕府の財政は苦しく、徴税が思うようにいかず、義政の浪費に富子の苦労は並大抵ではなかった。1476年に内大臣であった富子の兄・日野勝光は左大臣となるが病魔に襲われてあっけなく死亡した。義政の義弟という地位を利用して辣腕をふるい、秘計を巡らすところにはいつも多額の金が動いたのは事実で、毒殺されたという説もある。しかし、勝光の死後、和平の機運は高まった。 1477年大内政弘の仲介で義政、義視の和解が成立し、富子から1千貫を受け取った畠山義就は京都から立ち去った。そして義視は大内政弘の斡旋により美濃の土岐成頼(斉藤道三に滅ぼされた土岐頼芸の祖父)のもとに身を寄せ、京都かた立ち退いた。こうして11年に続く応仁の乱は終わることになる。 地方武者の姿が京都から消えると、疎開していた市民は続々と京都に戻ってくるが、公家の一条兼良もそのひとりである。富子はさっそく一条兼良を招きいれ、帝王学などを学んでいる。この頃から富子の金融、相場としての才能を開花させ、幕府への多大な収入に貢献している。一方、義尚は母・富子の期待を一身に受けて、帝王学を学ぶのであるが、父・義政の血を受け継いでしまったらしく、母の期待を裏切るのである。 将軍となった義尚は、16歳で勝光の娘と結婚している。 この従兄妹同士の結婚が嫌だったのか、母への反抗か、将軍職を退こうと髻をきったところ、執事の伊勢貞宗に諌められている。 それから2年後の1481年、今度はほんとうに髻を切ってしまった。従兄妹同士の結婚をしたが、徳大寺公有という公家の娘を愛人にしていたが、実は父義政の愛人でもあった。 二人の騒動に嫌気がさした三条兼綱という公家の娘は義尚の愛人であったが、尼になっている。 こうして母・富子への反抗の後、伊勢貞宗の邸へ引き移った。出家の為か、1486年頃から義政は東山に籠もるようになるが、義尚は南近江で活発だった六角高頼(信長と戦った六角義賢の祖父)の横暴を征伐しようと出陣する。副将は細川政元、執事は伊勢貞宗である。が、1488年義尚は陣中で倒れ、翌年25歳で死亡する。将軍を失った富子は次期将軍に宿敵義視の嫡男義材(富子の甥)を推した。しかしこれに反対の立場にあった細川政元は対抗馬として堀越公方政知の子・清晃を立てたが、次期将軍に義材が内定する。 1490年に義政は55歳でなくなると、将軍義材の父・義視が俄かに幕政を壟断しはじめた。富子の予想通りである。同年暮れ、畠山義就が病死し、翌年義視が53歳で病死する。 これで応仁の乱の役者で残ったのは畠山政長と斯波義敏のみとなる。富子の命により義材は畠山政長を副将として近江の六角高頼征伐に出陣し制圧する。この頃、義材は、富子にとって危険な存在となっており、富子は細川政元と接触し、清晃を将軍に据えて義材を倒そうと考えていた。幕府軍が河内へ遠征しているころ、細川政元が挙兵し、慈照院(後の銀閣寺)の義材の弟・周嘉を殺害し政元の一方的な勝利となり、清晃は新将軍・義遐と名乗る。後の第11代将軍・義澄がこの人である。 こうして二人の将軍、第十代将軍足利義材と第十一代将軍足利義澄が出現したが、細川政元は河内に滞在する元幕府軍義材は偽者だとして新幕府軍を結成し、討伐に向かわせた。すると参陣の多くが副将、畠山政長から離れ、義材軍はもろくも壊滅する。 畠山政長は善戦するがとうとう本陣に火を放って自害した。 義材は捕虜となって生還したが、細川政元の支持の元軟禁される。 後に義材は足利氏伝来の家宝の鎧・太刀を義澄にゆずり、将軍位を降りると毒殺された。未遂に終わったが、犯人は富子である。 細川政元は彼女の意思表示に屈するように、義材を小豆島へ島流しとした。

 

上杉清子  
┣足利直義1306-1352    ⇔  新田義貞1301-1338  
┗足利尊氏1305-1358    ⇔  後醍醐天皇1288-1339
  ┃┣義詮1330-1367                     ┃┃      ┏憲忠1433-1455
 ┃┃┃藤原慶子                       ┃┃関東管領上杉氏 ↑      
 ┃┃┃┣義持1386-1428 管領斯波義将⇔朝廷  ┃┃       享徳の乱1455-
 ┃┃┃┃ ┣義量1407-1425              ┃┃     ↑  ↓
 ┃┃┃┃栄子 武者小路隆光         ┃┃三宝院満斎↓┏成氏1438-1497
 ┃┃┃┃   ┣━━━━ 娘         ┃┃関東公方足利持氏   
 ┃┃┃┃   ┗円満院  ┣細川澄之     ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┣潤童子 九条政基      ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃  大内義興娘      ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃斯波氏┣義栄ヨシヒテ1538-1568┃┃(三好氏で養育)   
 ┃┃┃┃    ┃┣義維1509-1573      ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃┃日野永俊娘          ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃┃┣義晴1511-1550      ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃┃┃┣義輝1536-1565    ┃┃⇔ 松永久秀(1565永禄の変)   
 ┃┃┃┃    ┃┃┃┣義昭1537-1597(覚慶)┃┃  (三好三人衆:義栄派)  
 ┃┃┃┃    ┃┃┃近衛娘          ┃┃  伊勢貞親1417-1473 
 ┃┃┃┃斉藤氏 ┣義澄(清晃)⇔┏茶々丸   ┃┃⇔┏北条早雲1432-1519伊勢氏   
 ┃┃┃┃  ┣政知1435-1491関東堀越公方  ┃┃ ┗北川殿  
 ┃┃┃┣義教1394-1441(義円) ⇔ 赤松満祐  ┃┃  ┣竜王丸(氏親)⇔┏小鹿範満 
 ┃┃┃┃  ┃  ┃ 家督争い参入⇒嘉吉の乱┃┃  今川義忠1436-1476駿河守護 
 ┃┃┃┃  ┃  ┃             ┃┃   
 ┃┃┃┃ ? ┣-  ┣義勝1434-1443持之が擁立 ┃┃満元┓   
 ┃┃┃┃ ┣宗子  ┣義政1436-1490乳母伊勢氏 ┃┃管領細川持之1400-1442(嘉吉の乱で逃走⇒嘲笑@都)     
 ┃┃┃┃ ┃-1447 ┃┃┣女児         ┃┃ ┗細川勝元1430-1473東軍⇔西軍山名宗全(応仁の乱)
 ┃┃┃┃ ┣義資  ┃┃今参局-1459      ┃┃   ┃┗政元1486-1507(明応政変)
 ┃┃┃┃ ┃┗重政┃┣義尚1465-1489       ┃┃   ┣-    ┣澄之(養子)
 ┃┃┃┃ ┃  ┣┃日野富子1440-1496    ┃┃ ┏春林寺殿 ┗澄元(養子) 
 ┃┃┃┃ ┃    ┣┃日野勝光1429-1476内大臣 ┃┃ ┣豊久(細川養子→出家) 
 ┃┃┃┃ ┃    ┃┃┗娘義尚夫人         ┃┃山名持豊(宗全)1404-1473播磨守護⇔赤松満祐   
 ┃┃┃┃ ┃  ┃┣義視1439-1491(義尋)   ┃┃(幕府軍の司令官となるが動かない)室町性  
 ┃┃┃┃ ┃  ┃┃┣義材1466-1523⇔政元  ┃┃満家(山城守護)┓   
 ┃┃┃┃ ┃  ┗┃日野美子 妙音院       ┃┃管領畠山持国1398-1455   
 ┃┃┃┃ ┣重子1411-1463⇔今参局          ┃┃畠山持富⇔┗義夏(義就)義政保護   
 ┃┃┃┃日野重光(左大臣)1374-1413         ┃┃ ┗政長(勝元保護)┗畠山基家 
 ┃┃┃┃春日局                ┃┃           ┗義英
 ┃┃┃┃┣義嗣1394-1418                 ┃┃   
 ┃┃┃┃┃ ┗嗣俊(鞍谷氏)              ┃┃  
 ┃┃┃┃┃ 日野康子   ┏━━━━━━━━━┛┃ 
 ┃┃┃┃┃ ┣-      ┃┏━━━━━━━━━┛ 
 ┃┃┣義満1358-1408   ┃┣成良1326-1344(光明皇太子)  
 ┃┃┃   ┣女子    ┃┃
 ┃┃┣満詮 日野業子   ┃┣義良(後村上天皇)1328-1368  
 ┃┃紀良子        ┃┃┣寛成(長慶天皇)1343-1394                
 ┃┃藤原仲子(崇賢門院) ┃┃┃                
 ┃┣基氏1340-1367    ┃┃┣熙成(後亀山天皇)1347-1424                
 ┃赤橋登子        ┃┃藤原勝子?-?嘉喜門院
 ┣直冬1327-1400      ┃阿野廉子1301-1359             
 越前局           ┣護良親王1308-1335 
                    ┣懐良親王1329-1383 
            源師親娘

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大観峰2318mより立山最高峰3015mを望む

2009年09月26日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

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石鎚山頂へ

2009年09月26日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

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