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御室南の双ノ丘にある花園西陵

2009年09月02日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 京都の御室の南には双ノ丘があり、秦氏の一族が墳墓の地に定めた。 この麓にはその昔、右大臣・清原真人夏野公の邸宅があり墓があったという。 清原真人夏野は 舎人親王(天武天皇と新田部皇女の子で日本書紀の編纂を行ったことでも知られ、子には三原王、後に淳仁天皇となった大炊王などがいる) の孫・小倉王の息子で、臣籍降下して清原氏の祖となった。 双ノ丘一号古墳は仁明天皇から位を授けられたらしく、847年に仁明天皇は狩猟のときに墳丘の頂に立ち、 その翌日には丘の南にあった左大臣・源朝臣常の山荘で食事をとったという。一ノ丘の南麓から二ノ丘、三ノ丘にかけて小円墳が群集しいずれも横穴式石室を築いていた。 双ノ丘の東には花園の地があるが、これは清原真人夏野公の邸宅には万花が植えてあったことに由来する。清原真人夏野が837年に亡くなった後、双ノ丘の山荘は天安寺となり、平安末期の1130年に鳥羽天皇の中宮・待賢門院は天安寺を復興して法金剛院を建立し、深く仏教に帰依してここで落飾した。 待賢門院は亡くなると法金剛院近くの五位山の 三昧堂に葬られたが、これが花園西陵である。

 

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