上醍醐陵
京都府京都市伏見区醍醐山醍醐寺内
昨年春の醍醐寺にて桜花見をしたときに続いて、二回目は冬の醍醐です。このときの京都は冷え込みがきつくボタン雪が途中から降ってきました。 上醍醐陵へ行ってみようとしたのですが、ここ参道入り口から陵までは約1時間の山登りを覚悟する必要があるのですが、丁度ボタン雪が雨に変わるという生憎の天候のために断念です。
上醍醐陵への参道(2008/1/25撮影:クロウ)
上醍醐は桜で有名な醍醐寺から西へ登山道を進んだ上醍醐山頂にあります。 比叡山延暦寺、高雄山神護寺といったお寺と並んで江戸時代まで女人禁制でした。 いずれも密教系の山岳寺院で、厳しい修行に打ち込むのは男性に限定され、それゆえ修行のさまたげとなる恐れのある女性は近づくことができなかったといいます。 上醍醐寺の開山堂の近くに上醍醐陵という陵墓があり、 この陵墓の主は白河天皇の中宮だった藤原賢子 (紫式部の娘の名も藤原賢子)、その娘で堀河天皇の中宮になった媞子内親王、賀茂の斎院になった令子内親王の三人の母子です。
白河天皇皇后 藤原賢子・第72代白河天皇中宮の父は右大臣源顕房、母は源隆俊の女隆子。 後三条天皇は藤原頼道の嫡男・師実を呼び、養女賢子を1071年、東宮貞仁親王(白河天皇)に入内させた。 これにより村上源氏の父・源顕房は宮廷に威勢を誇るようになる。 白河天皇即位に伴い女御となり、翌6年長子敦文親王誕生に伴い中宮となる。 1077年敦文親王を亡くすも、1079年善仁親王(後の堀河天皇)を出産し、ほかに、媞子内内親王(郁芳門院)、令子内親王、子内親王を生んだが病にかかり、三条第にて28歳で崩御する。 鳥辺野にて火葬され、翌年醍醐山頂の円光院にて遺骨を納めた。 賢子を非常に寵愛した白河天皇は、重態に陥った時も宮中の慣例に反して退出を許さず、ついに崩御した際には亡骸を抱いて号泣し、食事も満足に取らなかったという。 これを見かねた権中納言源俊明が、遷幸を勧めると、「例はこれよりこそ始まらめ」と反論した逸話は有名である。 白河天皇の嘆きは一方ならず、1086年円光院を建て遺骨を納め、毎月仏像を造り、さらに円徳院、勝楽院、常行堂などを建てて供養した。 1087年、堀河天皇が即位すると皇太后を追贈された。
実は賢子の異母妹である師子も白河上皇の後宮にはいり、後の覚法法親王を身篭って退出し、その後に藤原師実の妻となっている。
白河天皇皇女尊称皇后・媞子内親王(郁芳門院)は中宮 藤原賢子の娘で同母弟に堀河天皇、同母妹に皇后宮令子がいる。 3才で斎宮に卜定されるが、母の死により退下後は母・賢子の面影が色濃かったため、最愛の中宮を亡くした白河天皇に鍾愛されました。 12才の時、5才年下の弟・堀河天皇の准母となり、入内。4年後、初の配偶者以外の中宮に冊立され、2年後、16才で女院号宣下されるが21才で早世し、父・白河上皇は悲しみのあまり直後に出家しました。
藤原顕季アキスエ1055-1123
┗長実
┗藤原得子(美福門院 八条院)1117-1160
┣体仁親王(ナリヒト)76近衛天皇1139-1155
┣女朱内親王(高松院)1141-1176
┃ 藤原泰子(高陽院)1095-1155藤原忠実娘
堀河天皇┃ ┃
┣鳥羽天皇74代1103-1156 鳥羽の護衛・遠藤盛遠は袈裟を愛し袈裟を討後、文覚
藤原苡子┃ ┃ 佐藤義清(後の西行)も護衛
┃ ┣統子内親王1126-1189(上西門院、袈裟御前が出仕)
祇園女御 ┣顕仁親王75崇徳1119-1164 ┣
┣清盛? ┃ ┣重仁親王1140-1162 源渡
┃ ┃ ┃ 乳母:有子
┗━━━┓ ┃ 藤原聖子1122~1181藤原忠通娘 皇嘉門院
藤原基子1049- ┃ ┣雅仁親王後白河天皇77代1127-1192(藤原通憲(信西)側近)
┣実仁親王 ┃ ┣禧子内親王1122-
┃(白河皇太子) ┃ ┣覚性入道親王1129-1169仁和寺門主
┣輔仁親王 ┃ 藤原璋子(待賢門院)1101-1145公実・娘
後三条天皇 ┃ ┃ (祇園女御,白川に寵愛)
┣白河上皇72代1053-1129貞仁親王 六条帝
藤原茂子┃┃ ┣覚行法親王
┃祇園女御・妹兵衛佐局 経子
┣善仁親王(堀河天皇)1079-1107
┃ ┃ ┃
┃ ┃ 篤子内親王
┣媞子内親王1076-1096斎宮(郁芳門院)
┣令子内親王1078-1144斎院
源顕房 ┣子内親王1081-1156土御門斎院
┃┣藤原賢子1057-1084
┃隆子
┗師子1070-1148(後に藤原師実妻)
┣覚法法親王1092-1153
白河上皇
醍醐寺から眺めた醍醐山(2007/4/4 撮影:クロウ)遥かかなたの上醍醐陵に思いを馳せて。