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池田輝政は高砂城城主だった

2008年02月17日 | 戦国時代

池田輝政

 1564年、池田恒興の次男として尾張国に生まれ、織田信長に仕え、本能寺の変後は、父兄と共に羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に仕える。  1584年の小牧・長久手の戦いで、父恒興と兄元助が戦死したため家督を相続し、美濃国大垣城13万石、ついで岐阜城13万石を領する。  豊臣時代、輝政は豊臣一族に準じて遇され、従四位下侍従、および豊臣姓を許される。 また、豊臣秀次の失脚時、秀次の妻妾の多くが殺害されたものの、輝政の妹・若御前(秀次の正室)は特に助命されるなど、特別丁重に扱われている。  1594年、秀吉の仲介によって、徳川家康の娘・督姫を娶る。 秀吉没後は関ヶ原の戦いでは徳川方に与し、本戦のみならず、前哨戦となった岐阜城攻略にも参加し、福島正則とともに功を挙げた。 戦後、播磨国姫路城52万石に加増され、名を輝政と改めると姫路城を大規模に改修した。 1612年、正四位上参議、および松平姓を許され「播磨宰相」「姫路宰相」などと称された。 二男忠継の備前国岡山城28万石、三男忠雄の淡路国洲本城6万石、弟長吉の因幡国鳥取城6万石を合せ、一族で計92万石もの大領を有して、世に「西国将軍」等と称された。徳川家との縁組は家格を大いに引き上げ、明治維新に至るまで池田家が繁栄する基盤となった。  

播磨高砂神社境内には現在、高砂城跡があり、池田輝政公の像も見ることが出来ます。

 

  

生駒吉乃1528-1566
  ┣1織田信忠1557-1582(岐阜城主)二条御所(本能寺の近く)で討死

 ┃ ┣秀信1580-1605(三法師)本能寺の変時に清洲城へ非難 
 ┃ ┣秀則1581-1625(秀信と共に関ヶ原合戦で西軍)

 ┃┏森可成(祖は河内源氏・源義家)娘(徳寿院)
 ┃┣森可隆1552-1570
 ┃┣森長可1558-1584小牧・長久手の戦で討死
 ┃┃   ┣- 督姫(家康次女)
 ┃┃┏━━娘   ┣池田忠雄
 ┃┃┣━━池田輝政1565-1613(姫路城主)
 ┃┃┣━━池田元助1559-1584
 ┃┃┣━━若御前   菊亭晴季(越後流罪)1539-1617娘
 ┃┃┃日秀┣-      ┣
 ┃┃┃ ┣豊臣秀次1568-1595(高野山で切腹)
 ┃┃┃ ┣豊臣秀勝1569-1592小吉(妻は淀の妹お江与 朝鮮で病死)
 ┃┃┃ ┣豊臣秀保1579-1595
 ┃┃┃三好吉房1522-1600
 ┃┃池田恒興1536-1584(信長の乳兄弟)清洲会議の宿老 小牧・長久手の戦で討死
 ┃┗森蘭丸1565-1582(長利)本能寺の変で討死【小牧長久手戦】
織田信長

 7月25日、伏見城攻撃を受けた徳川勢は小山に集結して軍議を開いた。 徳川家康は福島正則の攻略も行った。 福島正則は賤ヶ岳七本槍のひとりとして有名な名将であり、その説得には黒田如水の子・長政があたった。おかげで長政は異例ともいえる52万石の大名となっている。 本来秀吉の手中にあり、秀頼を守る立場にあった福島正則、加藤清正が石田三成とは朝鮮出兵以来反りが合わなかったことを巧に利用して調略したと考えられる。 これまでの豊臣秀吉の調略を家康が取り入れた効果が関ヶ原の戦い以前から始まっていたのである。 こうして小山軍議では福島正則は東軍の名乗りを上げた。 そして福島正則とともに先鋒となった武将に池田輝政がいる。 池田輝政は小牧・長久手の戦(秀吉と家康が戦い家康が勝利する)で討死した池田恒興の子であるから、本来家康は輝政にとって父の仇である。 戦後、輝政は秀吉の計らいで家康とも和解したが、そのときに家康の次女・督姫を妻としていために家康側についたのである。 

 小山軍議が開かれた一週間後の8月1日に伏見城は落城し前哨戦は西軍の勝利となる。 いよいよこれから本戦に突入していくのであるが、その戦場として選ばれたのは関ヶ原であるから、美濃領主の岐阜城が重要となってくるが、このときの岐阜城主は織田信長の孫・三法師、つまり織田秀信である。 秀吉に操られ13万石の領地しか与えられなかった秀信は秀吉に恨みがあるはずで、家康側についてもよさそうであるが、西軍に味方したことで東軍家康の攻撃目標は岐阜城と定まったのである。かくして先鋒福島正則と池田輝政は岐阜城を攻略して織田秀信を出家させた。

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