藤原頼通
藤原頼通とは藤原道長の嫡男で、26歳の時に父からの譲りで摂政となった。このあと、68代後一条・69代後朱雀・70代後冷泉の三代に渡って約50年の間、摂政の地位についたのは記録級である。 次に長いのは38年間の藤原忠通で、平均が10年くらいである。 しかし頼通本人はいたって凡庸な人であったというから、道長の布石がいかに大きかったかが伺える。 しかし天皇との関係は父・道長のような外祖父という立場ではなかったので弱かった。
京都・竜安寺の北側には一条天皇陵があり、その隣に69代後朱雀・70代後冷泉・71代後三条天皇陵が並んであります。(撮影:クロウ)
藤原実資、藤原公任の支え
それを陰で支えたのは藤原実資、藤原公任という有能な政治家である。 二人はいとこ同士で摂政の実頼を祖父に持つ。 実資は父が若死にしたため実頼の養子となり財産を受け継いだ。 また公任の父・頼忠は関白であったが子息に受け継がれるものではなかった。 二人とも道長の時代に生き、頂点には立てなかったが、優れた業績を残している。 道長は9歳年上の賢人右府(右府とは右大臣)・実資を頼ることが多く、無視できない存在であった。 道長の娘であり一条天皇の皇后となった藤原彰子も実資を敬愛し、頼通も同じく頼り切ったようである。 実資が残した「小右記」にはそういったことが印されている。 一方公任は道長と同じ年で、学識豊かで才人の誉れが高く政治以外にも文化人として平安時代の三大儀式書や三十六人撰など多くを残している。
隆姫女王
頼通が具平親王の娘・隆姫女王を娶ったのは一条天皇妃・彰子が敦良アツナガ親王を産んだ頃である。 具平親王は村上天皇皇子であり、血統の申し分がない隆姫と結婚したことで道長はこよなく喜んだという。 ところが93歳と長寿した隆姫は子供を産むことはなかった。 内親王を迎えるように勧められるが隆姫を愛しほかを寄せ付けなかったというが、源憲定の娘おの間に通房がいるし、藤原祇子との間にも子を設けている。隆姫に子ができなかったこともあり、通房の誕生は大きな喜びであったが権大納言という異例の出世をするも、20歳で亡くなっている。そして 藤原祇子との間に設けた師実モロザネが頼通の跡を継ぐのである。 師実は末子であったが、他の兄は全員養子にでており隆姫への配慮か、養子に迎えた師房の立場を考慮したものか。
寛子と師実
やっとのことで藤原祇子との間に寛子が生まれたのは頼通44歳のときである。結局頼通は女子には恵まれず、これが先の命取りとなる。寛子も後冷泉天皇に入るのであるが子供はできなかった。寛子は派手好みで後冷泉亡き後は宇治に住み、平等院奥の院と呼ばれ、白川金色院を創建した。
子に恵まれなかった頼通が期待を寄せたのは養子の源師房(具平親王皇子)で、道長の五女・尊子と結婚し、子の俊房・顕房は左大臣、右大臣となり、麗子は摂関・師実の妻になり関白・師通を産んでいる。 師実は村上源氏を称し、諸源氏の中で最も多くの公卿を輩出した系統である。源氏の公卿は院政期にはいってめざましく、多いときには半数を占め、藤原氏をしのいだ。
平等院
後に極楽浄土の世界と世に知られた平等院は1052年に頼通が父から譲られた宇治の別荘を寺院に改めたことに始まる。本堂の阿弥陀堂は鳳凰に似ており、鳳凰堂といわれているが、ここに安置されている阿弥陀如来像はかの有名な定朝ジョウチョウの遺作として知られている。頼通は晩年、ここ平等院に住んだ。
忠実・忠通親子の確執
摂関は道長の構想どおりに頼通から弟教通、そして師実へと継がれていった。 師実が関白の時代、白河天皇の治世であったが、師実は源顕房の娘・尊子を養子とし、白河天皇の中宮としていたので関係は良かった。ところで、20歳の白河天皇即位のとき、39歳の後三条天皇が法皇となり摂関家を抑えて、院政を推し進めようとしたが、翌年病死した。 この直後に頼通、教通、上東門院(彰子)が相次いで他界したため情勢は大きく変わったようである。 1086年、白河天皇34歳の時に上皇となり、8歳の堀河天皇に譲位すると関白・師実を摂政につけて幼帝を後見した。 堀河の立太子と践祚が同時に行われたので皇位を直系に伝えることが目的であったが、結果的に院政の始まりとなり、摂関政治が終わることになった。 師実は約10年で関白を33歳の嫡男・師通に譲り、16歳の天皇との仲を深め上皇の政治介入を抑えたが、師通の死後は本格的な院政時代へ入るのである。 師通の清廉潔白な政治に加え、賢人を登用し、学問を好んだため天下はきちんと治まったというが38歳の若さで亡くなった。 堀河天皇崩御は師通の亡くなった8年後である。関白は師通の嫡男・忠実に受け継がれ、鳥羽天皇の摂政のあと関白を務めた。が、娘の泰子を鳥羽天皇へ入内するよう勧められたときに難色を示したことから、白河上皇の怒りを買って関白の罷免に追い込まれている。 8年後に白河上皇が亡くなり、鳥羽院政になると忠実の復帰が叶い、泰子は鳥羽上皇の皇后に向かいいれられた。忠実の後、子の忠通が関白となったが38年間に及ぶ摂政は頼通につぐ長さであったが、忠実は次男の頼長を寵愛したため忠通と忠実は対立が絶えなかった。 忠通は、関白の座を頼長に譲るようにと父・忠実から強要されるが怯むことなく上皇の崩御後に爆発した。 保元の乱により敗れた頼長は37歳の若さで死んだが、この時代きっての学識者であったという。乱の2年後に天皇が後白河から二条に代わって、忠通は関白を16歳の嫡男・基実に譲り、法性寺に住んだことから、忠実のことを法性寺関白といった。
後白河天皇陵(撮影:クロウ)
二条天皇陵(撮影:クロウ)
御乳母一族の台頭
院政期の特徴として、乳母一族が院の近習として仕え、進出してきたことが挙げられる。 代表格は藤原顕季アキスエで、母が白河天皇の乳母である。六条修理大夫と呼ばれた顕季は白河院歌壇の中心人物でもあり孫娘の得子は美福門院といって鳥羽上皇との間に近衛天皇を設けた。 また白河上皇に重用された為房は妹が堀河・鳥羽二代の乳母をつとめ、次男の顕隆は妻が鳥羽天皇の、娘が崇徳天皇の乳母を務めたこともあり、白河院政を取り仕切った。 顕季、為房ともに摂関家と同じ藤原北家の系統であるが、両家ともに目立つ存在ではなかったが、後に顕季の子孫からは四条、山科、油小路といった諸家が分立し、為房の子孫からは吉田、万里小路、葉室、勧修寺に分家して後世で活躍することになる。 また、北家では為房に近い邦綱は平清盛と結びついて頭角を現した。娘4人が各々六条、高倉、安徳、建礼門院の乳母となり、自らは建礼門院の妹で関白・基実の妻・盛子の後見役をした。
為隆為房(1049-1115白河上皇に重用)
為平親王娘 尊子(道長五女) ┣為隆(万里小路家祖)
┣隆姫女王995-1087 ┣俊房 ┣顕隆(葉室家祖)
┣次女 ┃ ┣顕房 ┃ ┗徳大寺実能━公能
┣師房 ┃ ┃ ┗賢子(白河中宮)┗妹(堀河鳥羽の乳母)
┣嫥子女王┃ ┣麗子
具平トモヒラ親王┣源師房(1008-1077養子) 篤子内親王
┣源嫄子(敦康親王娘1016-1039養子) 中宮賢子 ┣
┃ 彰子 ┣祐子内親王1038-1105 藤原茂子(公成娘) ┣73堀河天皇1079-1107
┃ ┣69後朱雀1009-1045 ┣72白河天皇1053-1129
┃ ┃ ┃ ┣71後三条1034-1073 ┃乳母:藤原顕季アキスエ母
┃ ┃ ┃禎子内親王(陽明門院1013-)┃┣長実
┃66一条天皇┃ 光子(堀河鳥羽の乳母) ┃┃ ┗得子(美福門院)1117-
道長 ┃ ┣70後冷泉1025-┣三条実行 ┃┣家保 ┃
┣頼通992-1074 藤原嬉子┃ ┣西園寺通季┃┣顕輔 ┣76近衛天皇
┃ ┃ ┣通房1025-1044 ┃ ┣徳大寺実能┃藤原経平娘 ┃
┃ ┃源憲定娘┏━━━━┛ ┣璋子(待賢門院)1101-1145┃
┃ ┣覚円 ┣ x 実季┳公実 ┣75崇徳 ┃
┃ ┣寛子 1036-1127平等院奥院┗苡子 ┣77後白河 ┃
┃ ┣師実 1042-1101京極殿 ┗━━┓┃ ┃
┃ ┣家綱-1092 ┣師通モロミチ1062-1099 ┃┃ ┏━━━━━┛┣近衛基実
┃ ┣忠綱-1084 ┣賢子 ┃ 74鳥羽上皇 ┣近衛基房
┃ ┃ 麗子 ┣忠実1078-1162 ┣ ┣九条兼房
┃ ┣藤原祇子 ┣全子 ┃ ┣泰子(高陽院1095-1155) ┣慈円
┃ 頼成 俊家1014-1082 ┃ ┣忠通(法性寺関白1097-1163)
┣教通996-1075 ┃ ┣源師子
倫子 ┃ ┃┣ x ┃源顕房
┃ ┃嫥子女王 ┣頼長1120-1156(内覧 保元の乱で敗)
子内親王 ┣ 信家 盛実娘
┣ 通基
┣ 信長1022-1094(九条太政大臣)
┣ 生子1014-1068(後朱雀女御)
頼忠 ┣ 歓子1021-1102(後冷泉皇后)
┣公任┣ 真子(後冷泉女御)
厳子女王┣娘
昭平親王娘