マニエリズムのロッソ・フィオレンティーノ1495-1540、@フランソワ1世ギャラリー
ニコロ・デッラバーテ1512-1571
フランチェスコ・プリマティッチオ1504-1570
フランソワ1世1494-1547の孫シャルル9世1550-1574が即位すると、カトリックとプロテスタントとの宗教対立が深まった1572/8月。両者の和解を目指しカリアティードの間という広場で王の妹とプロテスタント貴族が結婚。宴の後、プロテスタントはサンジェルマン教会の鐘の音を合図にカトリックを襲撃。シャルル9世はこの暴走を抑えることができず。ルーブルも多くの血で穢された。ルーブルから始まったサン・バルテルミの虐殺1572年は国中に広がった。フランソワ1世の芸術による平和の国フランスは消え去った。
この宗教対立が収まったのは20年後のアンリ4世(パリ・シテ島の西端に騎馬像がある)が国王となり芸術の力を重んじてプロテスタントを解放した時である。復興はルーブル、宮殿の中に巨大な回廊(グランドギャラリー)を築かせたのである。アンリ4世はこの場所に多くの芸術家を住まわせて、これを拠点にフランス独自の芸術がうまれた。ガブリエル・デストレ(アンリ4世の寵愛を受けた女性 毒殺された@1599)などのフォンテーヌブロー派芸術である。これを機に実在の女性の裸体表現が広まった。これはフランスにおけるルネッサンスとも言える。
アンリ4世は、正妻・マルグリッド(淫乱のマルゴ)とは合わず、ガブリエル・デストレとの子を3人作り、正妃としたかった。マルゴには大金を持たせ、ローマ教皇の許可を得て離婚が成立。しかしフランスは戦争続きで財政難、再婚するなら莫大な持参金付きの相手が望まれていた。かくして毒を飲まされたガブリエルは4人目の子を流産すると同時に死亡した。結局犯人は不明。
・右に描かれている夫人はフランソワ1世の愛妾ヴォーホール公妃ガブリエル・デストレ1573-1599@21歳
愛妾ガブリエル・デストレは妊娠しているとの示唆
・左に描かれている夫人は妹のヴィラール公妃ジュリアンヌ・デストレ
当時ペスト(感染源は水)の流行により王侯貴族は風呂にははいらない
体臭を消すために香水が流行
デストレ姉妹は美を保つために薬草が入った水に浸かっている
芸術に於いてイタリアに遅れをとったと感じたフランソワ1世1494-1574は以下を呼び寄せる
・レオナルド・ダ・ヴィンチ 1452-1519
・ロッソ・フィオレンティーナ1494-1540
・プリマッティオ 1504-1570 ラファエロの弟子
⇒フォンテーヌブロー宮殿の装飾担当
⇒フランドル+イタリアの影響=フォンテーヌブロー派
⇒フランソワ・クルエ1520-1572
⇒ジャン・クルエ:「フランソワ1世の肖像@1530」
⇒第一フォンテーヌブロー派16世紀中
・16世紀末:アンリ4世の時代
⇒トゥッサン・デュブルイユ1558-1602
⇒アンボロワーズ・ドゥボア1543-1615
⇒第二フォンテーヌブロー派
ガブリエル・デストレとその妹ビヤール公爵夫人の肖像@1594?
第二フォンテーヌブロー派