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播磨の勇・赤松氏

2009年07月27日 | 鎌倉・室町時代

 ここで登場する赤松円心は龍野城主・赤松村秀を6代遡る豪族にあたる。また、足利6第将軍義教を1441年に暗殺(嘉吉の乱)した赤松満祐(後に管領細川持之以下有力守護大名により追討が決まり、播磨・備前・美作の兵により体制を整えたが、但馬守護の山名持豊を総司令官とする幕府軍にはかなわず播磨坂本城から木山城に後退し1441年落城する。)は赤松村秀の祖父の叔父にあたる。

 播磨国はもともと平家の知行国であった。源頼朝によって鎌倉幕府が成立すると守護制度が設けられ、最初に播磨守護となったのは北条義時と懇意の梶原景時であった。 赤松氏系図に登場する赤松則景が佐用庄地頭職に補任せられ、北条義時の娘を娶った豪族である。 則景の子、間島景能・上月景盛・櫛田有景など則景の一族には景の字が多く襲名されれおり、播磨守護梶原景時との関係が伺える。しかし梶原景時は、1199年千葉常胤弾劾状によって失脚し、討たれてしまった。この事件に際し、北条義時は梶原氏擁護の立場に廻っている。 梶原景時失脚後、播磨の守護は小山朝政が任ぜられたが、執権北条義時の息のかかった佐用庄では、たとえ梶原景時と関係の深い赤松則景であっても、守護や幕府はその佐用庄地頭職を解任することはできなかった。 赤松氏の祖家範は則景の末子となり、佐用庄の一部の赤松村の地頭代官に補せられた。 鎌倉時代、播磨に地頭として、あるいは地頭の被官として下向した東国武士は、元弘の乱から南北朝期にかけての赤松円心を中心とした赤松一族の躍進によって赤松氏の被官となり、さらに婚姻などによって一族化することで播磨国の中世は、赤松氏によって大きく開かれていく。

  則祐の死後は嫡子義則が播磨・備前の守護を継ぎ、京極・一色・山名氏とならんで四職の一家に数えられるまでになった。 義則が没すると満祐が家督を継ぐ。 ときの足利将軍・義教は専制政治を行い、有力守護大名家への介入を策し、斯波氏・畠山氏・京極氏・山名氏などの家々でも義教の意のままに家督が左右され、また、一色義貫・土岐持頼ら守護も討たれ、満祐も討たれるであろうという噂に機先を制した。すなわち、嘉吉元年1441年、満祐は結城合戦平定の祝賀と称して将軍義教を自邸に招き、宴たけなわを見計らって殺害した。 嘉吉の乱である。  京から播磨に下国した満祐は城山城に拠って、細川および山名ら幕府軍を迎えうったが、各所の戦いに赤松勢は敗戦、ついに城は落城、その身は自害して果てた。 赤松宗家は滅亡、赤松氏も衰退したが、遺臣らは満祐の弟義雅の孫政則を取り立てて赤松氏再興をはかり、応仁の乱における政則の活躍で、播磨・備前・美作の守護職にまで復活した。 かつての栄光を取り戻した赤松氏であったが、播磨回復を狙う山名氏・浦上氏との抗争によって、衰退の一途をたどっていった。 義祐のとき信長に通じて浦上氏と対抗したが、浦上宗景と戦って没落、子の則房は豊臣秀吉に従って、播磨置塩一万石を安堵され、四国征伐にも従軍して豊臣大名に列したが、その子則英は関ヶ原の戦いに西軍に属し、佐和山城に籠城後京都で自殺した。 その後の赤松氏嫡流の行方は不明である。

 後醍醐天皇の新政崩壊の前兆は北条時行の反乱に始まる。北条氏が代々守護として統治していた国で北条氏譜代の家臣が多く、諏訪神社の神官でもある諏訪氏は密かに高時の遺児である時行を匿っていたのである。また、公家の中ではかつて最も幕府とつながりを持っていた西園寺の当主・公宗がこの反乱の首謀者であった。 公宗は高時の弟・泰家を匿い、全国の北条残党を一斉発起させる予定であった。 ところが公宗の反乱は弟・公重の密告により失敗するが、1335年時行は鎌倉奪回を目指して兵を挙げた。 そして時行は尊氏の弟・直義を破って朝廷軍を追撃し鎌倉攻略に成功する。 この時直義は兄・尊氏から預かっていた護良親王を暗殺している。都では鎌倉陥落により北条の残党が集結する報がもたらされた。 足利尊氏は征夷大将軍として弟・直義の取り戻すべく軍を率いる許可を後醍醐天皇に求めたが、後醍醐天皇は拒否した。阿野廉子との間にもうけた三河の成良親王を征夷大将軍にすると、足利尊氏は無許可で鎌倉に向かった。後醍醐天皇に不満を持つ武士が尊氏を支援するとは限らない。北条時行への支持武士が多ければ尊氏の前には破滅が待っていることになるが、尊氏は勝利し、後醍醐天皇は折れた。 敗走してきた義詮と三河で合流した尊氏は遠近橋本の戦いで北条時行を撃破し鎌倉を陥落させたのである。 一方京では反乱の首謀者である西園寺公宗は北条泰家とともに死罪に処せられた。この時後醍醐天皇は尊氏に京へ戻るように命令するが、弟の義詮はそれを制し結果的には鎌倉に居を定め、配下の武士に恩賞を与えることによって実質的には幕府を復活したのである。 そして足利尊氏・直義兄弟は新田義貞を討つために兵を募った。新田義貞は後醍醐天皇側の武士であり後醍醐天皇より尊氏尊氏追討の命を受けたのは1335年11月であった。この時尊氏は天皇に逆らうことはできないと参戦しなかったため、新田義貞は足利直義を破る。 直義の敗戦を聞いた尊氏は鎌倉の建長寺に入って出家しようと考えたが、直義の画策により再び発起し、新田義貞を敗走させた。 これを機に中立派の武士が続々と尊氏の新政権に加担を表明したのである。その代表が赤松円心という流通業で富を得た播磨の武士である。1335年十二月には鎌倉から京へ攻め上がり1336年1月11日には京へ突入すると、後醍醐天皇は京を捨て比叡山に避難する。しかし今度は京の市中の合戦で尊氏は新田義貞に惨敗した。楠木正成の謀略が加勢したらしい。また公家でありながら武士以上の軍事力を持つ奥州の北畠顕家が後醍醐天皇の危機を救うべく上洛してきたのである。 尊氏は敗れて丹波から播磨を経由し、ここで播磨の武士・赤松円心を寝返らせると九州で兵を募るという知恵も授かった。 そして南北朝時代に突入する決定的な作戦をも授かった。 それは持明院統の光厳上皇から京回復の院宣を貰うというものである。かくして後醍醐天皇の大覚寺統と光厳上皇の持明寺統の争いが本格的に始まる。 足利尊氏が九州で兵を募っている間、赤松円心は播磨白旗城で新田義貞軍と奮闘し、尊氏は十数万の軍を率いて京に攻め上がった。しかも伊予の河野水軍をも見方につけて瀬戸内海を進撃してきた。後醍醐天皇は楠木正成に尊氏追討を命じると弟・正季とともに兵庫・湊川の合戦が始まった。主力の新田義貞は脆くも崩れ、楠木正成軍は僅か73騎になり力尽き、兄弟で刺し違えた。孤立した後醍醐天皇が比叡山に篭っている間、尊氏は1336年五月、京の石清水八幡宮に本陣を構え、光厳上皇と豊仁親王と合流した。そして光厳上皇に豊仁親王の天皇即位を要請する。 北朝第二代光明天皇の誕生である。足利尊氏は強大な軍事力で後醍醐天皇を追い詰め、三種の神器を光明天皇に渡し、正式に譲位するかわりに後醍醐天皇の皇子が、光明の皇太子になるという和議を持ちかけ、後醍醐天皇は承諾したのである。息子の成良親王を皇太子とすると京を脱出して吉野に入った。そして「光明に渡した三種の神器は偽物であり朕こそ真の天皇である。朕に忠誠を誓う者は逆賊尊氏を討て」と言った。この日から南北朝が統一される1392年までの56年間に渡り皇室は分裂することになる。この直後1338年、後醍醐天皇は北畠顕家、新田義貞という両腕を亡くし、翌1339年に義良親王を皇太子とすると亡くなった。

村上天皇-具平親王-源師房1008-1077
          ┣顕房1037-1094-季房┳忠房-憲房-憲政-豪運-昌運-昌明-行明-行盛-行高-名和長年?-1336
          ┃         ┗季則--赤松則景-家範-重則┓
         藤原尊子1003-1087(藤原道長娘)                   ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ 
┗赤松則村(円心)1277-1350⇔後醍醐天皇1288-1339(鎌倉倒幕の功立てるが冷遇)
  ┣赤松範資 ?-1351円心とともに足利尊氏派
  ┣赤松貞範1306-1374(姫路城基礎築く) 
  ┣赤松則祐1314-1372 
  ┃ ┣赤松義則1358-1427(弥勒寺本堂再建)
  ┃ ┗有馬義祐-1421 ┣義雅-時勝 
  ┃ (摂津有馬氏祖)  ┗赤松満祐1381-1441⇔義教1394-1441(嘉吉の乱)  
  ┃           ┣赤松教康1423-1441 幕府軍(山名宗全)追討を受け自殺
   ┃           ┗赤松時勝 
   ┃   置塩城を築城 ← ┗赤松政則1455-1496(室:細川勝元娘 赤松氏を再興)
   ┃              ┗娘  ┗赤松村秀1480-1540(庶流) 
   ┗赤松氏範1330-1386      ┣  ┗赤松政秀?-1570┳政広1562-1600竹田城主 
    ┣氏春      (置塩城主)赤松義村?-1521   ┏娘┛
    ┣家則           ┣赤松晴政 1513-1565
    ┣祐春           ┃ ┗赤松義祐1537-1576 信長に通じる
    ┣季則           ┃   ┗赤松則房?-1598 秀吉に仕える
   ┗乙若丸          ┗政元1500-上月城主 ┗則英?-1600 関ヶ原では西軍・自害(赤松氏嫡流は途絶える)

上杉清子  
┣足利直義1306-1352    ⇔  新田義貞1301-1338  
┗足利尊氏1305-1358    ⇔  後醍醐天皇1288-1339
  ┃┣義詮1330-1367                     ┃┃      ┏憲忠1433-1455
 ┃┃┃藤原慶子                       ┃┃関東管領上杉氏 ↑      
 ┃┃┃┣義持1386-1428 管領斯波義将⇔朝廷  ┃┃       享徳の乱1455-
 ┃┃┃┃ ┣義量1407-1425              ┃┃     ↑  ↓
 ┃┃┃┃栄子 武者小路隆光         ┃┃三宝院満斎↓┏成氏1438-1497
 ┃┃┃┃   ┣━━━━ 娘         ┃┃関東公方足利持氏   
 ┃┃┃┃   ┗円満院  ┣細川澄之     ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┣潤童子 九条政基      ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃  大内義興娘      ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃斯波氏┣義栄ヨシヒテ1538-1568┃┃(三好氏で養育)   
 ┃┃┃┃    ┃┣義維1509-1573      ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃┃日野永俊娘          ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃┃┣義晴1511-1550      ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃┃┃┣義輝1536-1565    ┃┃⇔ 松永久秀(1565永禄の変)   
 ┃┃┃┃    ┃┃┃┣義昭1537-1597(覚慶)┃┃  (三好三人衆:義栄派)  
 ┃┃┃┃    ┃┃┃近衛娘          ┃┃  伊勢貞親1417-1473 
 ┃┃┃┃斉藤氏 ┣義澄(清晃)⇔┏茶々丸   ┃┃⇔┏北条早雲1432-1519伊勢氏   
 ┃┃┃┃  ┣政知1435-1491関東堀越公方  ┃┃ ┗北川殿  
 ┃┃┃┣義教1394-1441(義円) ⇔ 赤松満祐  ┃┃  ┣竜王丸(氏親)⇔┏小鹿範満 
 ┃┃┃┃  ┃  ┃      1381-1441   ┃┃  今川義忠1436-1476駿河守護 
 ┃┃┃┃  ┃  ┃             ┃┃   
 ┃┃┃┃ ? ┣-  ┣義勝1434-1443        ┃┃満元┓   
 ┃┃┃┃ ┣宗子  ┣義政1436-1490乳母伊勢氏 ┃┃管領細川持之1400-1442     
 ┃┃┃┃ ┃-1447 ┃┃┣女児         ┃┃ ┗細川勝元1430-1473 
 ┃┃┃┃ ┣義資  ┃┃今参局-1459      ┃┃   ┃┗政元1486-1507(明応政変)
 ┃┃┃┃ ┃┗重政┃┣義尚1465-1489       ┃┃   ┣-    ┣澄之(養子)
 ┃┃┃┃ ┃  ┣┃日野富子1440-1496    ┃┃ ┏春林寺殿 ┗澄元(養子) 
 ┃┃┃┃ ┃    ┣┃日野勝光1429-1476内大臣 ┃┃ ┣豊久(細川養子→出家) 
 ┃┃┃┃ ┃    ┃┃┗娘義尚夫人         ┃┃山名持豊(宗全)1404-1473播磨守護   
 ┃┃┃┃ ┃  ┃┣義視1439-1491(義尋)   ┃┃   
 ┃┃┃┃ ┃  ┃┃┣義材1466-1523⇔政元  ┃┃満家(山城守護)┓   
 ┃┃┃┃ ┃  ┗┃日野美子 妙音院       ┃┃管領畠山持国1398-1455   
 ┃┃┃┃ ┣重子1411-1463⇔今参局          ┃┃畠山持富⇔┗義夏(義就)義政保護   
 ┃┃┃┃日野重光(左大臣)1374-1413         ┃┃ ┗政長(勝元保護)┗畠山基家 
 ┃┃┃┃春日局                ┃┃           ┗義英
 ┃┃┃┃┣義嗣1394-1418                 ┃┃   
 ┃┃┃┃┃ ┗嗣俊(鞍谷氏)              ┃┃  
 ┃┃┃┃┃ 日野康子   ┏━━━━━━━━━┛┃ 
 ┃┃┃┃┃ ┣-      ┃┏━━━━━━━━━┛ 
 ┃┃┣義満1358-1408   ┃┣成良1326-1344(光明皇太子)  
 ┃┃┃   ┣女子    ┃┃
 ┃┃┣満詮 日野業子   ┃┣義良(後村上天皇)1328-1368  
 ┃┃紀良子        ┃┃┣寛成(長慶天皇)1343-1394                
 ┃┃藤原仲子(崇賢門院) ┃┃┃                
 ┃┣基氏1340-1367    ┃┃┣熙成(後亀山天皇)1347-1424                
 ┃赤橋登子        ┃┃藤原勝子?-?嘉喜門院
 ┣直冬1327-1400      ┃阿野廉子1301-1359             
 越前局           ┣護良親王1308-1335 
                    ┣懐良親王1329-1383 
            源師親娘

 

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