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松平定信は名君?

2011年03月24日 | 池波正太郎 江戸時代

 田沼意次の失脚で権力の座についた松平定信は、蝦夷地を幕府直轄とせずに従来通りの松前藩委任にこだわった。 ロシアは南下政策をとっていることは幕府は認識していた。 ならば田沼意次やその失脚後に蝦夷地担当となった老中格の本多忠籌が考えていたように、蝦夷地をたった一万石の松前藩からとりあげて幕府直轄の地とするべきであろう。 しかし松平定信はこれに大反対し、松前藩に委任した。 その理由は幕府に交易をさせたくないということである。 つまり蝦夷地を直轄にすれば、神聖なる幕府が蝦夷という野蛮人と商売をすることとなり、それは断じて許せないとなる。 松平定信が朱子学の熱烈な信者であり、農業を国の根幹政策とし商業を悪とみなしたことを考えれば納得できる。 ゆえに松平定信は田沼意次の通称開国という幕府が商売をすることによって財政を立て直すことには反対であった。 そして田沼意次の息子の意知の暗殺にも加担したといわれている。 幕府の財政は破綻していたから合理的には農業政策から商業重視路線をとらざるをえなかったはずであるが、決してその道はえらばず幕府は滅びの道をえらんだが、松平定信はそれが正しいと確信していたのには、朱子学ではそれが正義であるからである。  江戸時代の日本は金貨と銀貨という二通貨という不合理な体制であり、田沼意次はこれを解消するために二朱銀を発行したが、田沼意次失脚後はこれの鋳造停止した。 松平定信は田沼意次政策の否定を目的に国益を無視した。 

 松平定信の非理性的な愚行は蝦夷地問題の対応にも現れている。 田沼意次は蝦夷の事情を知るとただちに有能な人材を集めて蝦夷地調査団を派遣した。 そして地勢、風俗、ロシア人の進出程度などを調査した。また樺太方面も探検させた。 これによってのちに幕臣・間宮林蔵が間宮海峡を1809年に発見し樺太が島であることを確定させたのである。 ことろが、将軍徳川家治が急死し田沼意次が失脚すると、松平定信は調査団の成果をなかったことにする行動に出た。 調査団の長・松本秀持は罷免され、秀持の片腕で、蝦夷地問題を担当した土井孝之は、死罪に処せられている。 もちろん調査結果は松平定信の命により闇に葬られた。

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