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からくり人形師で東芝の創業者・田中久重

2020年04月02日 | 池波正太郎 江戸時代

 田中久重1799-1881は、「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」と呼ばれた発明家で、東芝の創業者でもある。筑後国久留米の細工師・田中弥右衛門の長男として生まれ、幼名は儀右衛門。当時流行していたからくり人形の新しい仕掛けを次々と考案し、26歳の時に大阪・京都・江戸でも興行を行い、その名を知られるようになる。 中でも大阪では1万人の集客を行い50日を超える興行を行ったという。

 時代が天保になると飢饉が遅い、興業ができなくなる。久留米から大阪に移住して行ったことは多くの人々からの聞き取り調査を始め、大阪の人々が何に困っているのかを調査し始めたのである。かくして1837年に生み出したのが無尽灯と名付けた照明器具で、ろうそくの10倍の明るさを持ち安定して点灯した。これにより商売が軌道に乗ると、京都で工房を立ち上げて、40人ほどの従業員を抱えるほどになった。そして1851年、季節によって昼夜の時刻の長さの違う不定時法に対応して文字盤の間隔が全自動で動くなどの発明が不朽の名作と云われる万年時計こと万年自鳴鐘(国立科学博物館所蔵)であった。

 さらなる追求の為に、工房の切り盛りを弟子たちに任せて、自分は53歳にして蘭学者・広瀬元恭の塾・時習堂の門下生となった。ここで、物理、科学,軍事を学びぶこととなる。当時田中は、蒸気機関に関する翻訳書を目にして、その原理や構造を学んだ。かくして田中は蒸気機関で動く船の模型を製作し、天皇の側近である関白の庭で披露したことで大いに称賛された。その翌年、日本にペリーの黒船がやってきたのである。1853年。この時いち早く蒸気機関に取り組んでいた佐賀藩が田中を蒸気船建造の技術開発者として招いた。これに応じた田中は理化学の研究班・精錬方に所属し、国産初の蒸気船研究に明け暮れた。その試行錯誤の結果は、外輪船の雛型や蒸気機関車の模型として今も鍋島徴古館に収められている。かくして2年後の1865年に、実用的に運用された国産初の蒸気船である「凌風丸」が三重津海軍所にて完成。長さは18m、幅3.4m、10馬力の外輪船で、主に公人の輸送に使われた。

 明治になり、久重75歳の時東京に移住して会社を立ち上げると電信機機の製造を行った。これが後の東芝の礎となったのである。そして製氷機、自転車、精米機、風呂釜、傘製造機、写真機なども製造した。

「凌風丸」を完成させた三重津海軍所

佐賀の反射炉

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